幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「あたりまえなことばかり」池田晶子著 "自分で考えることをしなくなっているから不正なことをしてしまう”

2022-08-14 19:16:16 | 本の紹介
・どうしてそんなにジョギングに入れ揚げていたかというと、美容のためでも健康のためでもなく、たぶん相当変わっていると思うけれども、思考のためなのである。あれは効く。あれは凄い。走りながら考えていると、考えも走る。加速するごと三段ロケット、宇宙の涯(はて)まで飛んでゆけるような感じになる。

・「どう生きるか」より、「生きているとはどういうことか」が先ではないのか。

・文学も哲学も、そして宗教も、ともに永劫の不可解に直面した人類が、その絶句と引き換えに手に入れた、それへの態度のとり方である。ただ、宗教だけが違うのが、そのような一連が、ひとりの個人で完結していないということであって、文学と哲学においては、その思索も表現も他者を必要としていない。宗教のみが、他者を、生身の他者を必要とする。

・私にとっては、考えることは自分の呼吸のようなものですから、何を考えているのと今さら問われて、あえて自分が考え始めたはじまりにまで遡ってみると、一言で言えば人生についてということです。

・哲学というのは考えるということであって、極論すれば学ぶということでもないんです。

・私が考えているのは、生きているとはどういうことか、です。これ、問いがひっくり返っていますね。如何に生くべきかという問い以前に、その生きているとはどういうことかが問題のはずです。

・考えるということは、決して悩むことではありません。人が「考えている」と言うとき、よく聴いてみると、それは煩悶している、悩んでいるのであって、きちんと考えているわけではない。きちんと考えていないから、ぐずぐず悩むことになるんです。

・ソクラテスもこう言っています。考えても何の得にもならない。しかしわからないことをわかろうとして考え始めて、如何にわからないかということをはっきりとわかることができる。彼はそれを、無知の知という言い方をしました。

・きちんと考えていると悩まなくなります。考えることが自分から始まって宇宙にまで広がると、その開放感とか自由感というのはすごいものです。なぜかというと、非常に大きなところから自分を見る視点を獲得するからです。相対的な視点が獲得できると、我々は日常の暮らしにべったり張り付いているわけですが、それを、同じ場所にいながら、また宇宙の視点から見ることができるから、非常に自由になれるわけです。

・考えて何の得になるかということをあえて言うなら、そういう人が増えれば必ず社会は変わります。自覚的に生きる人が増えるわけですから、今は自分の日常がすべてだと思い込んであれこれ悩んだり喧嘩したりしているのが、そういうことがどういうことかということを見る目を持つなら、人は必ず変わるし、そういう人が増えれば、社会も世界も時代も変わります。それは大きな効用だと思います。
 そういう無用の用というものが、哲学ないし考えるということにはありますから、このような時代だからこそそれは必要なことなんです。つまり宗教的信仰における謎の忘却をもう一度思い出すということ、それから全部がわかると思い込んでいる浅薄な科学主義、そういったものに対する解毒剤になるということです。

・「死とは何か」の一般的な答えとしては、無になること。そこで納得する。しかし、ここも非常に大事なところなのですけど、無というものは無いから無なわけです。無があったら無ではない。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬということは無になることである」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い、すなわち死は無い、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きているのか。その視点を手に入れると、死が存在すると思って生きているこの世の光景が可笑しく見えてくる。無いものを在ると思ってるんですから、思い込みですね。世の中のすべてが錯覚の上で動いている。これはおもしろい。
ですから、死が存在しないと気づきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきり変わってきます。やがて死ぬ、どうせ死ぬなら死は無いから。人生の意味ががらっと変わる。

・「私とは何か」ではなくて、むしろ「何が私という名前で呼ばれているのか」、これが哲学の問いです。これが非常におもしろい。考えていくと本当にきりがない。

・一番最初の問いに帰って、「なぜ生きるのか」と私が問われるなら、「存在するから」と答えます。「なぜ存在するのか」となお問われたら「さあ」と言うしかありません。ただそれ、私だけでなくてすべての人がそうであります。ですから、「さあ」と思ったそこから、再び各人で考えていくことしかあり得ません。これが私の、この問いに対する答えにならない答えであります。

・幸福でない心に、幸福な生活が、はたしてあり得るものだろうか。心とは、いわば分母の1のようなものである。そこにおいて、人生と生活の一切がそのようであるところの、それ自体はなにものでもない分母である。分母が不幸であれば、いかなる分子も不幸だろう、分母が幸福であれば、いかなる分子も幸福だろう。あれこれの生活のありようなど、しょせんは分子的な存在にすぎないということに、なかなか人は気づかない。何ものでもないものを、何ものでもないものとして、常に捉え損ねるのである。
人が、幸福をあれこれの生活の形として捉えがちなのは、おそらく多くは、他人のそれらをそのように見ることよっている。他人の生活、目に見え聞こえてくるそれらを、幸福あるいは不幸の形と認め、自身のそれを計るのである。しかし、目に見え聞こえてくる他人の生活、その形が、幸福であるか不幸であるか、他人に計り知れるものではない、。人の心とは、人の目に見えないところを動いてゆく何かだからである。

・人間とは思い込みの動物である。何らかの観念を、そのようであると思い込むことによって、自身を行為へと駆り立てるのだ。幸福とは、明らかにそのような観念の一種である。

・「私は幸福にならなければならない」というこの観念以上に、脅迫的な観念はないのではなかろうか。人はなぜ、幸福にならなければならないと思い込んでいるのだろうか。幸福でなければ、何が不都合だというのだろうか。
「幸福」という観念を所有した時点で、人は必ずや不幸をも所有する。

・一般に人は、生きていることを幸福といい、死ぬことを不幸という。けれども同時に人は、その生きるために労働することに不平を言い、生きるために食べなければならないという言い方をする。しかし、もし本当に生きていることをそれ自体を幸福と思っているのなら、その生きるために労働することも幸福であるはずだ。すると、生きていることそれ自体は、あるいは不幸なことだと思っているのだろうか。だとしたら、なぜ人はさほどにまで死を厭い、避けようとして生きているのだろうか。生きていることが不幸なことなら、死ぬことは幸福であるはずである。いったい、生存していることそれ自体、幸福なのだろうか、不幸なのだろうか、どっちなのだろうか。

・各種のセラピーやカウンセリングなどが推奨している「自分探し」は、このような文脈にあるようである。対人関係や性格形成などに自信をもてない人々に、「自分であること」「ありのままの自分であること」に自信をもてるように導くという。しかし、自身をもてない人が自信をもてないのは、それに自信をもつべきまさにその自分の何であるかがわからないからではなかろうか。
何かある性格を自分であると認めるためにも、自分とは何であるかが先に知られていなければならないはずだ。

・ソクラテスの最後の言葉を、いま一度じっくりと考えてみたい。
<もう終わりにしよう、時間だからね。僕はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかし、われわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか誰にもはっきりはわからないのだ。神でなければ>
・死とは何かを知らないということは、ひるがえって、生とは何かを知らないということに他ならない。知らないと知っているのだから、考える。生きているとはどういうことか、「自分が生きている」とは、いったどういうことなのか。

感想
「知ることより考えること」 池田晶子著 "何のための人生か。考えずに生きられる人生は、善い人生ではあり得ない。"

考えることが楽しい。
考えることが人生をより良くするようです。

会社や宗教団体でも、上から不正な指示があると、その不正を行ってしまう人が多いです。
それは自分で考えないからではないでしょうか?

キリスト教では、「心にイエス・キリストを住まわせなさい」と言われます。
聖書からこの場合、イエス・キリストならどうしただろうか?と考えて行動するのです。
神父/牧師さんから言われたらやるのとは違うのです。
心に住んでいるイエス・キリストを正しく理解するために。神父/牧師さんがいらっしゃるのです。

創価学会の礎を築いた戸田聖城二代目会長の『人間革命』を読みました。
統一教会の文鮮明創始者の自叙伝を読みました。
書かれている内容は、人々の幸せと社会への貢献です。
ところがそれを間違って解釈して指示する人が出てくるのです。
心にきちんとその人の考えを入れて、考え、判断すれば、人を不幸に、家族を不幸に、社会を不穏にするような行動は起きません。
何も考えないから、不正なこともしてしまいます。
何も考えないから、それが不正なことであることもわからなくなります。
不正なことを指示する人が間違って理解しているか、それを自分たちのために悪用しているのです。
そして何も考えずに従っていると、利用されるだけ利用され、不必要になると捨てられるか、あるいは悪いことをした責任を取らされるのです。

考えることがとても大切なのだと、昨今の状況から考えてしまいました。

「どう生きるか」の前に「なぜ生きるか/なぜ生きているのか」を考えることが人生をさらに意味あるものに出来るのかもしれません。

池田晶子さんは46歳で腎臓がんで亡くなられています。
没後、夫の伊藤實を理事長としてNPO法人「わたくし、つまりNobody」が設立され、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞が創設された
夫とは、子供は絶対に産まないという条件で結婚したとされる

まさに、自分の人生、人との比較ではなく、自分がどう生きるか、どう生きたいかなのでしょう。

「それでも森友事件に蓋をしてはいけない」赤木俊夫氏の妻が対談で明かした胸中 ”死去と検証は分けて考えたい”

2022-08-14 12:50:12 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/7e20dfc388e17046512245711026aafcf2872126 8/14(日) 12:12 クーリエ・ジャポン

今年7月8日、安倍晋三元首相が奈良市内で参議院選の選挙演説中に暗殺された。安倍政権は7年8ヵ月という戦後、最も長い政権だったが、森友学園事件など多くの疑惑が、いまだ曖昧のままにされている。森友学園事件の財務省による文書の改ざん問題で、自殺に追い込まれた近畿財務局の赤木俊夫さんの妻・赤木雅子氏に、米国人ジャーナリストのマーティン・ファクラーが話を聞いた。

【画像】「それでも森友事件に蓋をしてはいけない」赤木俊夫氏の妻が対談で明かした胸中

マーティン・ファクラー(以下、MF) この座談会が決まった直後に、驚くべき事件がありました。7月8日、安倍晋三元首相が選挙演説中、暗殺された事件です。自分の意志を暴力で実現させようとするのは、民主主義を脅かすことで、容認してはいけません。日本では、戦前の二・二六事件や大正デモクラシーの崩壊など、テロや暗殺によって民主主義が危機に陥ったことがあります。二度と起こすべきではないと思います。

赤木雅子(以下、赤木) 安倍元首相は私にとって大事な人でした。夫の死に関わる真実を知っている人ですから。夫が死に追い込まれた財務省の文書改ざん問題が起きたのは、安倍元首相が国会で「(森友事件に)私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員もやめる」と発言したのがきっかけになったと思っています。本当のことを話してもらわないといけない人だった。にもかかわらず、この暗殺によって森友事件は蓋をされようとしています。

死亡前日に安倍元首相と対面
MF 安倍元首相が亡くなったからと言って、森友事件を終わりにしてはいけないと思います。必ず真相を明かすべきです。それは赤木俊夫さんのような犠牲者を再び出さないために、そして健全な民主主義を作り上げるためにも、必要だと思います。

赤木 実は私、安倍さんが亡くなる前日にお会いしているんです。

MF それはどちらで?

赤木 前日の7月7日に、安倍さんは神戸市で遊説をしているのですが、そこに手紙を持って行ったのです。聴衆も多かったので、手紙を渡せるタイミングがあるかどうか考えていたのですが、安倍さんが演説を終わった後、一人一人の聴衆とグータッチをしながら歩き始めて、私の前にも来たので、手紙を渡しました。

MF 受け取りましたか?

赤木 「手紙⁉」と嬉しそうに言って受け取ってくれました。おそらく私だとは気がつかずに、ファンレターだと思ったのでしょう。手紙には夫の死について「再調査してください」と書いたのですが、おそらく読んでくださったと思います。

グータッチをしたときに、咄嗟に「手が暖かいな」と思ったのですね。コロナ禍で他人に触れることが減ったので、特にそう思ったのですが、それが翌日には銃弾に倒れて、冷たくなってしまったと考えると……。なんとも言えない気持ちです。

MF 国葬について赤木さんはどうお考えですか?

赤木 誤解を恐れずに、あえて少し危険な話をします。

安倍さんを暗殺した山上徹也容疑者は、家族を理不尽な事で奪われました。その気持ちが少しはわからなくもないです。そして、山上容疑者によって、理不尽に家族を失ってしまった安倍昭恵さんの気持ちが、よくわかります。家族を失う悲しみを知った昭恵さんに、なおさら本当のことを話して欲しいと思っています。真相が明らかにならないままの国葬では、安倍さんも浮かばれないと思います。

MF 森友学園事件は、日本の戦後の民主主義の弱点がよくわかる事件だと思います。権力者の不正が発覚した場合、まず調査をするのが検察ですよね。しかし検察は日本特有の官僚体質で、自己保身のために政権与党の言いなりです。結局、森友事件にかかわった財務省幹部らを、検察は不起訴にしました。

次に、国会ですが、ここでは自民党の一党支配が続いているので、野党が頑張ってもなかなか与党の不正を最後まで追及することが難しい。裁判も一つの手段ですが、問題を直接、調査するわけではありません。結局、権力のチェック機能を持つメディアが調査しなければ、権力者のやりたい放題になってしまいます。

スクープはあっても調査報道がない
赤木 メディアにも頑張ってくださっている記者の方々はいると感じています。

MF この事件が明るみになったのは、朝日新聞が2017年2月に不正が疑われる土地取引があったこと、そして18年3月には取引資料の改ざんがあったことをスクープしたのがきっかけです。それは本当に素晴らしいスクープだと思います。

しかしそのスクープはスタート地点に過ぎないですよね。実際に財務省と政権の間でどんなやりとりがあったのか、なかったのかなどストーリーの追求、つまりスクープの背景に関する調査報道が必要でした。何をどう改ざんしたのか、何を隠したのか、ストーリーをきちんと明かせていないのは、日本のメディアの限界を示していると思います。

あと、日本のメディアの体質がよく表れているのが、この二つのスクープは社会部によるもので、その後、政治部による充分なフォローや追及が足りませんでした。政治部が及び腰で、地方の支局や社会部が付加価値の高い報道をするのは、日本の新聞メディアにはよくあることです。少し古いですが、1988年の贈収賄事件であるリクルート事件も朝日新聞・川崎支局のスクープでした。政治家が絡んでいる話なのに。

赤木 まさにその「背景のストーリー」の部分を知りたくて、私は裁判という方法を取ることにしました。夫が改ざんの事実を記録して残した「赤木ファイル」によって改ざんがあったことは証明されましたが、それは事件解明の糸口に過ぎません。

夫は生前、財務省に「既に意思決定した調書を修正することに疑問が残る」とメールを送っていて、文書改ざんへの疑問を示していました。そんな夫がなぜ公文書を改ざんしてしまったのか、なぜ夫がそんな目にあったのかを、どうしても知りたいと思っています。

財務局が書いた公務災害の申立書には、夫が亡くなった理由について、マスコミと野党の執拗な追及が原因だと書いていました。改ざんの「改」の字もありませんでした。

MF 改ざんに関わった財務省幹部は検察に捜査されましたが、全員不起訴になりましたね。日本の検察は官僚組織独特の問題があります。


古い話ですが、民主党が政権を握る直前の2008~09年にあった大手ゼネコン西松建設の汚職事件がわかりやすいと思います。当時、民主党党首だった小沢一郎さんの秘書が逮捕され、検察側のリークによって、毎日のように小沢さんの話を新聞が報道しました。この問題には自民党の政治家も多く関わっていたのですが、野党の一番強い政治家を狙い撃ちしたわけです。中立であるはずの検察が、自民党を守るために動いたと言えます。

赤木 夫が生きていたら、公文書を改ざんしたことで、検察に起訴されていたかもしれないのですが、私は起訴されて有罪になって、本当のことを話すべきだったと思っています。

感想
上司からの指示であっても、違法な改ざんをすると、改ざんをした本人が苦しみ犠牲者になります。
もし、不正をやるなら、蜂の一刺しではないですが、証拠を掴んで差し違いするくらいの覚悟を持ちたいものです。
そうしないと権力側の思うつぼです。
佐川氏も権力側が出世とかその後の仕事など面倒を見てもらえるから沈黙されているのでしょう。
つまり、権力側の弱みを握っておくことなのでしょう。

安倍元首相を統一教会の関連団体がイベントで追悼…改めて示された“強固な繋がり”に広がる困惑 ”行動が真実を語る”

2022-08-14 09:47:47 | 旧統一教会
https://news.yahoo.co.jp/articles/f80f4dc758661802d414294b4e41232205d6e725 8/14(日) 6:01 女性自身

12日、統一教会(現在は世界平和統一家庭連合)の関連団体が韓国でイベントを開催。その中で銃撃により亡くなった
安倍晋三元首相(享年67)を追悼する時間が設けられ、日本では波紋を呼んでいる。

各メディアによると、開催されたのは統一教会の友好団体であるUPF(天宙平和連合)による平和を祈念するイベント。その開会式で安倍元首相の死去に触れ、「統一と平和のための運動にご尽力された」などとし、追悼の時間を設けたという。

「イベントでは安倍元首相の遺影がスクリーンに映し出され、参加者は献花したといいます。またアメリカのドナルド・トランプ前大統領(76)はこのイベントにビデオメッセージを寄せて『安倍氏の死は、世界にとって大きな損失』と語ったそうです」(全国紙記者)

統一教会の関連団体が安倍元首相へ深い弔意を表すいっぽう、日本では統一教会への厳しい目が向けられている。安倍元首相を銃撃した山上容疑者の母親は教団へ多額の献金を行い、破産し、家庭が崩壊。教団に恨みを抱く山上容疑者は、安倍元首相が昨年9月にUPFのイベントにビデオメッセージを寄せたことなどから、安倍元首相と教団の繋がりを疑い犯行に至ったことが報じられている。

こうした背景から、かねて信者による多額の献金などが問題視されてきた統一教会への関心が再び高まることに。数々の問題が指摘されている団体でありながら、多数の政治家の繋がりが明らかになり、批判の声は高まるばかり。

そんな状況下で統一教会の関連団体が行った安倍元首相に対する追悼と献花。改めて安倍元首相と教団の繋がりの強さが示された形だ。ネット上では、困惑する声が上がっている。

《冷静に考えて、信者でも無い安倍晋三氏にここまでする必要があるのでしょうか? ここまでするくらい、安倍晋三氏は統一教会に無くてはならない存在だったのであろう》
《安倍と統一教会はそれほど関係ないと言われてましたがズブズブですね》
《「山上容疑者が、安倍元総理が統一教会と関係あると思いこみ」と報道されてたけど、深く関係してた事を証明してるやん》

感想
その人が何を考えているか、その団体が何を考えているかは行動が示しています。

あまた宗教がありますが、善い宗教とは信者が善いことをしている宗教ではないでしょうか。
信者が悪いことをしている宗教は、やはり悪い宗教なのです。

そのあたり前のことにも気づかない信者が多いのでしょう。
犠牲者でありながら、加害者にもなっているのです。

人を殺さなければ、傷つけなければ、何をしても良いとはならないのですが。
ひょっとして、信者に生き地獄を神の使命だと言って味わせているのでしょうか。

壺や多宝塔を、人の弱みにつけこんで、脅して数十万円で売りつける。
そういえば、大阪の梅田で、陸橋で花をどうぞという女性がいました。
手に取るとお金を請求して来ました。
あれも統一教会だったようです。
振り込め詐欺はあの手この手で。
旧統一教会も同じようです。
ひょっとして振り込め詐欺の先輩としてお手本になっていたのかもしれません。