・どうしてそんなにジョギングに入れ揚げていたかというと、美容のためでも健康のためでもなく、たぶん相当変わっていると思うけれども、思考のためなのである。あれは効く。あれは凄い。走りながら考えていると、考えも走る。加速するごと三段ロケット、宇宙の涯(はて)まで飛んでゆけるような感じになる。
・「どう生きるか」より、「生きているとはどういうことか」が先ではないのか。
・文学も哲学も、そして宗教も、ともに永劫の不可解に直面した人類が、その絶句と引き換えに手に入れた、それへの態度のとり方である。ただ、宗教だけが違うのが、そのような一連が、ひとりの個人で完結していないということであって、文学と哲学においては、その思索も表現も他者を必要としていない。宗教のみが、他者を、生身の他者を必要とする。
・私にとっては、考えることは自分の呼吸のようなものですから、何を考えているのと今さら問われて、あえて自分が考え始めたはじまりにまで遡ってみると、一言で言えば人生についてということです。
・哲学というのは考えるということであって、極論すれば学ぶということでもないんです。
・私が考えているのは、生きているとはどういうことか、です。これ、問いがひっくり返っていますね。如何に生くべきかという問い以前に、その生きているとはどういうことかが問題のはずです。
・考えるということは、決して悩むことではありません。人が「考えている」と言うとき、よく聴いてみると、それは煩悶している、悩んでいるのであって、きちんと考えているわけではない。きちんと考えていないから、ぐずぐず悩むことになるんです。
・ソクラテスもこう言っています。考えても何の得にもならない。しかしわからないことをわかろうとして考え始めて、如何にわからないかということをはっきりとわかることができる。彼はそれを、無知の知という言い方をしました。
・きちんと考えていると悩まなくなります。考えることが自分から始まって宇宙にまで広がると、その開放感とか自由感というのはすごいものです。なぜかというと、非常に大きなところから自分を見る視点を獲得するからです。相対的な視点が獲得できると、我々は日常の暮らしにべったり張り付いているわけですが、それを、同じ場所にいながら、また宇宙の視点から見ることができるから、非常に自由になれるわけです。
・考えて何の得になるかということをあえて言うなら、そういう人が増えれば必ず社会は変わります。自覚的に生きる人が増えるわけですから、今は自分の日常がすべてだと思い込んであれこれ悩んだり喧嘩したりしているのが、そういうことがどういうことかということを見る目を持つなら、人は必ず変わるし、そういう人が増えれば、社会も世界も時代も変わります。それは大きな効用だと思います。
そういう無用の用というものが、哲学ないし考えるということにはありますから、このような時代だからこそそれは必要なことなんです。つまり宗教的信仰における謎の忘却をもう一度思い出すということ、それから全部がわかると思い込んでいる浅薄な科学主義、そういったものに対する解毒剤になるということです。
・「死とは何か」の一般的な答えとしては、無になること。そこで納得する。しかし、ここも非常に大事なところなのですけど、無というものは無いから無なわけです。無があったら無ではない。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬということは無になることである」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い、すなわち死は無い、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きているのか。その視点を手に入れると、死が存在すると思って生きているこの世の光景が可笑しく見えてくる。無いものを在ると思ってるんですから、思い込みですね。世の中のすべてが錯覚の上で動いている。これはおもしろい。
ですから、死が存在しないと気づきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきり変わってきます。やがて死ぬ、どうせ死ぬなら死は無いから。人生の意味ががらっと変わる。
・「私とは何か」ではなくて、むしろ「何が私という名前で呼ばれているのか」、これが哲学の問いです。これが非常におもしろい。考えていくと本当にきりがない。
・一番最初の問いに帰って、「なぜ生きるのか」と私が問われるなら、「存在するから」と答えます。「なぜ存在するのか」となお問われたら「さあ」と言うしかありません。ただそれ、私だけでなくてすべての人がそうであります。ですから、「さあ」と思ったそこから、再び各人で考えていくことしかあり得ません。これが私の、この問いに対する答えにならない答えであります。
・幸福でない心に、幸福な生活が、はたしてあり得るものだろうか。心とは、いわば分母の1のようなものである。そこにおいて、人生と生活の一切がそのようであるところの、それ自体はなにものでもない分母である。分母が不幸であれば、いかなる分子も不幸だろう、分母が幸福であれば、いかなる分子も幸福だろう。あれこれの生活のありようなど、しょせんは分子的な存在にすぎないということに、なかなか人は気づかない。何ものでもないものを、何ものでもないものとして、常に捉え損ねるのである。
人が、幸福をあれこれの生活の形として捉えがちなのは、おそらく多くは、他人のそれらをそのように見ることよっている。他人の生活、目に見え聞こえてくるそれらを、幸福あるいは不幸の形と認め、自身のそれを計るのである。しかし、目に見え聞こえてくる他人の生活、その形が、幸福であるか不幸であるか、他人に計り知れるものではない、。人の心とは、人の目に見えないところを動いてゆく何かだからである。
・人間とは思い込みの動物である。何らかの観念を、そのようであると思い込むことによって、自身を行為へと駆り立てるのだ。幸福とは、明らかにそのような観念の一種である。
・「私は幸福にならなければならない」というこの観念以上に、脅迫的な観念はないのではなかろうか。人はなぜ、幸福にならなければならないと思い込んでいるのだろうか。幸福でなければ、何が不都合だというのだろうか。
「幸福」という観念を所有した時点で、人は必ずや不幸をも所有する。
・一般に人は、生きていることを幸福といい、死ぬことを不幸という。けれども同時に人は、その生きるために労働することに不平を言い、生きるために食べなければならないという言い方をする。しかし、もし本当に生きていることをそれ自体を幸福と思っているのなら、その生きるために労働することも幸福であるはずだ。すると、生きていることそれ自体は、あるいは不幸なことだと思っているのだろうか。だとしたら、なぜ人はさほどにまで死を厭い、避けようとして生きているのだろうか。生きていることが不幸なことなら、死ぬことは幸福であるはずである。いったい、生存していることそれ自体、幸福なのだろうか、不幸なのだろうか、どっちなのだろうか。
・各種のセラピーやカウンセリングなどが推奨している「自分探し」は、このような文脈にあるようである。対人関係や性格形成などに自信をもてない人々に、「自分であること」「ありのままの自分であること」に自信をもてるように導くという。しかし、自身をもてない人が自信をもてないのは、それに自信をもつべきまさにその自分の何であるかがわからないからではなかろうか。
何かある性格を自分であると認めるためにも、自分とは何であるかが先に知られていなければならないはずだ。
・ソクラテスの最後の言葉を、いま一度じっくりと考えてみたい。
<もう終わりにしよう、時間だからね。僕はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかし、われわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか誰にもはっきりはわからないのだ。神でなければ>
・死とは何かを知らないということは、ひるがえって、生とは何かを知らないということに他ならない。知らないと知っているのだから、考える。生きているとはどういうことか、「自分が生きている」とは、いったどういうことなのか。
感想;
「知ることより考えること」 池田晶子著 "何のための人生か。考えずに生きられる人生は、善い人生ではあり得ない。"
考えることが楽しい。
考えることが人生をより良くするようです。
会社や宗教団体でも、上から不正な指示があると、その不正を行ってしまう人が多いです。
それは自分で考えないからではないでしょうか?
キリスト教では、「心にイエス・キリストを住まわせなさい」と言われます。
聖書からこの場合、イエス・キリストならどうしただろうか?と考えて行動するのです。
神父/牧師さんから言われたらやるのとは違うのです。
心に住んでいるイエス・キリストを正しく理解するために。神父/牧師さんがいらっしゃるのです。
創価学会の礎を築いた戸田聖城二代目会長の『人間革命』を読みました。
統一教会の文鮮明創始者の自叙伝を読みました。
書かれている内容は、人々の幸せと社会への貢献です。
ところがそれを間違って解釈して指示する人が出てくるのです。
心にきちんとその人の考えを入れて、考え、判断すれば、人を不幸に、家族を不幸に、社会を不穏にするような行動は起きません。
何も考えないから、不正なこともしてしまいます。
何も考えないから、それが不正なことであることもわからなくなります。
不正なことを指示する人が間違って理解しているか、それを自分たちのために悪用しているのです。
そして何も考えずに従っていると、利用されるだけ利用され、不必要になると捨てられるか、あるいは悪いことをした責任を取らされるのです。
考えることがとても大切なのだと、昨今の状況から考えてしまいました。
「どう生きるか」の前に「なぜ生きるか/なぜ生きているのか」を考えることが人生をさらに意味あるものに出来るのかもしれません。
池田晶子さんは46歳で腎臓がんで亡くなられています。
没後、夫の伊藤實を理事長としてNPO法人「わたくし、つまりNobody」が設立され、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞が創設された
夫とは、子供は絶対に産まないという条件で結婚したとされる
まさに、自分の人生、人との比較ではなく、自分がどう生きるか、どう生きたいかなのでしょう。
・「どう生きるか」より、「生きているとはどういうことか」が先ではないのか。
・文学も哲学も、そして宗教も、ともに永劫の不可解に直面した人類が、その絶句と引き換えに手に入れた、それへの態度のとり方である。ただ、宗教だけが違うのが、そのような一連が、ひとりの個人で完結していないということであって、文学と哲学においては、その思索も表現も他者を必要としていない。宗教のみが、他者を、生身の他者を必要とする。
・私にとっては、考えることは自分の呼吸のようなものですから、何を考えているのと今さら問われて、あえて自分が考え始めたはじまりにまで遡ってみると、一言で言えば人生についてということです。
・哲学というのは考えるということであって、極論すれば学ぶということでもないんです。
・私が考えているのは、生きているとはどういうことか、です。これ、問いがひっくり返っていますね。如何に生くべきかという問い以前に、その生きているとはどういうことかが問題のはずです。
・考えるということは、決して悩むことではありません。人が「考えている」と言うとき、よく聴いてみると、それは煩悶している、悩んでいるのであって、きちんと考えているわけではない。きちんと考えていないから、ぐずぐず悩むことになるんです。
・ソクラテスもこう言っています。考えても何の得にもならない。しかしわからないことをわかろうとして考え始めて、如何にわからないかということをはっきりとわかることができる。彼はそれを、無知の知という言い方をしました。
・きちんと考えていると悩まなくなります。考えることが自分から始まって宇宙にまで広がると、その開放感とか自由感というのはすごいものです。なぜかというと、非常に大きなところから自分を見る視点を獲得するからです。相対的な視点が獲得できると、我々は日常の暮らしにべったり張り付いているわけですが、それを、同じ場所にいながら、また宇宙の視点から見ることができるから、非常に自由になれるわけです。
・考えて何の得になるかということをあえて言うなら、そういう人が増えれば必ず社会は変わります。自覚的に生きる人が増えるわけですから、今は自分の日常がすべてだと思い込んであれこれ悩んだり喧嘩したりしているのが、そういうことがどういうことかということを見る目を持つなら、人は必ず変わるし、そういう人が増えれば、社会も世界も時代も変わります。それは大きな効用だと思います。
そういう無用の用というものが、哲学ないし考えるということにはありますから、このような時代だからこそそれは必要なことなんです。つまり宗教的信仰における謎の忘却をもう一度思い出すということ、それから全部がわかると思い込んでいる浅薄な科学主義、そういったものに対する解毒剤になるということです。
・「死とは何か」の一般的な答えとしては、無になること。そこで納得する。しかし、ここも非常に大事なところなのですけど、無というものは無いから無なわけです。無があったら無ではない。無は存在しない。存在しか存在しない。したがって、「死ぬということは無になることである」という言い方によって、そこで言われている無というものは無い、すなわち死は無い、ということになります。にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きているのか。その視点を手に入れると、死が存在すると思って生きているこの世の光景が可笑しく見えてくる。無いものを在ると思ってるんですから、思い込みですね。世の中のすべてが錯覚の上で動いている。これはおもしろい。
ですから、死が存在しないと気づきますと、「人生」という言葉の意味するところがまるっきり変わってきます。やがて死ぬ、どうせ死ぬなら死は無いから。人生の意味ががらっと変わる。
・「私とは何か」ではなくて、むしろ「何が私という名前で呼ばれているのか」、これが哲学の問いです。これが非常におもしろい。考えていくと本当にきりがない。
・一番最初の問いに帰って、「なぜ生きるのか」と私が問われるなら、「存在するから」と答えます。「なぜ存在するのか」となお問われたら「さあ」と言うしかありません。ただそれ、私だけでなくてすべての人がそうであります。ですから、「さあ」と思ったそこから、再び各人で考えていくことしかあり得ません。これが私の、この問いに対する答えにならない答えであります。
・幸福でない心に、幸福な生活が、はたしてあり得るものだろうか。心とは、いわば分母の1のようなものである。そこにおいて、人生と生活の一切がそのようであるところの、それ自体はなにものでもない分母である。分母が不幸であれば、いかなる分子も不幸だろう、分母が幸福であれば、いかなる分子も幸福だろう。あれこれの生活のありようなど、しょせんは分子的な存在にすぎないということに、なかなか人は気づかない。何ものでもないものを、何ものでもないものとして、常に捉え損ねるのである。
人が、幸福をあれこれの生活の形として捉えがちなのは、おそらく多くは、他人のそれらをそのように見ることよっている。他人の生活、目に見え聞こえてくるそれらを、幸福あるいは不幸の形と認め、自身のそれを計るのである。しかし、目に見え聞こえてくる他人の生活、その形が、幸福であるか不幸であるか、他人に計り知れるものではない、。人の心とは、人の目に見えないところを動いてゆく何かだからである。
・人間とは思い込みの動物である。何らかの観念を、そのようであると思い込むことによって、自身を行為へと駆り立てるのだ。幸福とは、明らかにそのような観念の一種である。
・「私は幸福にならなければならない」というこの観念以上に、脅迫的な観念はないのではなかろうか。人はなぜ、幸福にならなければならないと思い込んでいるのだろうか。幸福でなければ、何が不都合だというのだろうか。
「幸福」という観念を所有した時点で、人は必ずや不幸をも所有する。
・一般に人は、生きていることを幸福といい、死ぬことを不幸という。けれども同時に人は、その生きるために労働することに不平を言い、生きるために食べなければならないという言い方をする。しかし、もし本当に生きていることをそれ自体を幸福と思っているのなら、その生きるために労働することも幸福であるはずだ。すると、生きていることそれ自体は、あるいは不幸なことだと思っているのだろうか。だとしたら、なぜ人はさほどにまで死を厭い、避けようとして生きているのだろうか。生きていることが不幸なことなら、死ぬことは幸福であるはずである。いったい、生存していることそれ自体、幸福なのだろうか、不幸なのだろうか、どっちなのだろうか。
・各種のセラピーやカウンセリングなどが推奨している「自分探し」は、このような文脈にあるようである。対人関係や性格形成などに自信をもてない人々に、「自分であること」「ありのままの自分であること」に自信をもてるように導くという。しかし、自身をもてない人が自信をもてないのは、それに自信をもつべきまさにその自分の何であるかがわからないからではなかろうか。
何かある性格を自分であると認めるためにも、自分とは何であるかが先に知られていなければならないはずだ。
・ソクラテスの最後の言葉を、いま一度じっくりと考えてみたい。
<もう終わりにしよう、時間だからね。僕はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかし、われわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか誰にもはっきりはわからないのだ。神でなければ>
・死とは何かを知らないということは、ひるがえって、生とは何かを知らないということに他ならない。知らないと知っているのだから、考える。生きているとはどういうことか、「自分が生きている」とは、いったどういうことなのか。
感想;
「知ることより考えること」 池田晶子著 "何のための人生か。考えずに生きられる人生は、善い人生ではあり得ない。"
考えることが楽しい。
考えることが人生をより良くするようです。
会社や宗教団体でも、上から不正な指示があると、その不正を行ってしまう人が多いです。
それは自分で考えないからではないでしょうか?
キリスト教では、「心にイエス・キリストを住まわせなさい」と言われます。
聖書からこの場合、イエス・キリストならどうしただろうか?と考えて行動するのです。
神父/牧師さんから言われたらやるのとは違うのです。
心に住んでいるイエス・キリストを正しく理解するために。神父/牧師さんがいらっしゃるのです。
創価学会の礎を築いた戸田聖城二代目会長の『人間革命』を読みました。
統一教会の文鮮明創始者の自叙伝を読みました。
書かれている内容は、人々の幸せと社会への貢献です。
ところがそれを間違って解釈して指示する人が出てくるのです。
心にきちんとその人の考えを入れて、考え、判断すれば、人を不幸に、家族を不幸に、社会を不穏にするような行動は起きません。
何も考えないから、不正なこともしてしまいます。
何も考えないから、それが不正なことであることもわからなくなります。
不正なことを指示する人が間違って理解しているか、それを自分たちのために悪用しているのです。
そして何も考えずに従っていると、利用されるだけ利用され、不必要になると捨てられるか、あるいは悪いことをした責任を取らされるのです。
考えることがとても大切なのだと、昨今の状況から考えてしまいました。
「どう生きるか」の前に「なぜ生きるか/なぜ生きているのか」を考えることが人生をさらに意味あるものに出来るのかもしれません。
池田晶子さんは46歳で腎臓がんで亡くなられています。
没後、夫の伊藤實を理事長としてNPO法人「わたくし、つまりNobody」が設立され、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞が創設された
夫とは、子供は絶対に産まないという条件で結婚したとされる
まさに、自分の人生、人との比較ではなく、自分がどう生きるか、どう生きたいかなのでしょう。