https://news.yahoo.co.jp/articles/6cebb4ea08c28382d4c38a233c411406cecdcb6a?page=1 Newsweek 5/7(木)
新型肺炎が日本特有の硬直したガバナンスや役人の無責任な隠蔽体質を改めてあぶり出している
新型コロナウイルス禍は、世界各国のガバナンスに潜む断層をあらわにし、日本、アメリカ、ロシアなどでは政権の命運にも関わる事態になってきた。
「コロナ失業」のリスクが最も高い業種は?
日本の場合、国家の仕組みにいかにも余力がない。コロナ禍が起きただけで検査体制や患者の収容能力がパンクしている。貧乏国だった頃からの惰性で、保健所や病院、消防救急や警察などは人員と設備がいつもギリギリの常時「ブラック企業」。少しでも欠員が出るともうお手上げ、という感じで働いている。
今回も厚生労働省は、「やたら検査をして陽性者を増やすと患者が病院に殺到し、重症者の受け入れが困難になる」という理屈を振り回し、本当は検査数を増やしたくとも増やせない状況にあることを正直に説明しなかった。検査数を増やし、軽症者も(ホテルでいいので)隔離することで感染拡大はかなり防ぐことができたはずだが。
この状況を見かねたのか、首相官邸が介入した。だが、それでもPCR検査の数は3月末まで増えず、情けないことにマスクは店頭から姿を消したままだ。専門外の企業は政府にいくら頼まれても、検査機器や人工呼吸器などを製造して問題を起こしたら目も当てられない、と考える。
厚労省の役人は、まだ認可もしていない機器の使用を認めて、後で問題が起きたら訴訟されるのは自分たちだと考え、重い腰を上げない。
1980年代末に起きた「薬害エイズ事件」は、96 年に当時の菅直人厚生相がスタンドプレー的に同省の過誤を証明する文書を省内で「発見」させ、担当課長が業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。「何かあると、政治家の人身御供にされるのはわれわれだ」という恐怖が、官僚に染み付いているのだ。
この、誰に責任があるとも言えない不作為が積もり積もった金縛り体制の中、世間は実態が分からないまま、戦時中の大本営発表さながらに当局が発表する「本日の新たな感染者数」に一喜一憂するばかり。感染者が少ないからといっては行楽に出掛け、多くなったといっては政府に緊急事態宣言の発出をせかす──。当局が感染者数に加えて「検査件数」も迅速に公表すれば、感染度の増減が詳細に分かるのだが。
緊縮ありきの財政原則を改めよ
日本特有の硬直したガバナンスや、役人の無責任な隠蔽体質などの諸悪が再びあらわになった理由は、感染症に備えた体制が不備だったことに尽きる。隔離病棟やそのスタッフ、検査体制のいずれも「お印」程度のものでしかない。諸外国の論調でちらほら出てきたが 、政府も企業も人員と機材には少々の予備を保持しておくべきなのだ。日本は官も民も人員や設備がいつもギリギリの状態にある。皆が1カ月の休暇を安心してまとめて取れるような体制にしておけば、今回のような有事にも必要人員を確保しやすい。それは、設備や機材も同様だ。
そしてそれは、(これも外国で指摘され始めているが)緊縮を至上原理としてきた財政原則の見直しの必要性も意味する。確かに財政に規律は絶対必要だ。そうでなければ予算は政治家の圧力案件で野放図に拡大する。だが財務省のプライマリー・バランス主義を緩和し、歳出が歳入を若干上回るあたりに目標を置く気構えを持つべきだ。
コロナ禍を奇貨として、日本のガバナンスを変えよう。オンブズマンを各分野に任命し、予算と人員不足が重大な結果をもたらし得るリスクについて、首相官邸をはじめ内閣官房、与野党、マスコミに通報し、その検証を進めるべきだ。この面での不作為は、「未必の故意」に相当する。
<2020年5月7-12日号掲載>
感想;
「未必の故意」
公務員試験の勉強でこの言葉を初めて知りました。
そこにあった説明です。
「石を投げても当たらないし、当たっても死ぬことはないと思って投げるのと、石をなげるとひょっとして当たって死ぬかもしれないでは大きな違いがある。後半の行為を『未必の故意』とよび、罪が重い」
つまりPCR検査を抑制すると、感染者を増やし、かつ重症化させ多くの国民を死亡させるが仕方ない」と思っていると、これは未必の故意が適用され罪が重いのです。
PCR検査を抑制してもそんなことはないと思っているとしたら、よっぽど、現状を理解できない人なのでしょう。
怪我して血がたくさん出ている人を見て、いずれ血は止まるから放っておいても大丈夫と思っているようなものです。
国民が苦しんでいてもそれへの思いができず、トップが星野源さんに曲のコラボして、犬を抱いて、温かい飲み物を飲んでいる姿。
周りの側近も諫言する人はいないようです。
新型肺炎が日本特有の硬直したガバナンスや役人の無責任な隠蔽体質を改めてあぶり出している
新型コロナウイルス禍は、世界各国のガバナンスに潜む断層をあらわにし、日本、アメリカ、ロシアなどでは政権の命運にも関わる事態になってきた。
「コロナ失業」のリスクが最も高い業種は?
日本の場合、国家の仕組みにいかにも余力がない。コロナ禍が起きただけで検査体制や患者の収容能力がパンクしている。貧乏国だった頃からの惰性で、保健所や病院、消防救急や警察などは人員と設備がいつもギリギリの常時「ブラック企業」。少しでも欠員が出るともうお手上げ、という感じで働いている。
今回も厚生労働省は、「やたら検査をして陽性者を増やすと患者が病院に殺到し、重症者の受け入れが困難になる」という理屈を振り回し、本当は検査数を増やしたくとも増やせない状況にあることを正直に説明しなかった。検査数を増やし、軽症者も(ホテルでいいので)隔離することで感染拡大はかなり防ぐことができたはずだが。
この状況を見かねたのか、首相官邸が介入した。だが、それでもPCR検査の数は3月末まで増えず、情けないことにマスクは店頭から姿を消したままだ。専門外の企業は政府にいくら頼まれても、検査機器や人工呼吸器などを製造して問題を起こしたら目も当てられない、と考える。
厚労省の役人は、まだ認可もしていない機器の使用を認めて、後で問題が起きたら訴訟されるのは自分たちだと考え、重い腰を上げない。
1980年代末に起きた「薬害エイズ事件」は、96 年に当時の菅直人厚生相がスタンドプレー的に同省の過誤を証明する文書を省内で「発見」させ、担当課長が業務上過失致死罪で有罪判決を受けた。「何かあると、政治家の人身御供にされるのはわれわれだ」という恐怖が、官僚に染み付いているのだ。
この、誰に責任があるとも言えない不作為が積もり積もった金縛り体制の中、世間は実態が分からないまま、戦時中の大本営発表さながらに当局が発表する「本日の新たな感染者数」に一喜一憂するばかり。感染者が少ないからといっては行楽に出掛け、多くなったといっては政府に緊急事態宣言の発出をせかす──。当局が感染者数に加えて「検査件数」も迅速に公表すれば、感染度の増減が詳細に分かるのだが。
緊縮ありきの財政原則を改めよ
日本特有の硬直したガバナンスや、役人の無責任な隠蔽体質などの諸悪が再びあらわになった理由は、感染症に備えた体制が不備だったことに尽きる。隔離病棟やそのスタッフ、検査体制のいずれも「お印」程度のものでしかない。諸外国の論調でちらほら出てきたが 、政府も企業も人員と機材には少々の予備を保持しておくべきなのだ。日本は官も民も人員や設備がいつもギリギリの状態にある。皆が1カ月の休暇を安心してまとめて取れるような体制にしておけば、今回のような有事にも必要人員を確保しやすい。それは、設備や機材も同様だ。
そしてそれは、(これも外国で指摘され始めているが)緊縮を至上原理としてきた財政原則の見直しの必要性も意味する。確かに財政に規律は絶対必要だ。そうでなければ予算は政治家の圧力案件で野放図に拡大する。だが財務省のプライマリー・バランス主義を緩和し、歳出が歳入を若干上回るあたりに目標を置く気構えを持つべきだ。
コロナ禍を奇貨として、日本のガバナンスを変えよう。オンブズマンを各分野に任命し、予算と人員不足が重大な結果をもたらし得るリスクについて、首相官邸をはじめ内閣官房、与野党、マスコミに通報し、その検証を進めるべきだ。この面での不作為は、「未必の故意」に相当する。
<2020年5月7-12日号掲載>
感想;
「未必の故意」
公務員試験の勉強でこの言葉を初めて知りました。
そこにあった説明です。
「石を投げても当たらないし、当たっても死ぬことはないと思って投げるのと、石をなげるとひょっとして当たって死ぬかもしれないでは大きな違いがある。後半の行為を『未必の故意』とよび、罪が重い」
つまりPCR検査を抑制すると、感染者を増やし、かつ重症化させ多くの国民を死亡させるが仕方ない」と思っていると、これは未必の故意が適用され罪が重いのです。
PCR検査を抑制してもそんなことはないと思っているとしたら、よっぽど、現状を理解できない人なのでしょう。
怪我して血がたくさん出ている人を見て、いずれ血は止まるから放っておいても大丈夫と思っているようなものです。
国民が苦しんでいてもそれへの思いができず、トップが星野源さんに曲のコラボして、犬を抱いて、温かい飲み物を飲んでいる姿。
周りの側近も諫言する人はいないようです。