幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

入管で死亡したスリランカ人女性ウィシュマさんの裁判 国側は全面的に争う構え 来日した妹「裁判でビデオを全面開示して」 ”入管に落ち度があるのは自明、無駄なことに税金使わないでいただきたい”

2022-05-28 20:02:52 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/21cfdaac291e8385207c618b8727683e14a3ad96【独自】5/28(土) 15:59TBS NEWS DIG Powered by JNN

名古屋の入管施設で死亡したスリランカ人女性の遺族が国に損害賠償を求めている裁判で、国側は全面的に争う姿勢を示していることが分かりました。

スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさん(33)は、名古屋の入管施設で収容中に体調不良を訴え、点滴や入院を求めましたが対応されないまま、2021年3月に死亡しました。

遺族は「入管が適切に対応していれば命は救えた」として、国におよそ1億5600万円の損害賠償を求めて裁判を起こしていますが、原告側によりますと、国は全面的に争う姿勢であることが新たに分かりました。詳細は裁判の過程で明らかにするということです。

裁判のため、28日朝、来日した妹のワヨミさんは・・・

ウィシュマさんの妹 ワヨミさん(29)
「裁判で真相を解明するために来日しました。裁判で(死の直前の様子を記録した)ビデオを全面開示してほしいです」

第1回の口頭弁論は6月8日、名古屋地裁で行われます。

感想
裁判費用を考えたら、和解して欲しいです。
相手が欧米人だったら、まず死ぬことはなかったです。
そして、即和解でしょう。
バイデン大統領が一言言えば、岸田首相は「わかりました」で終わりです。
スリランカの首相は言ってこないからです。
相手を見て対応しています。
まさに入管の関わった職員の態度でした。
自分の家族だったら、同じように放っていたでしょうか?

【ヒューマン】芸能生活20年の中川翔子 学校も芸能界も「駄目じゃん」からの大逆転 夢叶えまくりストーリー ”失敗を恐れずチャレンジしてみる!”

2022-05-28 11:11:44 | 社会
https://www.sanspo.com/article/20220528-Z5RXP7OKRRKOJHV6P3WF4JDBSE/ サンスポ2022/05/28 07:30

歌手、声優、情報番組のコメンテーターとマルチに活躍する中川翔子(37)が芸能生活20周年を迎えた。6月8日には10年ぶりの写真集「ミラクルミライ」(講談社)を発売。年齢を超越したビキニ姿で抜群のプロポーションを披露するなど、常に話題を提供し続ける。デビュー当時、いつ事務所をクビになっても不思議ではなかったヲタク少女がブログとの出会いによって人生を切り開き、「しょこたん」というキャラクターを確立した軌跡を追った。(ペン・山下伸基、カメラ・蔵賢斗)

東京五輪や大阪万博のマスコット選考に携わるなど「多才」という言葉がこれほどしっくりくるタレントはなかなかいない。だが、表現する場がないと宝の持ち腐れだ。中川は才能を開花させてくれた当時のマネジャーに感謝する。

デビューした2002年に「ミス週刊少年マガジン」に選ばれたが仕事には恵まれず、番組のオーディションにも次々と落ちていた。「芸能界への憧れよりも、アニソンを歌いたい、戦隊もののヒロインになりたいと思っていました。ヲタクが虐げられていた時代。学校生活がうまくいっていなかった私は、芸能界も駄目じゃん、辞めようかなと思っていました」と振り返る。

実際に事務所をクビになりかけたが、マネジャーが「中川は何かを持っています」と掛け合い、残留。「そのマネジャーに、思いのたけをぶちまけようと『写真付きの日記をやりたい』と提案したら、リスク管理とか大変なのに『いいよ』って言ってもらえたんです」。ブログという言葉が浸透し始めた04年のことだった。

「アニメやゲーム、コスプレとか、好きなことをたくさん書きまくりました。学校では出会わなかった同じ趣味の人が『私も好きです』と反応してくれて、やっと息が吸えた。私の得意分野を表現する自由な場所を手に入れたんです」

「しょこたん☆ぶろぐ」は幅広い世代の共感を得て、開設3年あまりで前人未到の総アクセス数10億超えを記録し、社会現象に。恥ずかしく隠したい感情でもあったヲタク感情は、中川の発信力で市民権を得て、堂々とアニメやコスプレの趣味を公言できる時代になった。

また、「アニソンを歌いたい」「海外でライブがしたい」「深海に潜りたい」とブログに書いた夢はことごとくかない、マネジャーに「デスノートならぬドリームノートだな」とまで言われた。「当時のマネジャーをはじめ、皆さんのおかげで感謝と奇跡の20周年を迎えられています」とかみしめるように語る。

SNSの進化に合わせブログからツイッター、現在はYouTubeが主戦場。「映像で太った自分に気付いてダイエットに挑戦し、腹筋ローラーやウオーキングで8キロ痩せました。それでビキニ姿になったらアクセス数がすごいこと(1255万再生)になって、写真集のオファーが来ました」と反響に驚きつつ「水着のイメージがなかったんでしょうね。私『ミスマガジン』の出身なのに。20代の頃、全然需要がなかったグラビアが、今〝回収〟されました」と大笑いだ。

37歳の今でも「しょこたん」と呼ばれ、年齢を超越したエイジレスという言葉がぴったりだが、「将来はシャンソン歌手になりたいんです」と意外な夢も告白。「そのためには貫禄や説得力がないと歌えない。喜びや悲しみを全部知り尽くさないと説得力が出ないですから」と、これから待ち受ける人生経験にも心躍らせる。

プライベートでは「ビーフシチューや野菜の水分だけで作るクリームシチューなど、自炊しています。調味料を集めて料理するのも好き」と家庭的な一面も。

20年で特にうれしかったことを聞くと、「子供たちの思い出に残ることができればと常々思っていたので、保育園の先生が私の描いたイラスト画を園児の塗り絵に使っていることを知ったときですね」と目を細めた。

世の子供たちに向けては「今好きになったことが、絶対に未来の自分を助けてくれる。人の視線を気にせず、思いっ切り好きなことを楽しんで」とメッセージ。しょこたんの金言が明るい日本の未来を照らし出す。

◆歌手だった父の「足跡たどって」 9歳のとき、歌手だった父、中川勝彦さん(享年32)が白血病で他界した。「いつも家にいなかったので反抗ばかりしてました。だから芸能界に憧れはなかった。なのに父が歌った会場でライブをしたり、足跡をたどっている。父は多才だったのでSNSがあったら絶対にやっていたと思う」とも。勝彦さんが出演していた生前の映像作品を見たり、CDを聴くこともあり、「芸能人って生きた証が残せる素晴らしい仕事だな」としみじみ語った。

◆中川翔子(なかがわ・しょうこ) 1985(昭和60)年5月5日生まれ、37歳。東京都出身。2001年にポポロガールオーディションでグランプリに輝き、本格デビューした翌02年に「ミス週刊少年マガジン」を受賞。06年に「Brilliant Dream」で歌手デビューし、07年のNHK紅白歌合戦に出場。ブルース・リー、ジャッキー・チェン、漫画家の楳図かずお氏を敬愛する。157センチ。

感想
自分のやりたいことを恐れずにチャレンジすることなのでしょう。
チャレンジしてみると、助けが現れることもあるようです。

何もチャレンジしないことが、一番のリスクなのかもしれません。

夫のADHDでホームレスに…「カサンドラ症候群」の妻の「夫を変えた」ひと言 ”個性を大切にするか、普通を優先するか”

2022-05-28 10:44:48 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/0eb87aa4f7e7f11b9fd3b19d00fe0d0d9c802f11?page=1 5/28(土) 7:02 現代ビジネス

 ホームレスからチャンネル登録者数33万人超え(2チャンネル合計)の動画クリエーターになったナカモトフウフ。沖縄での生活、旅行、ファッションなど興味ある事を日々配信する中で、夫・ダイスケさんのADHDに関する動画の再生回数は400万回を超え、注目を集めています。

【漫画で見る】ADHDの人の「謎の行動」その理由

 とはいえ、ここに来るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。妻であるちゃんまりさんがADHDの夫の行動に振り回され悩み苦しんだ日々からどのように脱出したのか『ADHDの旦那って意外と面白いんよ 本気で発達障害に向き合った夫婦の物語』にまとめられました。

 本書より抜粋の上再編集した記事からお届けする短期集中連載。1回目はつきあってすぐにADHDを伝えられたこと、第2回は妻のちゃんまりさんがADHDの特性を知って考えた対策についてお伝えしました。ちゃんまりさんの視点でお伝えした2回に続き、第3回は、ダイスケさんの視点で、カサンドラ症候群となってしまった妻のちゃんまりさんから言われた「言葉」についてお伝えします。

ADHDが原因でホームレスに
 自分と周りとの違いに気付き始めたのは思春期に入った頃。発達障害で周りとコミュニケーションをうまく取れず、ただひたすらに問題行動と誤解されることを繰り返す日々でした。「親にも迷惑をかけているし、このままじゃマズい」という焦燥感に駆られた僕は、自分を変えるために高校3年の夏に生まれ故郷の沖縄から、単身北海道へ行く決意をしました。

 北海道で高校を卒業し、その後は寿司職人として働き始めました。しかし人間関係がうまく噛み合わず、さらには厳しい仕事で体調を崩し、恩を仇で返すかたちで店を辞めることに。その後はアルバイトを転々とする日々。ついには貯金もなくなりホームレスになったのです。

 ホームレスでアルバイトを続け、社会生活ができない自分に疲れ果てた僕は、自分がもしかするとサイコパスや自己愛性パーソナリティ障害じゃないかと思い、病院に調べに行きました。診断結果はADHD。このときはADHDのことなどほとんど知りませんでした。
「何かわからないけど俺は障害者だったんだ。異常者じゃなくてホッとした」
このときに僕が感じたのはその感情だけ。自分が異常者じゃないことを知れたというだけで満足だったから、特に治療はうけませんでした。

 ADHDは、自分の好きなことには熱中できるけど、苦手なことは全くできないといい特性を知った僕は「とにかく好きなことを好きにやろう」と思い、当時一番好きだったカメラでプロを目指すことを決意。

 しかし趣味カメラマンがいきなり写真で飯を食えるはずもなく、再びホームレス生活となるのですが、それも僕には想定内のことだったのです。

自己中なカミングアウト
 わけわからん組織で、わけわからん時間の奪われ方をするくらいなら、ホームレス生活の方がまだ夢に集中できる、貯金が尽きる前にプロカメラマンになればいいと思い地道に営業を続けた日々。そして貯金が尽きるギリギリのところでカメラマンとして食べていけるようになり、1年後には自分のスタジオとアシスタントを雇えるようになりました。

 プロカメラマンとして順調な生活が始まり、「誰の指図も受けず、組織のストレスにも潰されずにADHDを乗りこなして自立できている!」ほんの少しだけ人生で初めて自信が持てたこの時期に出会ったのが、ヘアメイクの仕事をしていた妻です。

 もうADHDを乗りこなしていると確信した僕は、付き合う際に、とても軽々しくカミングアウトしたのを覚えています。

 「俺、ADHDだから遅刻とか物忘れが多いと思う! でも仕事も生活も支障ないから大丈夫!」

 好きなことを見つけて、どんなかたちでもいいのでそれを続けることで初めてついた自信。その自己肯定感があれば、障害を言い訳にする必要がなくなるので、カミングアウトを容易にすると感じます。

 カミングアウトされた人がそれをどう思うかはまた別問題だし、二人で一生を共にすると決めた後の苦しみは、また別問題ですけど。

薬の副作用
 交際開始からしばらくして、妻と仲間とともに沖縄に移住し、スタジオを立ち上げました。スタジオ設立のために貯金をほとんど使い果たしてのスタートで、まだまだ稼ぎもない状態。それも既定路線であり順風満帆に感じていたのは僕だけで、相次ぐスタッフの離脱を生み、最終的に妻と僕の二人だけになりました。

 ボロアパートを借りて、毎日僕は朝夕に魚を釣り、妻は近所でアルバイト。このときは貧乏を楽しんだ記憶すらあり、ADHDで人間関係が続かない自分を忘れていました。しかし、同棲を初めてからの妻は僕の行動に戸惑うことが多く、次第に「言った、言わない」などの問答が繰り返され、妻を苦しめることになったのです。

 自分のせいで愛する妻が苦しむのは耐えられなかったので、カウンセリングや投薬治療を受けて医学的アプローチを試すことにしました。
検査結果は不注意と衝動性の非常に高いADHD。とにもかくにも薬を処方してもらい、藁にもすがる思いで服用することに。

 確かに忘れ物などは減った。
人との会話も覚えることができるようになり、発言する前にまず考える。
行動する前にまず考える。

 こうした当たり前の行動が少しずつできるようになりました。しかし根本から治ったという感覚ではなく、常に自分の行動・発言に強迫観念や疑念を抱き、「半強制的に薬に自分自身を疑うように仕向けられている」という感覚に近い。発達障害は病気のようには治らないものなので、その現実を知った瞬間でもありました。

妻の一言に泣いた夜
 服用する度に仕事への情熱・行動力・決断力が失われ、「自分の感覚が変わっていく恐怖」を感じました。「やれ」と言われた仕事は失敗せずにできるけど、自発的に何かはやりたくない。いや、できない。そんな感覚が芽生えるようになり、薬の服用はやめました。また元に戻る心配はありましたが、仕事への情熱・行動力や「自分の感覚」まで失う不安の方が大きかったから。

 もし薬の服用を続けていたら、その違和感の先に世間一般で言う「普通」の感覚があったのかもしれない。でも、世間にとっての「普通」は、僕にとっての「普通」ではなかったのです。

 ADHDとしての自分の長所を自認することができ、本当の意味でADHDである自分を受け入れることができた気がします。
薬の服用と通院をやめた後、自分の至らぬ所は自発的に反省するようにし、妻には極力逆らわないという誓いを自分に立てました。

 ADHDを本当の意味で乗りこなすには、自発的な気付きが必要です。僕の場合、その気付きを得るためのトリガーになったのは妻への愛でした。

 結婚とは、いかなることも二人の問題で、「僕とADHD」という構図ではなく、「僕らとADHD」ということになります。妻は自発的にそれを学び、理解し、僕に教えてくれました。

 「これはあなただけの問題じゃない、二人の問題だから二人で解決しよう」

 この一言が嬉しくて、夜一人で泣きました。大人になって、人の優しさに触れて泣いたのはこれが初めてでした。妻の理解の上で僕は自分の特性を最大限に発揮することができたのです。

ADHDから自分を守る方法
 僕には、あきらめようと思えばいくらでも人生を投げ捨てるタイミングがありました。しかし腐らずに自分と向き合い続けたから、妻と出会うことができました。そして、その妻が僕にとっての最後のピースを埋めてくれたのです。

 発達障害によるハンデを抱えた人間が唯一できることは、自分の人生をあきらめずに自分比最大を目指すこと。嘆いても状況は変わらないのだから、自分の好きなこと、好きな方向へ逃げて逃げて逃げまくって、そこを極めればいいんだと思います。
それを理解してくれる人が現れることだって、人生にはあるのです。

 もしあなたがいくら理解を示しても、ADHDの相手がいい方向に向かわないケースもあります。そのときは第一に自分のことを考えてください。二人揃って壊れてしまってはもう修復できないので、ときには理解をあきらめて自分が壊れる前に逃げる覚悟も必要です。妻のエピソードからそういった部分もくみ取れるのではないかと思います。

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ナカモトフウフ 
2017年から夫婦で動画クリエーターとしての活動を開始。旅行・沖縄での日常・古民家暮らし・ファッション・車・バイクなど興味あることを発信中。中でもA D H Dである夫ダイスケさんとの夫婦の日常を紹介した動画の再生回数が400万回を超えるなど、注目を集めている。YouTubeチャンネルの登録者数は2チャンネル合計で33万人超え。
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『本気で発達障害に向き合った夫婦の物語 A D H Dの旦那って意外と面白いんよ』
交際から合わせて約7年の間に起きたことや学んだことをA D H Dの当事者(夫)とパートナー(妻)それぞれの目線で激白。A D H Dという障害に悩み、向き合い、乗り越えるまでのリアルな日常をマンガとともに紹介している。

感想
発達障害。今の社会はコミュニケーションを上手くできないと、仕事がなかなかできない時代です。
昔は発達障害でも上手く仕事ができることが多かったのでしょう。
アインシュタインやニュートンなど、有名な科学者にも発達障害が多いです。

発達障害の強みが生かせる分野の仕事を見つけられると、それは障害ではなく強みなのでしょう。

それとなにより、発達障害を理解し、受入、一緒に歩んでくれるパートナーが見つかると、まさに鬼に金棒なのでしょう。
発達障害の人に限ったことではなく、自分を理解してくれる人がいるだけでも、大きな支えになります。

「薬を飲むと、失敗が減るけど、自分ではない」。
とても印象的でした。

ノーベル賞を目指したはずが、東大卒でポーカーのプロに…「やっちまった」後の逆転人生 ”好きなことに挑戦する!”

2022-05-28 10:17:47 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/ebef7e835cea853b8453015ed43e5532d2e1ee9c 5/27(金) 18:30 読売新聞オンライン
 「なんで、私が東大に!?」という予備校の広告はよく見かけるが、「なんで、東大卒でポーカーを!?」と聞かれる人は、そういない。10年前、日本人で初めて世界最高峰の「ワールド・シリーズ・オブ・ポーカー(WSOP)」を制した木原直哉プロ(40)。今年も5月31日に米国ラスベガスで開幕するWSOPに参戦する。一体、どんな中高生時代を過ごしてきた人なのか。(読売中高生新聞)

ポーカーは頭脳ゲーム、ギャンブルとの違い
 「小・中学での将来の夢は学校の先生、高校では物理や数学の研究者を目指していました。当時の自分から見れば、『なんで、私がポーカープロに!?』です(笑)。

世界最高峰の「ワールド・シリーズ・オブ・ポーカー」(米国ラスベガス)に5月末から参戦する木原直哉さん=米田育広撮影

 ちなみに、ポーカーはトランプを使った頭脳ゲームです。互いの手札がわからない中、対戦相手の考えを読む洞察力・論理的思考力に加え、どんどん変わる状況への対応力・判断力も求められます。運頼みのギャンブルとは違います。

 1回の対戦なら運も大きな要素ですが、10万回も繰り返せば、実力に応じた勝敗数におおむね収まります。そこに、ポーカーを職業とする余地があります。5年たてば半数以上がやめる、入れ替わりの激しい仕事ですが」

異次元のチーターを目の当たりに
「中学受験」という言葉さえ知らなかった小6の頃=卒業アルバムから

 厳しい実力の世界で生きる木原さんは、小1で珠算を始めて中2で6段に達し、暗算も8段に。どれほどすごいのか想像しにくいが、そういう暗算力・計算力あっての世界制覇だったのだろうか。

 「有利にはなりますが、必須ではありません。単純化して、『3桁の数字を15個足す計算』を頭の中で11秒で終えるのが暗算8段、10秒なら9段、9秒で最高位の10段と考えてください。

 ところが中学生のとき、全国レベルの大会で『3桁15個』を3秒で答える人を目の当たりにしました。人間がチーターに短距離走を挑むくらい、異次元の世界です。とてもかなわない。以来、本当の得意分野を見つけて、そこで努力を重ねることが大事なんだと、子ども心に考えるようになりました。

 自分の能力を問われて思い浮かぶのは“確率の感覚”です。ポーカーでは、場に出ているカードや自分の手札から、有利・不利の確率を直感する力が大切です。

小5の1月、自宅で購読していた新聞の紙面にセンター試験(現・大学入学共通テスト)の問題が例年同様に載り、それを解こうとしても大半の問題は当然わかりません。でも、数学の『確率・場合の数』の問題だけすべて正解でした。偶然かもしれませんが(笑)」

 その問題を見ればわかるが、「偶然」で解ける問題ではない。木原さんもまた、チーターなのだろう……。そんな神童が、道北(北海道北部)の人口3万人に満たない街に住んでいたのだった。

成績が悪い人は努力を怠っている?
中学ではバレー部に加入。高校・大学でも部やサークルで汗を流した

 「感情の振れ幅は今も昔も小さめだと思っていますが、心の内側を覗(のぞ)けば、中学生の頃には我ながら相当“とんがった”状態でした。『テストの成績が悪い人は、ただ努力を怠っているだけだ』と純粋に思い込んでいました。

 そういう子ども時代を過ごした人、意外と少なくないのではと思っています。反省の弁は、後ほど聞いてください(笑)」

 中学を卒業した木原さんは、進学のため、北海道旭川市で3食付きの下宿生活を始めた。高校には、故郷とまた別の種類の「居心地のよさ」があったという。

 「旭川は『北海道第2の都市』と言われ、北に60km以上離れた名寄(なよろ)から出てきた自分には都会の街でした。進学先の旭川東高校も、東京から見れば田舎の公立高ですが、服装は自由だし、行事や部活にも全力を尽くす雰囲気が好きでした。

 高校の仲間とカラオケに行くようになってから、『歌のレパートリーが欲しい』と、友だちからDEENのアルバムを借りて練習しました。当時、ダビング用にはMD(ミニディスク)がありましたが、自分はカセットテープでした。

 それより何より、気の合う友人たちと互いをリスペクトしながら、勉強の成績も楽しんで競える環境が新鮮でした。

 中でも『校内模試』が強く印象に残っています。2、3年生(冬は1、2年生)の600人が同じ問題を解き、5教科100位以内と科目別上位の名前と得点が渡り廊下にずらりと掲示されました。

部活の後輩に負けたくないと頑張る先輩がいたり、下級生がトップ5に入って話題になったり。こういう模試を“イベント”として楽しんでいる生徒が、自分を含め結構いました」

 模試を楽しむ高校生……。関係先から入手した記録では、高1夏の全国模試で学年177位だった木原さんは、1年後には3位(全国偏差値80)に上がり、3年時の校内模試は17位と8位。部活はバレーと将棋をかけ持ちして取り組み、校内マラソン大会も学年30位以内に入った。

 「山の林道を20km走る『急歩大会』が秋にあって、30位に入れば、これも名前の貼り出しがありました。100m走はクラスで下から2番でしたが、『一つぐらいは運動でも目に見える成果がほしい。持久走なら可能性がありそうだ』と考えて、高2のとき、2か月前から5km走って少しずつペースを上げました。目標タイムは前年の30位の記録を見て決めました。当日の結果は1時間28分で、28位か29位だったかな。

 トップアスリートやビジネスパーソンも、先にゴール(目標)を決めた上で、達成するための手順を考えて一つずつ成し遂げていく『逆算の思考』の大切さをよく理解し、実践していると言われます。振り返ると、高校時代、得意とは言えない分野でそれを実体験できたことは、とても大きかったと思います。

 東大の2次試験も、『合格最低点プラス20点を目指して、英語の失点を物理・化学(8割得点)と数学(5割得点)でカバーする。そのために、次の模試までにどんな積み上げをしていくか』という考え方でやっていました」

 こういう考え方を中高生時代に知っていれば……と思う大人も少なくないはず。でも、当時の木原さんのように努力ができない人は、「怠け者」ということになるのだろうか。

 「いいえ、今はそう思いません。仕事柄、運について考えることが多くて『運と実力の間(あわい)』という本を書いたこともありますが、自分は幸運でした。

塾に通わせてほしい、参考書が欲しいと言えば、親は与えてくれました。何より、勉強で少しでも成果を上げたときに、それを正当に、前向きに評価してくれる恩師、親、友人たちに恵まれて育ちました。

 例外は小6の写生大会です。普段はとてもよく頑張りを認めてくれていた先生に、『マジメに描きなさい』と叱られてしまいました。下手なりに真剣に、頑張って取り組んだつもりだったのですが……。

 もし勉強でもそんな経験ばかりだったら、絶望してしまって、努力なんてできない子になっていたと思います。

 一見、努力をしていないように見えても、そんな絶望感にとらわれている子がいるかもしれません。それ以前に、勉強できる環境にはほど遠い“場所”で生きている子もいるでしょう。中高生時代の僕には、見えていませんでした。

 自分は、少しの成長を認めてもらえる経験を、周囲が何度も与えてくれたからこそ、頑張れたんだと思います」

体調不良で不合格、とんがっていた浪人生活
 そうして木原さんは高3の2月、東大入試の前期日程に臨んだ。しかし、突然の高熱・頭痛・腰痛で実力を発揮できなかった。後期の試験も、前夜から食あたりに苦しんだ。無念の不合格となり、東京の予備校で浪人生活を始めた4月、木原さんは東大の駒場キャンパスにいた。

 「現役で受かるはずが、同じ勉強をもう1年。それが悔しくて、同じ理科1類に現役合格した高校の同級生と一緒に、東大で使う数学と物理の教科書を買いました。それで、1年生の夏学期(4~8月)の範囲は浪人中に予習を済ませてしまいました。

 やはり、とんがってましたね(笑)。『中高一貫校や有名塾で用意されたカリキュラムで東大に入る都会の連中には、絶対に負けたくない』と。参考書選びからほぼ独力で勉強法を組み立て、過去問を自ら研究して……と、ずっと高いハードルを課された地方の人間の意地というのか。

 もちろん、東京で子育てをしている今となっては、激烈な競争を目の当たりにして、大都会の大変さもよくわかります。でも、当時はそんな思いを抱いていたんです」

浪人中は全国100位以内の好成績を連発し、1年後に無事合格した。だが、ノーベル賞を夢見てきた木原さんの人生は、ここで転機を迎える。

大学を卒業したのは10年後…
 「要はサボったんです。大事な数学と物理は予習済みで、全部わかっているからと油断して。1年先輩に後のプロ棋士(片上大輔・七段)がいた将棋部と、中学から続けていたバレーボールのサークルに昼から入り浸り、夜は麻雀(マージャン)やコンパです。

 冬学期(10~2月)には講義がわからなくなって必修の単位も落とし、留年や休学をするようになりました。

 その間にバックギャモン(西洋すごろく)を始め、2007年のゴールデンウィーク、これまた後にバックギャモン世界王者になる望月正行さん(43)の家で知ったのが、ポーカーでした。だから今年で『ポーカー歴ちょうど15年』ということになります。

 ポーカーはトランプを使い、『役の強弱』でチップを奪い合うゲームですが、人生によく似ていると思います。どんなに準備し、本番で最善を尽くしても、良い結果になるとは限らない。逆に『やっちまった!』からの結果オーライも多々あります。当然、長期的にはミスが少ない方が報われるし、場数を踏んで実力を高める努力が必要な点も似ています。

世界王者に輝き、チャンピオンに与えられる「ゴールドブレスレット」を手にした(2012年6月、米国ラスベガスで)=World Series of Poker提供

 そういう点にもほれ込み、在学中から半ばプロとして活動しました。ただ、『せっかく進学させてくれた親のためにも』と考え、入学からちょうど10年後に大学を卒業。翌年、ラスベガスでのWSOPの1種目で優勝できました。賞金51万ドルは当時のレートで4000万円。円安の今なら6500万円にもなるのですが。

 これから大学生になる皆さんは、マネしちゃダメです(笑)。でも、僕自身は後悔はしていないし、どの選択も今につながっているから、人生は不思議です」

 「学びあり、後悔なし」の“中高大時代”を過ごした木原さん。最後に、二十数年前の自分へのアドバイスを送ってもらった。

失敗は意外とどうにでもなる
 「一番伝えたいのは、キミが『絶対失敗しちゃいけない』と思い込んでいることの多くは、意外とどうにでもなるよ、ということ。もちろん、物事への真剣さは大前提ですが、昔の僕と同じように真面目な子が読んでいるはずの『中高生新聞』でしょうから(笑)。

もう一つ、『その代わり、たくさん挑戦しようよ』。“失敗イコール終わり”なんて、決して思わないで。いろいろ作戦を試すことができるポーカーほどではありませんが、人生の『試行回数』をたくさん増やして、チャレンジする気持ちを持ち続けてほしいです」(聞き手・森田啓文)

 【プロフィル】きはら・なおや=1981年7月23日、長崎県生まれ、北海道名寄市出身。名寄市立名寄東中、北海道旭川東高を経て、2011年に東大理学部地球惑星物理学科を卒業した。少林寺拳法も黒帯の腕前。

感想
「一番伝えたいのは、キミが『絶対失敗しちゃいけない』と思い込んでいることの多くは、意外とどうにでもなるよ、ということ。もう一つ、『その代わり、たくさん挑戦しようよ』。“失敗イコール終わり”なんて、決して思わないで。

失敗を恐れずたくさんのことに挑戦することがやはり大切なのでしょう。

これだけ頭が良く勉強もできたら、親の期待も大きかったと思います。
でも、子どもは子どもの世界を見つけるのでしょう。