https://news.yahoo.co.jp/articles/ebef7e835cea853b8453015ed43e5532d2e1ee9c 5/27(金) 18:30 読売新聞オンライン
「なんで、私が東大に!?」という予備校の広告はよく見かけるが、「なんで、東大卒でポーカーを!?」と聞かれる人は、そういない。10年前、日本人で初めて世界最高峰の「ワールド・シリーズ・オブ・ポーカー(WSOP)」を制した木原直哉プロ(40)。今年も5月31日に米国ラスベガスで開幕するWSOPに参戦する。一体、どんな中高生時代を過ごしてきた人なのか。(読売中高生新聞)
ポーカーは頭脳ゲーム、ギャンブルとの違い
「小・中学での将来の夢は学校の先生、高校では物理や数学の研究者を目指していました。当時の自分から見れば、『なんで、私がポーカープロに!?』です(笑)。
世界最高峰の「ワールド・シリーズ・オブ・ポーカー」(米国ラスベガス)に5月末から参戦する木原直哉さん=米田育広撮影
ちなみに、
ポーカーはトランプを使った頭脳ゲームです。互いの手札がわからない中、対戦相手の考えを読む洞察力・論理的思考力に加え、どんどん変わる状況への対応力・判断力も求められます。運頼みのギャンブルとは違います。
1回の対戦なら運も大きな要素ですが、10万回も繰り返せば、実力に応じた勝敗数におおむね収まります。そこに、ポーカーを職業とする余地があります。5年たてば半数以上がやめる、入れ替わりの激しい仕事ですが」
異次元のチーターを目の当たりに
「中学受験」という言葉さえ知らなかった小6の頃=卒業アルバムから
厳しい実力の世界で生きる木原さんは、
小1で珠算を始めて中2で6段に達し、暗算も8段に。どれほどすごいのか想像しにくいが、そういう暗算力・計算力あっての世界制覇だったのだろうか。
「有利にはなりますが、必須ではありません。単純化して、『3桁の数字を15個足す計算』を頭の中で11秒で終えるのが暗算8段、10秒なら9段、9秒で最高位の10段と考えてください。
ところが中学生のとき、全国レベルの大会で『3桁15個』を3秒で答える人を目の当たりにしました。人間がチーターに短距離走を挑むくらい、異次元の世界です。とてもかなわない。以来、本当の得意分野を見つけて、そこで努力を重ねることが大事なんだと、子ども心に考えるようになりました。
自分の能力を問われて思い浮かぶのは“確率の感覚”です。ポーカーでは、場に出ているカードや自分の手札から、有利・不利の確率を直感する力が大切です。
小5の1月、自宅で購読していた新聞の紙面にセンター試験(現・大学入学共通テスト)の問題が例年同様に載り、それを解こうとしても大半の問題は当然わかりません。でも、数学の『確率・場合の数』の問題だけすべて正解でした。偶然かもしれませんが(笑)」
その問題を見ればわかるが、「偶然」で解ける問題ではない。木原さんもまた、チーターなのだろう……。そんな神童が、道北(北海道北部)の人口3万人に満たない街に住んでいたのだった。
成績が悪い人は努力を怠っている?
中学ではバレー部に加入。高校・大学でも部やサークルで汗を流した
「感情の振れ幅は今も昔も小さめだと思っていますが、心の内側を覗(のぞ)けば、中学生の頃には我ながら相当“とんがった”状態でした。『テストの成績が悪い人は、ただ努力を怠っているだけだ』と純粋に思い込んでいました。
そういう子ども時代を過ごした人、意外と少なくないのではと思っています。反省の弁は、後ほど聞いてください(笑)」
中学を卒業した木原さんは、進学のため、北海道旭川市で3食付きの下宿生活を始めた。高校には、故郷とまた別の種類の「居心地のよさ」があったという。
「旭川は『北海道第2の都市』と言われ、北に60km以上離れた名寄(なよろ)から出てきた自分には都会の街でした。進学先の旭川東高校も、東京から見れば田舎の公立高ですが、服装は自由だし、行事や部活にも全力を尽くす雰囲気が好きでした。
高校の仲間とカラオケに行くようになってから、『歌のレパートリーが欲しい』と、友だちからDEENのアルバムを借りて練習しました。当時、ダビング用にはMD(ミニディスク)がありましたが、自分はカセットテープでした。
それより何より、気の合う友人たちと互いをリスペクトしながら、勉強の成績も楽しんで競える環境が新鮮でした。
中でも『校内模試』が強く印象に残っています。2、3年生(冬は1、2年生)の600人が同じ問題を解き、5教科100位以内と科目別上位の名前と得点が渡り廊下にずらりと掲示されました。
部活の後輩に負けたくないと頑張る先輩がいたり、下級生がトップ5に入って話題になったり。こういう模試を“イベント”として楽しんでいる生徒が、自分を含め結構いました」
模試を楽しむ高校生……。関係先から入手した記録では、高1夏の全国模試で学年177位だった木原さんは、1年後には3位(全国偏差値80)に上がり、3年時の校内模試は17位と8位。部活はバレーと将棋をかけ持ちして取り組み、校内マラソン大会も学年30位以内に入った。
「山の林道を20km走る『急歩大会』が秋にあって、30位に入れば、これも名前の貼り出しがありました。100m走はクラスで下から2番でしたが、『一つぐらいは運動でも目に見える成果がほしい。持久走なら可能性がありそうだ』と考えて、高2のとき、2か月前から5km走って少しずつペースを上げました。目標タイムは前年の30位の記録を見て決めました。当日の結果は1時間28分で、28位か29位だったかな。
トップアスリートやビジネスパーソンも、先にゴール(目標)を決めた上で、達成するための手順を考えて一つずつ成し遂げていく『逆算の思考』の大切さをよく理解し、実践していると言われます。振り返ると、高校時代、得意とは言えない分野でそれを実体験できたことは、とても大きかったと思います。
東大の2次試験も、『合格最低点プラス20点を目指して、英語の失点を物理・化学(8割得点)と数学(5割得点)でカバーする。そのために、次の模試までにどんな積み上げをしていくか』という考え方でやっていました」
こういう考え方を中高生時代に知っていれば……と思う大人も少なくないはず。でも、当時の木原さんのように努力ができない人は、「怠け者」ということになるのだろうか。
「いいえ、今はそう思いません。仕事柄、運について考えることが多くて『運と実力の間(あわい)』という本を書いたこともありますが、自分は幸運でした。
塾に通わせてほしい、参考書が欲しいと言えば、親は与えてくれました。何より、勉強で少しでも成果を上げたときに、それを正当に、前向きに評価してくれる恩師、親、友人たちに恵まれて育ちました。
例外は小6の写生大会です。普段はとてもよく頑張りを認めてくれていた先生に、『マジメに描きなさい』と叱られてしまいました。下手なりに真剣に、頑張って取り組んだつもりだったのですが……。
もし勉強でもそんな経験ばかりだったら、絶望してしまって、努力なんてできない子になっていたと思います。
一見、努力をしていないように見えても、そんな絶望感にとらわれている子がいるかもしれません。それ以前に、勉強できる環境にはほど遠い“場所”で生きている子もいるでしょう。中高生時代の僕には、見えていませんでした。
自分は、少しの成長を認めてもらえる経験を、周囲が何度も与えてくれたからこそ、頑張れたんだと思います」
体調不良で不合格、とんがっていた浪人生活
そうして木原さんは高3の2月、東大入試の前期日程に臨んだ。しかし、突然の高熱・頭痛・腰痛で実力を発揮できなかった。後期の試験も、前夜から食あたりに苦しんだ。無念の不合格となり、東京の予備校で浪人生活を始めた4月、木原さんは東大の駒場キャンパスにいた。
「現役で受かるはずが、同じ勉強をもう1年。それが悔しくて、同じ理科1類に現役合格した高校の同級生と一緒に、東大で使う数学と物理の教科書を買いました。それで、1年生の夏学期(4~8月)の範囲は浪人中に予習を済ませてしまいました。
やはり、とんがってましたね(笑)。『中高一貫校や有名塾で用意されたカリキュラムで東大に入る都会の連中には、絶対に負けたくない』と。参考書選びからほぼ独力で勉強法を組み立て、過去問を自ら研究して……と、ずっと高いハードルを課された地方の人間の意地というのか。
もちろん、東京で子育てをしている今となっては、激烈な競争を目の当たりにして、大都会の大変さもよくわかります。でも、当時はそんな思いを抱いていたんです」
浪人中は全国100位以内の好成績を連発し、1年後に無事合格した。だが、ノーベル賞を夢見てきた木原さんの人生は、ここで転機を迎える。
大学を卒業したのは10年後…
「要はサボったんです。大事な数学と物理は予習済みで、全部わかっているからと油断して。1年先輩に後のプロ棋士(片上大輔・七段)がいた将棋部と、中学から続けていたバレーボールのサークルに昼から入り浸り、夜は麻雀(マージャン)やコンパです。
冬学期(10~2月)には講義がわからなくなって必修の単位も落とし、留年や休学をするようになりました。
その間にバックギャモン(西洋すごろく)を始め、2007年のゴールデンウィーク、これまた後にバックギャモン世界王者になる望月正行さん(43)の家で知ったのが、ポーカーでした。だから今年で『ポーカー歴ちょうど15年』ということになります。
ポーカーはトランプを使い、『役の強弱』でチップを奪い合うゲームですが、人生によく似ていると思います。どんなに準備し、本番で最善を尽くしても、良い結果になるとは限らない。逆に『やっちまった!』からの結果オーライも多々あります。当然、長期的にはミスが少ない方が報われるし、場数を踏んで実力を高める努力が必要な点も似ています。
世界王者に輝き、チャンピオンに与えられる「ゴールドブレスレット」を手にした(2012年6月、米国ラスベガスで)=World Series of Poker提供
そういう点にもほれ込み、在学中から半ばプロとして活動しました。ただ、『せっかく進学させてくれた親のためにも』と考え、
入学からちょうど10年後に大学を卒業。翌年、ラスベガスでのWSOPの1種目で優勝できました。賞金51万ドルは当時のレートで4000万円。円安の今なら6500万円にもなるのですが。
これから大学生になる皆さんは、マネしちゃダメです(笑)。でも、僕自身は後悔はしていないし、どの選択も今につながっているから、人生は不思議です」
「学びあり、後悔なし」の“中高大時代”を過ごした木原さん。最後に、二十数年前の自分へのアドバイスを送ってもらった。
失敗は意外とどうにでもなる
「一番伝えたいのは、キミが『絶対失敗しちゃいけない』と思い込んでいることの多くは、意外とどうにでもなるよ、ということ。もちろん、物事への真剣さは大前提ですが、昔の僕と同じように真面目な子が読んでいるはずの『中高生新聞』でしょうから(笑)。
もう一つ、『その代わり、たくさん挑戦しようよ』。“失敗イコール終わり”なんて、決して思わないで。いろいろ作戦を試すことができるポーカーほどではありませんが、人生の『試行回数』をたくさん増やして、チャレンジする気持ちを持ち続けてほしいです」(聞き手・森田啓文)
【プロフィル】きはら・なおや=1981年7月23日、長崎県生まれ、北海道名寄市出身。名寄市立名寄東中、北海道旭川東高を経て、2011年に東大理学部地球惑星物理学科を卒業した。少林寺拳法も黒帯の腕前。
感想;
「一番伝えたいのは、キミが『絶対失敗しちゃいけない』と思い込んでいることの多くは、意外とどうにでもなるよ、ということ。もう一つ、『その代わり、たくさん挑戦しようよ』。“失敗イコール終わり”なんて、決して思わないで。
失敗を恐れずたくさんのことに挑戦することがやはり大切なのでしょう。
これだけ頭が良く勉強もできたら、親の期待も大きかったと思います。
でも、子どもは子どもの世界を見つけるのでしょう。