・ケロブダス病院では、スタッフが一人当たりのケースロードが増えすぎてバーンアウトが起こったり、ミーティングの予約システムがパンクしたりということがなぜ起きないのか?
ところがミアさんはこともなげ答えたのである。
「(統合失調症が)発症したら、すぐに治療チームが介入してミーティングを開くからですよ」と。
この病院のスタッフは、オープンダイアローグ(OD)による早期介入によって、ほとんどの精神疾患の慢性化は防げると確信している。
・ODの優れている点はいくつもあるが、あまたある精神療法の中で、もっとも「相互性」に開かれているという点がまず挙げられる。ここで相互性というのは、「変化の双方向性」を意味している。
このほかにも、私の知人である精神科医のうち少なくとも二人が、ODを知ることで人生の選択を大きく変えたという事実もある。一度でもこの手法を経験した治療者は、その効果はもとより、その「まっとうさ」にまず感銘を受けるようだ。
医師としての私自身は、けっして薬物を否定する立場ではない。しかし30年近く薬物治療を続けて思うことは、薬物には精神疾患の本質的部分を変える力はほぼない、ということだ。
精神科における薬物治療は、最上のものであっても対症療法止まりであり、薬をやめるためには生活習慣や家族との関係を変えることで、再発のリスクを減らす必要がある。
しかし、対話で寛解した場合は、寛解の時点で治療は終結できる。再発を予防するために、もっとODを続けましょう、ということにはならない。万が一再発したら、また介入すればいいのである。
・リフレクティング
しかしなんと言っても、チームであることの最大のメリットは、「リフレクティング」の活用をおいてはかになり。
これは1980年代に家族療法家のトム・アンデルセンによって開発すされた技法である。要するに患者や家族の前で、専門家がミーティングを開き、カンファレンスをやってみせるのことだ。
リフレクティングを通じて私が理解したことは、「患者の目の前で話し合えないような情報にはろくなものがない」ということだ。診断も見通しも治療方針も患者の前で開示してよい。それどころか、治療者間で異論をぶつけあっても構わない。患者も家族も食い入るように聞いてくれる。そればかりか「こんなに自分たちのことを考えてくれるなんて」と感激してくれさえする。
もうひとつ興味深いのは、「入院したほうがよい」と面と向かって言われるよりも、「この患者は入院が必要ではないかと僕は思う」「いや、もう少しこのまま様子を見てもよいのではないか」といったやり取りをするほうが、患者は意思決定をしやすくなるということだ。
・事例1 引きこもりの男性。家族内暴力を振るい、家族を閉め出して自宅にたてこもっていた男性事例。二週に一度、同僚医師と外来でOD的な面接を試みたところ、わずか半年間で目覚ましい変化があった。結果のみを記すと、彼は現在、専門学校に通いつつ、その技能を活かして起業すべく、ネットワーク作りに奔走している。初診の段階では想像もつかなかったような社会性が発揮されつつある。これとともに家族関係も改善し、当初は面接室で親を怒鳴り上げることもしばしばあったが、現在は比較て穏やかに、今後のことが話し合えるまでに変わりつつある。
ひきこもりの社会参加は、とにかく時間がかかる。従来のやり方では、たとえ治療がきわめて順調に進んでも、社会参加には数年がかかるのが普通だった。ひきこもりにかかわって30年ちかくなるが、このレベルの重篤度で、わずか半年間でこれほど自発的な変化が起きた事例は記憶にない。
もうひとつ喜ばしかったのは、家族に対して高圧的な指導をしなくて済んだ点である。専門家としてひきこもりの家族にかかわっていると、よくないと知りつつも、ついアドバイスが指導的、あるいは叱咤激励的になってしまいがちだ。
しかい、どれほど家族を叱ろうと、家族はなかなか変わらない。いろいろ理由はあるが、つまるところ「叱咤や批判で変わる人はいない」ということに尽きる。
ところがODには、そもそも叱るという発想がない。「家族にこうあってほしい」という情報は、すべてリフレクティングの形式に落とし込み、「この家族はもっとこうしたほうがいいのにねえ」「でも家族は家族なりに頑張っていると思うからそこは評価しないと」といったやりとりが展開される目の前で専門家に自分たちのことを噂されて、無視できる家族はいない。
・一般にSSRIを含む抗うつ薬の反応率(改善率)はおよそ60%、しかし寛解率(ほどんどの症状が消えた状態に至る割合)は30%程度であるとされる。この反応率と寛解率の差が増加の大きな要因となっている。つまり処方量が増えれば増えるほど「改善すれども寛解せず」という中途半端な状態に留まる患者が増加するのである。掘り起こされた新規患者の多くが、このような過程を経て慢性化するからこそ、うつ病人口は蓄積によって増え続けてきたのである。
・CBT(認知行動療法)から「マインドフルネス」へ
現在の精神療法において圧倒的に優位と目されているのはCBTであり、対人関係療法(IPT)である。
マインドフルネスは今や、新たな精神療法の土台としても重要な位置を占めている。
具体的には「
メタ認知治療法」(MCI)、「
行動活性化療法」(BA)、「
弁証法的認知療法」(DBT)、「
アクセプタンス・コミットメント・セラピー」(ACT)などがよく知られている。
それぞれ技法上の違いはあるが、いずれも中核的な部分でマインドフルネスの発想や技法を取り居ている点は共通である。
・「
デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN)こそは、最近の脳科学分野において最も注目を集めているキーワードにほかならない。
DMNとは簡単に言えば、注意を要するような課題を行っているときよりも、何もしないで安静にしているときに、より活動が上昇する脳領域のことである。
・ガミーは、精神医学・精神医療に対する精神科医のスタンスを、教条主義、折衷主義、統合主義、多元主義の4つに分類した。
教条主義;一つの方法論を絶対視する考え方である。
折衷主義;現代の精神科医のほとんど
統合主義;脳の水準の事象とこころの水準の事象の関連性を否定しない。
多元主義;ガミーが推奨する、精神科医にとって最も望ましい態度ということになる。複数の方法の中から最も優れた方法を一つだけ選択する姿勢のことだ。
・精神医療における「開かれた対話」こそは、キュアとケアを架橋し、自己決定と自立を促し、健康を生成するための最大の契機になるであろう。
・山本昌知医師のモットーは「病気ではなく人をみる」本人の話に耳を傾ける」「人薬」とのことであり、人薬について詳しい定義や解説をしているわけではない。しかし、この映画『精神』(想田和弘監督)が描かれる、こらーる岡山診療所のたたずまいそのものが、治療における人薬の重要性を如実に物語っている。
その診療所は、民家を改造したつくりになっていて、通院患者は診療を待つ間、好きな場所に寝そべっったり、お茶を飲んだりお喋りしたりして過ごしている。人と人との距離がおのずから近づくような空間になっていて、スタッフと患者も自然な対話を行いやすい。こうした穏やかな対人関係、あるいは対人空間のありようそのものが治療的な意義を持っている。人薬にはそうした合意がある。
・事例4 初診時50歳、女性、統合失調症
初診より4年ほど前からインターネット上に自分の個人情報が公開されていると繰り返し考えるようになった。初診より二か月前に、家族は本人の妄想的な発言と不穏さに耐えかねて別居し単身生活となった。その後妄想的な思い込みが憎悪し混乱状態となり、党員を紹介され受信。本人、家族、ファシリテーター2名(精神科医、看護師)で対話を開始した。本人に来院のニーズを尋ねると、「自分は病気ではない。通院は必要ない」と話した。家族はひどく疲労している印象だった。何を話してもいいことを保証しつつ対話を続け、次回の予約をとることができた。本人から「眠れないのはつらい」と訴えがあり、オレンザピン2.5mgの内服も開始した。
三回目の対話で、本人は自分の情報がネット上に公開されている根拠を話し、家族はそれを否定して激しい議論となった。このためファシリテーター間でリフレクティングを行った。本人たちが語った言葉に対してのみ反応しながら、互いに互いの気持ちを大事にしていると感じるといった考えも話すと、家族は力が抜けたように穏やかな表情になった。最後に本人の発言を促すと「私の病名は統合失調症でうか?」との問いかけがあった。
四回目の対話では、インターネットを見ると不安が強くなって混乱が強くなるためネットをできるだけ見ないようにしていると話していた。この時点では逸脱した考えが減少していた。眠気が強く仕事に行けないという本人の訴えを受けてオランザピンを中止し、長期に休職していた職場に復帰した。断薬についても家族間での強い議論が起こったが、それでも対話を続けていく中で、本人は「対話の意味がわかった」と語り、感謝の言葉を口にした。それ以降は家族間の議論がなくなって対話が進むようになり、「対話を知って生きやすくなった」と語った。現在も安定した状態が続いている。
・本誌で示した五つの事例報告は、そうした筆者らの見よう見まねの実践であっても、伝統的な治療以上のに有効であり患者側の満足度も高いという可能性を示唆している。なぜ「開かれた対話」が、これほど治療的な意味を持ち得るのだろうか。
・ケロブタス病院の看護師によれば「急性期には窓が開いている」のである。筆者は「急性期の患者や家族において支援ニーズが高い」と理解している。
・(リフレクティングの)ODにおけるその意義
1)治療方針を開示し、それについて議論を深めるという意味がある
2)患者の意思決定を支援するという意義がある・
・「コミュ力偏重」や「承認依存」の傾向を加速し、定着させた最大の要因が、コミュニケーション環境の変化である。
とりわけ1995年以降に急速に進んだ商用インターネットと携帯電話の普及は、コミュニケーションのインフラを大きく変えた。
・『エクソダス症候群』宮内悠介著
・『家族の哲学』坂口恭平著
・『治療の現象学』村上靖彦著
・村上「べてるの流れとODの流れはどこがどのように同じで、どこがちがっているのでしょう」
斉藤「共通しているのは、ともにミーティングを中心とした、しかも当事者に寄り添った治療モデルないしコミュニティケアであるところです。・・・
違いとしては、べてるは当事者研究の流れから、『幻聴全然OK』みたいにしていくところがありますよね。そして当事者は自分のことを掘り下げて把握できればとりあえずそれでよしとします。その点は、あの共同体内部では全然OK、そこに留まっている限りは生産性にもつながっているところがあると思いますが、あそこ以外の場所で生活していけるかどうか-たとえば求職のことですが-といったところでちょっと弱いかなという気はします。
ODのわかりやすさは、『この手法で改善しました』『再発率は20%でした』『社会復帰率は約80%でした』とか、明瞭なアウトカムをだしているところです。・・・
ともあれODの治療モデルに関しては、社会復帰という明確なわかりやすさを謳っています。あれがあるから一般的な精神医療関係者も感心を持てる。べてるに対して距離がある人たちは、『あるがままもいいけど、やっぱり社会で働けなきゃしょうがないよね』みたいなところで躓いていることが多いのではないかと思いますので、その価値は十分認めつつも、思い切って治癒・治療というところに踏み込んでいるところが、これから普及を促進するうえではつよみなるのかなと思っています。
ただし、ODは結果としてはもちろん治癒をもらたしているのですが、やっている最中、つまり治療者がシステムの一部として動いているときは、頭の中から、『治癒という目標』を消しましょうというルールはあります。これは昔から、ベテランの治療者はみんな言っていたことです。つまり、治そうとがつがつするなということです。がつがつすると余裕がなくなるからです。
ODが大事にしているのは、『スペース』という発想です。患者さんが主体的に変化するスペースをつねに確保していおかなくてはいけないのですが、治療者の側の治したいとい意図はかえってそのスペースを奪ってしまうのです。これについてはやっていていてすごく実感することです。働いてほしいときに、『働け』と言ってはいけないのは、そういうスペースを奪ってしまうからなのです。
感想;
「オープンダイアローグとは何か」斎藤環著+訳 ”「ベテルの家」とオープンダイアローグは双子のように相通じるものがある”は双子
やはり一冊の本より、二冊と読む本を増やすと理解が広がり深まるようです。
薬の治療も大切ですが、精神疾患は薬では治癒は難しいということでしょう。
知っている精神科医が言われていました。
薬の治療では再発する。
CBTでもまた再発する。
「内観療法」をとり入れたところ、再発が減ったとのことでした。
内観して、周りへの感謝の気持ちが芽生えると大丈夫と言われていました。
人が自ら自分を知り、周りからの情報やアドバイス(リフレクティング)を参考にして自分がどうするかを決める、多くの可能性から選択することなのでしょう。
まさに、それは精神疾患者関係なく、皆に言えることなのだと思います。
自分で考え自分で選択する。
そのためには多くの情報や知識、アドバイスを活用することなのでしょう。
べてるの家の取り組みとODの似ている点、違う点などもさらにわかりました。
べてるの家で自分の事例に対処しながら共同生活を行っている人が、その共同生活を離れて、社会でやっていけるかどうか、とても興味を持ちました。