・AM3時、館山の自宅にいるときは、たいていこのくらいの時間に自然と目がさめてしまいます。なぜかというと、朝からとっても素敵なことが待っているからです。さあ出発!
近所にある大好きな漁港! そこで仲のよい漁師さんの舩(定置網)に乗せてもらい、いっしょに漁へ出るのです。どんなお魚が入っているのかわからない。まるで宝探しのような漁なのです。
いろんなお魚に出会えるものだから、船に乗せていただくと毎回大興奮してしまいます。
漁のお手伝いをしつつ、とれたお魚のデータを記録させてもらったら、お魚さんたちをわけていただき、すぐ近くにある東京海洋大学の研究施設、館山ステーションへ。そこでデータをまとめたり、お魚さんたちの絵を描いたりします。そして午後からダイビング! 海の中へ、お魚さんたちに会いにいくのです!
たくさんのお魚さんたちとの一魚一会の出会いを通して、元気とパワー、そしてなによりも尽きることのない大いなる刺激と感情をいただいております。
お魚が好きで好きで、とにかく大好きで、ただひたすらお魚さんたちだけを夢中で追いつづけていたら、気がつくと「さかなクン」としてこの場所にいました。
そんな奇跡のような、けれども必然のような、なんだか不思議なわが人生。でも半生を振り返ってみて、ひとつだけ確かだと思えることがあります。
それは、”好きに勝るものはなし”ということです。好きだから、もっともっと知りたくなって、知ればしるほどたくさんの感動をいただいて、夢も広がって、そして「さかなクン」ができあがったのです。
お魚の世界に出会ったばかりの幼いころの自分が、いまの姿を見たらなんと言うだろう、とときどき思うことがあります。たぶん、こう言うんじゃないかな。
「ずっとお魚といっしょだなんて! うわぁ~~い! お魚の神様、本当に本当に、ありがとうギョざいます!」
・そんなトラックと妖怪ばかりを描いていた小学2年生のある日のこと、・・・、友達が、ボクの席で、一生懸命なにかを描いている姿が目に飛び込んできました。・・・
「なんかイタズラしてたのかあ。んもう!」・・・
「なんだ、なんだこの絵は!」
まあるい頭に、いまにもぶわぁっと飛び出してきそうなまんまるの目、まるくつきでた口からは、ブッツォーと真っ黒いものをモクモク発射しています。そのうえ、足は二本どころか、びゅるるーんとくねくねした足が何本もついています。そんなえたいの知れない生き物の絵が、自分のノートにド迫力で描かれていたのでした。・・・
その日の放課後、絵の正体を探るべく、帰りの会が終わるとすぐさま、学校の図書室にかけこみました。・・・。
図書室に駆け込んで一時間以上たってからのことでした。
タコタコタコ。まさかあのタコだったとは! ・・・
タコだとわかった瞬間から、頭の中はタコ一色。
・「うっわあ。タコのミニチュアだあ。か~わいい!」
しかも値段は一杯50円。破格の安さです。
「きゃはー。しかも安い! お母さん、このタコ、このタコ買って~!」
「あら、イイダコね。いいわよ。じゃあ今日は久しぶりにおでんにしょっか。」
こうして買ってもらった初めてのタコ。うれしくてうれしくて、家に帰ると手のひらにのせて、ずーっと眺めていました。
「ほわぁ。かっわいいなぁ。いろんな角度から見ると、またすっごくおもしろーお!」・・・
寝ても覚めてもタコタコタコ。・・・
そして夕食は毎日のようにタコをおねだり。それでも母はイヤな顔ひとつしませんでした。それどころかお刺身、煮込み、酢の物など味付けをを変えて
1か月ほども毎日、タコ料理を作りつづけてくれたのでした。
・「うわうわぁ♡ ウマヅラハギちゃんがいる! うれしい!」
「お母さん、いま大和にいったらね、柳川さんの水槽の中にウマヅラハギちゃんがいたんだよ! いいなあいいなあ。」
「じゃあいってみようか。」
と、すぐに車で連れていってくれたのです。
「あのー。表で泳いでいるウマヅラハギちゃんをください!」
すると板前さんはニコッとして、
「あいよ、ウマヅラハギね。ちょっと待っててな。」
ついにおうちでウマヅラハギちゃんを飼えるときがきたぞ。
・・・ところが、なにか変です。
「おっかしいな。お水に入れて袋か箱に入れてくれればいいだけなのに。もしかしてエサもつけてくれているのかな。」
「はい、いっちょ!」
「ぎゃあ、ひえええええ!」
そこにはなんと、姿造りにされたウマヅラハギちゃんが・・・。
母が、優しく声をかけてくれました。
「食べてみようよ。」
「あ、あまい! すっごい歯ごたえ! 口の中で跳ね返ってくる!」
・家庭訪問では、母は毎年、その年の担任の先生に同じことを言われていたと言います。
「本当に絵がお上手ですね。彼の描く絵はすばらしい。ただ、授業中も魚の絵を描いてばかりで、授業にまったく集中していません。もう少し、学校の勉強もきちんとやるように家庭でもご指導していただけませんか。」
すると母はいつもこう言っていたそうです。
「あの子は魚が好きで、絵を描くことが大好きなんです。だからそれでいいんです。」
「しかし、いまのままでは授業にまったくついていけていません。今後困るのはお子さんなんですよ。」
「成績が優秀な子がいればそうでない子もいて、だからいいんじゃないですか。みんながみんないっしょだったら、先生、ロボットになっちゃいますよ。」
困ったのは先生のほう。まさかそんな返事が返ってくるとは思っていなかったでしょう。こんな提案もしてくれました。
「では、絵の才能を伸ばすために、絵の先生をつけて勉強をさせてあげたらいかがですか。」
「そうすると、絵の先生とおなじ絵になってしまいますでしょ。あの子には、自分の好きなように描いてもらいたいんです。今だって、誰にも習わずに自分だあれだけのものを描いていいます。それでいいんです。」
母の態度は一貫していました。先生に語ったこの言葉どおり、「勉強しなさい。」とか「お魚のことは、これくらいにしときなさい。」などと言ったことは、いっさいありませんでした。そのかわり、
「お魚が大好きなんだから、好きなだけ絵を描くといいよ。」
そう言って、いつも背中を押してくれたのでした。
そのおかげで、自分はこれまでずっと、お魚に夢中になってこれました。今の今まで、一度たりともこのお魚好きを、自分自身で恥ずかしいとか、変だと思うことがなかったのは、母の力が大きかったのかもしれません。
・絵は自分で楽しむだけじゃない。人に見てもらい、人をよろこばせるという役割もあるんだ。そして、自分の書いた文や絵が、人を動かし、影響を与えることもあるんだ。
先生がミーボ―新聞を通して教えてくれたのは、宝物にようにかけがえのない、たいせつなことでした。絵に力があることを始めて知ったのです。
・神様からの手紙
奥谷先生への想いは、日に日に強くなっていきました。奥谷先生の名前のとなりには、かならず、”東京水産大学”の文字があります。
「きっと奥谷先生は、この東京水産大学の偉ーい先生なんだろうか。」
ある日、気持ちがおさえられなくなって、勇気をだして、奥谷先生あてに手紙を出すことにしました。心をこめてタコの絵を描き、
『将来、奥谷先生のような立派なタコの博士になりたいです。』
と書きました。気持ちさえ伝えられればいい、そう思っていました。
すると数日後、奇跡のようなことが! 小学校から帰ると、母から一通の手紙が手渡されました。
封筒の裏を見ると、”東京水産大学 奥谷喬司”先生のお名前が!
「うわうわうわぁああああ。か、神様からお返事が届いたー! お返事いただけたー!」
ビックリしすぎて、ドスンと尻もちをついてしまったほど。
・それをみんながこんなにも、笑顔でよろこんでくれる、興味を持ってくれる。しかも「素人が(カブトガニの)人工ふ化に成功したのは日本初」というご褒美までついてきました。
・釣りにいくと、どんな人も不思議とみんな笑顔になります。そして心と心が触れ合っていっきに距離が縮まるのです。(ヤンキーから殴られそうになり、魚の話から一緒に釣りに行った体験)
・この前とおなじ店員さんが、またバスクラリネットを吹かせてくれました。この音を母に聞かせたかった自分としては、もうそれだけで大満足でした。
「この音色をどうしても母に聞かせたかったんです。ありがとうございました。」
そうお礼を言う自分の横で、母は突然、
「本当にすばらしい音色です。このバスクラリネット、いただけますか?」
「えっ? おかあさん?!」
「いいのよ、買いましょう。」
「ちょ、ちょっと待って。お誕生日でもクリスマスでもないんだから。それに高いんだよ(47万円)。いいよ、買わなくていいよ。」
あせって止める自分に、母は言いました。
「大丈夫よ。こういうときのために。コツコツためてた定期預金、おろしてきたから。」
まさか母がこんな大金を用意してきてくれていたとは。自分としては本当に音色を聞かせたかっただけなのに。うれしさと申し訳なさで、心の中は大混乱でした。
「お母さん、ありがとう! いつか、出世払いでかならずお返しします。」
「じゃあ、その日を待ってるわね。」
母はそう言って、笑ったのでした。
それからというもの、バスクラリネットを吹く日々がはじまりました。
・はじめてのアルバイト
最初に言われたのは、
「おめー、アジ洗っとけ!」
水道水で洗っているとそれまでキラキラ輝いていたマアジが、なぜかみるみるうちに真っ白になっていきます。
(あれ、なんでだろう?」
不安に感じていると、
「おい、バッカヤロー! オメエなに水で洗ってんだ!」
とつぜん背後からカミナリが落ちたかと思うようなどなり声が飛んできました。
「海の魚のアジを真水で洗うヤツがあるかぁぁぁぁ!」
海水魚のマアジは、淡水で洗うとあっというまに色と輝きがあせてしまうのです。だから海水と同じ濃度の塩水を作り、その中で洗わなければいけなかったのですが、なにも知らなかったため、そのまま水道水で洗ってしまったのです。
自分が洗ったマアジは、ぜんぶ買い取るはめになりました。
・「エビスダイちゃん、また失敗して怒られちゃったよ。」
ため息をつきながらそう語りかけると、3匹のエビスダイちゃんはいつも不思議に寄り添ってこちらを見つめてくれるのです。そして、
「そんなことはたいしたことじゃないぞ!」
と言ってくれているかのように、黒目がちなクリクリおめめで見つめてくれるのでした。その姿を見るたび、
「そうだよね。こんなことでへこたれてちゃダメだよね。明日もがんばるね。」
と、元気とパワーをもらえるのでした。
・水族館は向いていなかった。お魚屋さんも高校時代のアルバイトでこりている。じゃあ別の道で、お魚と関われる仕事を探そう。そう気持ちを切り替え、次にはじめたのが、熱帯魚屋さんでのアルバイトでした。
専門学校(行きたかった東京水産大には行けず)を卒業すると同時に、アルバイトしながら海水魚を専門にあつかうコーナーのすべてを任されるまでになったのです。仕入れから経理、お店の運営方法まで、ぜんぶを自分で管理することになりました。
これを機に、お店の近くで初めての一人暮らしもはじめました。
・「お母さん、熱帯魚屋さんから正社員にならないか、と誘ってもらったんだけど、
ことわろうと思うんだ。熱帯魚屋さんもやめようと思う(2年間働いた)。」
「あら、どうして?」
母はしずかにたずねました。
「はっきり言葉にするのは難しいんだけど、ちがうと思うんだ。なんかちがう気がする。自分の生きる道は。」
「そう思うなら、そうしたらいいよ。一度しかない人生なんだもの。自分の決めたことがいちばんよ。お母さんは応援してるから。」
母の言葉に背中を押され、一からまた新たな道を探すことにしました。あとから知ったのですが、このとき、親戚やまわりの大人たちから「なぜ定職につかせないのか。」「ちょっと甘いんじゃないのか。」と母はいろいろ言われていたようです。けれど母は、自分にはそんなことは、なにひとつ言いませんでした。ただひたすら、信じて応援してくれていたのでした。
・みんなのサポートでリベンジ(『全国魚通選手権』準優勝)
次の大会にも出られることになり、がぜんやる気になったのは、自分だけではありませんでした。まず、もっとも強力なサポーターとなったのは、母でした。
「マーちゃんは、お魚の名前や特徴とかは詳しいけど、TVチャンピオンで優勝するにはもっとお魚の味を覚えなきゃね。」
と、毎日いろいろなお魚をさまざまな調理法、味付けで食卓に出してくれました。それをただ食べるのではありません。からならず最初は目隠しして、
「このお魚はなにか当ててみて。」と問題を出してくれるのです。正解するまで目隠しを外させない徹底ぶりでした。
サポートしてくれたのは、母だけではありませんでした。近所のお魚屋さんやお寿司屋さんも、
「珍しい魚仕入れておくから、がんばれよ!」
と、あまり手に入らないキツネダイやウッカリカサゴなどのお魚をわざわざ仕入れてくださり、届くとすぐに連絡をくれました。そして味の特徴やオススメの食べ方もくわしくおしえてくれたのです。
・優勝すると、賞金をもらいました。そして、最初の優勝賞金は、母に渡しました。
「お母さん、これ、バスクラリネットのお金。出世払いで払うって言っていたでしょう。」
「まあ! せっかく自分でがんばって、初めて勝ちとった賞金じゃない。」
賞金を渡す自分に、母はおどろいたようでした。
「早くお金を返せてうれしいんだ。お母さん、ありがとう。」
「そう。じゃあいただいておくわね。まさか1年もたたないうちに返してもらえるとは思いもしなかったわ。」
この優勝を皮切りに、その後も選手として出場し、なんと! 5連覇できました。
・専門学校を卒業後、熱帯魚屋さんと掛け持ちで働いていたのが、大船になるお寿司屋さんでした。大将の川澄さんとは、TVチャンピオンがきっかけで知り合いました。川澄さんは『全国すし職人にぎり技選手権』そして自分は『全国魚通選手権』での優勝者同志でした。
お魚のお仕事を探していることを知り、川澄さあんが「アルバイトにおいで。」と言ってくれたのでした。
「本当に不器用だな。」
「できました! このシャリいかがですか。」
「それじゃ、おにぎりだろ。」
「はあ、お寿司屋さんも向いていないなぁ。」
・「また絵を描いてんのかい?」
「はいっ! お魚の絵を描いていると、時間を忘れちゃうんですよ。このウマヅラハギちゃんのやさしい表情を絵であらわせるとすっごいうれしくて。」
そう答えると、川澄さんは絵をのぞき込んで言いました。
「たしかに、表情があって、面白く描くね。」
「ありがとうございます! うわあ~、ほめていただいてうれしいです。」
すると、川澄さんはポンと手をたたいて、こう言ったのです。
「はっきりいって、寿司職人には向いていないけど、絵はすばらしい! そうだ、絵を描いてよ。うちの店の壁いっぱいに! 好きなように魚を描いて!」
「えええ! 本当ですか~?」
川澄さんの突然の提案に、びっくりしました。もちろんお店の壁に描くなんて、いままで考えたことも想像したこともありません。
「だーいじょうぶ大丈夫、思いきり描いちゃってよ。」
と、さわやかにおっしゃってくださいました。
「そう言っていただけるなら。描かせていただきます!」
すぐに川澄さんは、アクリル絵の具など必要な画材一式を、ぜんぶ買いそろえてくださいました。しかも、
「思いっきりのびのび描いていいよ。時給も上げるからさ。」
絵を描いてお金をいただくのは人生で初めてでした。
「うわぁああ。よーし! がんばるぞぉ!」
・壁画が完成してから数か月後。川澄さんのお魚壁画のうわさはどんどん広まり、いろいろなところから「うちにも描いて。」「うちのお店にもお願いします。」と、どんどんお声をかけていただくようになりました。
「え!! 本当?!」と、とまどいを感じつつも、自分の絵を気に入ってくださった、そのことがただうれしくて、よろこんで引き受けることにしたのでした。
いただいたご依頼は、ひとつひとつじっくり心をこめて、お魚の命を絵にこめるような気持で描いていきました。するとまたさらに評判になり、いつしかお魚の壁画アートが、自分の主な収入源になっていきました。
そんなある日、テレビ局の方から電話がかかってきました。
「壁に魚の絵を描いているというあなたのうわさを聞きました。とてもおもしろい生活なのでぜひ密着させていただき、ドキュメンタリー番組に取り上げさせてください。」
専門学校を卒業してから数年。自分にピッタリの生き方が見つからず、フラフラと試行錯誤しなが回遊していた自分の目の前に、とつぜん光が射した瞬間でした。
・密着していいただいた番組は、30分間のドキュメンタリーとして放送されました。
すると、思わぬことが起こりました。オンエアを見て、自分に興味を持ってくださった会社が、これからの仕事を全面的に応援してくださることになったのです!
「さかなクン」として初めてとなるお仕事は、江ノ島水族館での作品展に決まりました。
「夏休みにさかなクンの絵で作品展をしようよ!」
・(あんなに強くて一生懸命なハコフグが頭にのっていれば、勇気をもらえるはず! ハコフグちゃんのようにめげずにがんばれる気がする!)
なによりも変わったのは、自分自身。あんなに人前で話すのが苦手だったのに、ハコフグが頭にいると、そのとたんスイッチが入ったかのように、不思議とお魚の魅力がパーッと表現できるようになったのです。
・東京水産大学へ通っている学生さんに会うのは、そのときが初めてでした。すっかり舞い上がってしまい、どんな授業があるのか、どんな研究をしているのか、質問攻めにしてしまいました。するとその学生さん、西迫くんは言いました。
「そんなにあこがれているんですか? だったら研究施設にいっしょにいきますか? すぐそこにあるので。」
と誘ってくれたのです。
研究施設を案内してもらった後、西迫くんの紹介で先生方にごあいさつをさせていただくことになりました。すると先生方はとつぜんきたにもかかわらず、
「あ! TVチャンピオンの子だよね。見てたよ!」
「さかなクンでしょ、がんばっているね。最近よくテレビで観るよ。」
と、口々に声をかけて下さったのです。偉大な東京水産大学の先生方が、自分のことを知ってくださっている! うれしくって大感動で、胸がいっぱいになってしまいました。
「ありがとうギョざいます! 館山に引っ越してきました! 自分にも、お魚のことを教えてください!」
これをきっかけに、東京水産大学の先生方との交流がはじまりました。館山に帰ったときは先生方に学ばせていただくようになりました。
・2006年の秋。一通の報せが届きました。なんと! 東京海洋大学(2003年に東京水産大学と東京商船大学が統合)からでした。
刑部先生が自分を客員助教授(現・客員准教授)に推薦してくださったのです。
「ヒャー-!!」
「まさかあ。それはないでしょう。わかった?! どっきりなんじゃない?」
「本当ですよ、さかなクン!」
それでもまだ夢を見ているような感覚でした。それも無理はありません。だって東京海洋大学といえば、名前は変わったけれど、ずっとあこがれていた、あの東京水産大学です。世の中にたくさんある大学の中で、唯一いきたいと思い、ずっとあこがれて、けれどもいきたくてもいくことのできなかった大学なのです。客員助教授となれば、そこの先生になるということです! そんな奇跡、かんたんに信じることができるでしょうか。
小学生のころ、卒業文集に書いた言葉を思い出していました。
「東京水産大学の先生になって、調べたお魚のことをみんなに教えてあげたい。そして図鑑を作りたい。」
お魚に夢中になりすぎて大学にも入れなかった自分が、お魚に夢中になりすぎたおかげで、小さいころから持ちつづけていた夢が目の前までやってきました。
・「安永館長! 今日はまことにありがとうギョざいます! あのときここ(サンシャイン国際水族館)で実習させていただいたことは、自分にとって宝物です!」
すると安永館長はニコニコして言うのです。
「そうなの? きみはずーっと魚ばっかり見ててぜんぜん仕事してなかったけどね。」
まわりにいた人たちは、みんなドッと大爆笑!
・数日後、なんと! 東京水産大学名誉教授・奥谷喬司先生から、お祝いのお手紙をいただきました。
自分にとっては、まさに神様からのお言葉。感激すると同時に、身の引きしまる思いがしたのを、いまでも昨日のことのように思い出します。卒業文集を書いたころに自分が知ったら、どんなにビックリすることでしょう!!
・さかなクンが、とっても長くつづけさせていただいているお仕事があります。それは2002年からこれまで、14年もの間ずっと連載させていただいている朝日小学生新聞のコラム「おしえてだかなクン」。
・もうひとつ、いまにつながっているものがあります。
それは管楽器。中学で吹奏楽(水槽学と勘違い)に出会って以来、トロンボーン、バスクラリネット、サクソフォンとずっとつづけてきた管楽器が、お魚の世界とおなじく、いまではさかなクンの生活にはなくてはならないものになっています。
数年前からは、『ブラス・ジャンボリー』という年に2回おこなわれる音楽の大イベントに、ゲストとして呼んでいただくようになりました。
・奇跡の魚
2010年、うれしい出来事がありました。絶滅していたと思われていたサケ科のお魚、クニマスが再発見されたのです。感動の出来事にすこしでもかかわることができたのは、自分にとってうれしい宝物です。
絶滅した幻の魚「クニマス」が再び発見されたのは“あの人”のおかげ!!
https://getnavi.jp/book/58690
「京都大学からクニマスのイラスト執筆を依頼されたさかなクンは、参考のために西湖から近縁種であるヒメマスを取り寄せた。そのとき、クニマスに酷似した個体をさかなクンが発見。以後、京都大学で解剖や遺伝子解析を行った結果、正式にクニマスであると発表された。絶滅前に田沢湖から送られた卵から生まれた稚魚が生き延び、交配を繰り返して生存したようだ。」
・2015年、クニマスの生息確認に貢献したことや、内閣総理大臣賞受賞などがきっかけとなり、なんと! 東京海洋大学から名誉博士号が授与されました。大変ありがたい気持ちでいっぱいです。名前負けしないように、がんばります。
・もしお子さんがいらっしゃったら、いまのお子さんが夢中になっているものが、すぐ思い浮かぶはずです。それは虫かもしれないし、ゲームやお菓子かもしれません。つい「もうやめなさい!」なんて言ってしまいたくなるかもしれません。けれど、ちょっとでもお子さんが夢中になっている姿を見たら、どうか「やめなさい」とすぐ否定せず、「そんなに面白いの? 教えて。」と、きいてみてあげてください。きっとお子さんは喜んで話をしてくれるはずです。その小さな芽が、もしかしたら将来とんでもなく大きな木に育つかもしれません。
夢は、言葉に出すとかなう気がします。心の中で思っているだけじゃなく、言葉にしたり絵に描いたり、表現することがとても大事な気がするのです。その思いが、夢を現実へと近づけてくれるのだと思います。
自分は、いまでも小学生のころとおなじようにワクワクしています。お魚に会うと、心が浮き立つような気持になり、毎回大漁の感動をもらっています。
感想;
さかなクンのこれまでの半生が映画になるとの記事でこの本を知り読みました。
さかなクンはとてもステキです。
読んでいて、さかなクンのお母さんがとてもすばらしく感じました。
お母さんは、さかなクンが自分でやるように見守り、失敗から学ぶということを教えて来られたように思います。
お母さんとのエピソードを多く引用しました。
さかなクンのお父さんは、宮沢吾郎九段(囲碁棋士)です。
囲碁が好きなので、さかなクンを知る前から知っていました。
戦いの碁なので、自分も戦いが好きなので、特によく知っていました。
さかなクンのお父さんが宮沢吾郎九段だと知り、びっくり。
囲碁棋士は子どもにも囲碁を教えることが多いのですが、きっとさかなクンは興味がなかったのでしょう。
さかなクンはとても魅力的で多くの人を惹きつけるようです。
今のさかなクンのお仕事は、いろいろな試行錯誤や失敗を乗り越えた結果のようです。
どこにどのような縁があるのかわからないですね。
さかなクンは、今を大切にしてきたこと、そしてやはり自分がやりたいことをやって来られたからのように思いました。
知るは好きに如かず
好きは楽しむに如かず
さかなクンは、ワクワクしながら、さかなのお仕事をされています。
仕事にワクワク感をどう持たせるか、どう楽しむかの工夫も大切なのでしょう。
それと失敗を恐れないこと。
失敗したら、ギョ! ギョ! ギョ!
さかなクンとお母さんから、大切なことを教えていただいたようです。
「さかなクン」の母に学ぶ、子どもを信じる伸ばし方
近所にある大好きな漁港! そこで仲のよい漁師さんの舩(定置網)に乗せてもらい、いっしょに漁へ出るのです。どんなお魚が入っているのかわからない。まるで宝探しのような漁なのです。
いろんなお魚に出会えるものだから、船に乗せていただくと毎回大興奮してしまいます。
漁のお手伝いをしつつ、とれたお魚のデータを記録させてもらったら、お魚さんたちをわけていただき、すぐ近くにある東京海洋大学の研究施設、館山ステーションへ。そこでデータをまとめたり、お魚さんたちの絵を描いたりします。そして午後からダイビング! 海の中へ、お魚さんたちに会いにいくのです!
たくさんのお魚さんたちとの一魚一会の出会いを通して、元気とパワー、そしてなによりも尽きることのない大いなる刺激と感情をいただいております。
お魚が好きで好きで、とにかく大好きで、ただひたすらお魚さんたちだけを夢中で追いつづけていたら、気がつくと「さかなクン」としてこの場所にいました。
そんな奇跡のような、けれども必然のような、なんだか不思議なわが人生。でも半生を振り返ってみて、ひとつだけ確かだと思えることがあります。
それは、”好きに勝るものはなし”ということです。好きだから、もっともっと知りたくなって、知ればしるほどたくさんの感動をいただいて、夢も広がって、そして「さかなクン」ができあがったのです。
お魚の世界に出会ったばかりの幼いころの自分が、いまの姿を見たらなんと言うだろう、とときどき思うことがあります。たぶん、こう言うんじゃないかな。
「ずっとお魚といっしょだなんて! うわぁ~~い! お魚の神様、本当に本当に、ありがとうギョざいます!」
・そんなトラックと妖怪ばかりを描いていた小学2年生のある日のこと、・・・、友達が、ボクの席で、一生懸命なにかを描いている姿が目に飛び込んできました。・・・
「なんかイタズラしてたのかあ。んもう!」・・・
「なんだ、なんだこの絵は!」
まあるい頭に、いまにもぶわぁっと飛び出してきそうなまんまるの目、まるくつきでた口からは、ブッツォーと真っ黒いものをモクモク発射しています。そのうえ、足は二本どころか、びゅるるーんとくねくねした足が何本もついています。そんなえたいの知れない生き物の絵が、自分のノートにド迫力で描かれていたのでした。・・・
その日の放課後、絵の正体を探るべく、帰りの会が終わるとすぐさま、学校の図書室にかけこみました。・・・。
図書室に駆け込んで一時間以上たってからのことでした。
タコタコタコ。まさかあのタコだったとは! ・・・
タコだとわかった瞬間から、頭の中はタコ一色。
・「うっわあ。タコのミニチュアだあ。か~わいい!」
しかも値段は一杯50円。破格の安さです。
「きゃはー。しかも安い! お母さん、このタコ、このタコ買って~!」
「あら、イイダコね。いいわよ。じゃあ今日は久しぶりにおでんにしょっか。」
こうして買ってもらった初めてのタコ。うれしくてうれしくて、家に帰ると手のひらにのせて、ずーっと眺めていました。
「ほわぁ。かっわいいなぁ。いろんな角度から見ると、またすっごくおもしろーお!」・・・
寝ても覚めてもタコタコタコ。・・・
そして夕食は毎日のようにタコをおねだり。それでも母はイヤな顔ひとつしませんでした。それどころかお刺身、煮込み、酢の物など味付けをを変えて
1か月ほども毎日、タコ料理を作りつづけてくれたのでした。
・「うわうわぁ♡ ウマヅラハギちゃんがいる! うれしい!」
「お母さん、いま大和にいったらね、柳川さんの水槽の中にウマヅラハギちゃんがいたんだよ! いいなあいいなあ。」
「じゃあいってみようか。」
と、すぐに車で連れていってくれたのです。
「あのー。表で泳いでいるウマヅラハギちゃんをください!」
すると板前さんはニコッとして、
「あいよ、ウマヅラハギね。ちょっと待っててな。」
ついにおうちでウマヅラハギちゃんを飼えるときがきたぞ。
・・・ところが、なにか変です。
「おっかしいな。お水に入れて袋か箱に入れてくれればいいだけなのに。もしかしてエサもつけてくれているのかな。」
「はい、いっちょ!」
「ぎゃあ、ひえええええ!」
そこにはなんと、姿造りにされたウマヅラハギちゃんが・・・。
母が、優しく声をかけてくれました。
「食べてみようよ。」
「あ、あまい! すっごい歯ごたえ! 口の中で跳ね返ってくる!」
・家庭訪問では、母は毎年、その年の担任の先生に同じことを言われていたと言います。
「本当に絵がお上手ですね。彼の描く絵はすばらしい。ただ、授業中も魚の絵を描いてばかりで、授業にまったく集中していません。もう少し、学校の勉強もきちんとやるように家庭でもご指導していただけませんか。」
すると母はいつもこう言っていたそうです。
「あの子は魚が好きで、絵を描くことが大好きなんです。だからそれでいいんです。」
「しかし、いまのままでは授業にまったくついていけていません。今後困るのはお子さんなんですよ。」
「成績が優秀な子がいればそうでない子もいて、だからいいんじゃないですか。みんながみんないっしょだったら、先生、ロボットになっちゃいますよ。」
困ったのは先生のほう。まさかそんな返事が返ってくるとは思っていなかったでしょう。こんな提案もしてくれました。
「では、絵の才能を伸ばすために、絵の先生をつけて勉強をさせてあげたらいかがですか。」
「そうすると、絵の先生とおなじ絵になってしまいますでしょ。あの子には、自分の好きなように描いてもらいたいんです。今だって、誰にも習わずに自分だあれだけのものを描いていいます。それでいいんです。」
母の態度は一貫していました。先生に語ったこの言葉どおり、「勉強しなさい。」とか「お魚のことは、これくらいにしときなさい。」などと言ったことは、いっさいありませんでした。そのかわり、
「お魚が大好きなんだから、好きなだけ絵を描くといいよ。」
そう言って、いつも背中を押してくれたのでした。
そのおかげで、自分はこれまでずっと、お魚に夢中になってこれました。今の今まで、一度たりともこのお魚好きを、自分自身で恥ずかしいとか、変だと思うことがなかったのは、母の力が大きかったのかもしれません。
・絵は自分で楽しむだけじゃない。人に見てもらい、人をよろこばせるという役割もあるんだ。そして、自分の書いた文や絵が、人を動かし、影響を与えることもあるんだ。
先生がミーボ―新聞を通して教えてくれたのは、宝物にようにかけがえのない、たいせつなことでした。絵に力があることを始めて知ったのです。
・神様からの手紙
奥谷先生への想いは、日に日に強くなっていきました。奥谷先生の名前のとなりには、かならず、”東京水産大学”の文字があります。
「きっと奥谷先生は、この東京水産大学の偉ーい先生なんだろうか。」
ある日、気持ちがおさえられなくなって、勇気をだして、奥谷先生あてに手紙を出すことにしました。心をこめてタコの絵を描き、
『将来、奥谷先生のような立派なタコの博士になりたいです。』
と書きました。気持ちさえ伝えられればいい、そう思っていました。
すると数日後、奇跡のようなことが! 小学校から帰ると、母から一通の手紙が手渡されました。
封筒の裏を見ると、”東京水産大学 奥谷喬司”先生のお名前が!
「うわうわうわぁああああ。か、神様からお返事が届いたー! お返事いただけたー!」
ビックリしすぎて、ドスンと尻もちをついてしまったほど。
・それをみんながこんなにも、笑顔でよろこんでくれる、興味を持ってくれる。しかも「素人が(カブトガニの)人工ふ化に成功したのは日本初」というご褒美までついてきました。
・釣りにいくと、どんな人も不思議とみんな笑顔になります。そして心と心が触れ合っていっきに距離が縮まるのです。(ヤンキーから殴られそうになり、魚の話から一緒に釣りに行った体験)
・この前とおなじ店員さんが、またバスクラリネットを吹かせてくれました。この音を母に聞かせたかった自分としては、もうそれだけで大満足でした。
「この音色をどうしても母に聞かせたかったんです。ありがとうございました。」
そうお礼を言う自分の横で、母は突然、
「本当にすばらしい音色です。このバスクラリネット、いただけますか?」
「えっ? おかあさん?!」
「いいのよ、買いましょう。」
「ちょ、ちょっと待って。お誕生日でもクリスマスでもないんだから。それに高いんだよ(47万円)。いいよ、買わなくていいよ。」
あせって止める自分に、母は言いました。
「大丈夫よ。こういうときのために。コツコツためてた定期預金、おろしてきたから。」
まさか母がこんな大金を用意してきてくれていたとは。自分としては本当に音色を聞かせたかっただけなのに。うれしさと申し訳なさで、心の中は大混乱でした。
「お母さん、ありがとう! いつか、出世払いでかならずお返しします。」
「じゃあ、その日を待ってるわね。」
母はそう言って、笑ったのでした。
それからというもの、バスクラリネットを吹く日々がはじまりました。
・はじめてのアルバイト
最初に言われたのは、
「おめー、アジ洗っとけ!」
水道水で洗っているとそれまでキラキラ輝いていたマアジが、なぜかみるみるうちに真っ白になっていきます。
(あれ、なんでだろう?」
不安に感じていると、
「おい、バッカヤロー! オメエなに水で洗ってんだ!」
とつぜん背後からカミナリが落ちたかと思うようなどなり声が飛んできました。
「海の魚のアジを真水で洗うヤツがあるかぁぁぁぁ!」
海水魚のマアジは、淡水で洗うとあっというまに色と輝きがあせてしまうのです。だから海水と同じ濃度の塩水を作り、その中で洗わなければいけなかったのですが、なにも知らなかったため、そのまま水道水で洗ってしまったのです。
自分が洗ったマアジは、ぜんぶ買い取るはめになりました。
・「エビスダイちゃん、また失敗して怒られちゃったよ。」
ため息をつきながらそう語りかけると、3匹のエビスダイちゃんはいつも不思議に寄り添ってこちらを見つめてくれるのです。そして、
「そんなことはたいしたことじゃないぞ!」
と言ってくれているかのように、黒目がちなクリクリおめめで見つめてくれるのでした。その姿を見るたび、
「そうだよね。こんなことでへこたれてちゃダメだよね。明日もがんばるね。」
と、元気とパワーをもらえるのでした。
・水族館は向いていなかった。お魚屋さんも高校時代のアルバイトでこりている。じゃあ別の道で、お魚と関われる仕事を探そう。そう気持ちを切り替え、次にはじめたのが、熱帯魚屋さんでのアルバイトでした。
専門学校(行きたかった東京水産大には行けず)を卒業すると同時に、アルバイトしながら海水魚を専門にあつかうコーナーのすべてを任されるまでになったのです。仕入れから経理、お店の運営方法まで、ぜんぶを自分で管理することになりました。
これを機に、お店の近くで初めての一人暮らしもはじめました。
・「お母さん、熱帯魚屋さんから正社員にならないか、と誘ってもらったんだけど、
ことわろうと思うんだ。熱帯魚屋さんもやめようと思う(2年間働いた)。」
「あら、どうして?」
母はしずかにたずねました。
「はっきり言葉にするのは難しいんだけど、ちがうと思うんだ。なんかちがう気がする。自分の生きる道は。」
「そう思うなら、そうしたらいいよ。一度しかない人生なんだもの。自分の決めたことがいちばんよ。お母さんは応援してるから。」
母の言葉に背中を押され、一からまた新たな道を探すことにしました。あとから知ったのですが、このとき、親戚やまわりの大人たちから「なぜ定職につかせないのか。」「ちょっと甘いんじゃないのか。」と母はいろいろ言われていたようです。けれど母は、自分にはそんなことは、なにひとつ言いませんでした。ただひたすら、信じて応援してくれていたのでした。
・みんなのサポートでリベンジ(『全国魚通選手権』準優勝)
次の大会にも出られることになり、がぜんやる気になったのは、自分だけではありませんでした。まず、もっとも強力なサポーターとなったのは、母でした。
「マーちゃんは、お魚の名前や特徴とかは詳しいけど、TVチャンピオンで優勝するにはもっとお魚の味を覚えなきゃね。」
と、毎日いろいろなお魚をさまざまな調理法、味付けで食卓に出してくれました。それをただ食べるのではありません。からならず最初は目隠しして、
「このお魚はなにか当ててみて。」と問題を出してくれるのです。正解するまで目隠しを外させない徹底ぶりでした。
サポートしてくれたのは、母だけではありませんでした。近所のお魚屋さんやお寿司屋さんも、
「珍しい魚仕入れておくから、がんばれよ!」
と、あまり手に入らないキツネダイやウッカリカサゴなどのお魚をわざわざ仕入れてくださり、届くとすぐに連絡をくれました。そして味の特徴やオススメの食べ方もくわしくおしえてくれたのです。
・優勝すると、賞金をもらいました。そして、最初の優勝賞金は、母に渡しました。
「お母さん、これ、バスクラリネットのお金。出世払いで払うって言っていたでしょう。」
「まあ! せっかく自分でがんばって、初めて勝ちとった賞金じゃない。」
賞金を渡す自分に、母はおどろいたようでした。
「早くお金を返せてうれしいんだ。お母さん、ありがとう。」
「そう。じゃあいただいておくわね。まさか1年もたたないうちに返してもらえるとは思いもしなかったわ。」
この優勝を皮切りに、その後も選手として出場し、なんと! 5連覇できました。
・専門学校を卒業後、熱帯魚屋さんと掛け持ちで働いていたのが、大船になるお寿司屋さんでした。大将の川澄さんとは、TVチャンピオンがきっかけで知り合いました。川澄さんは『全国すし職人にぎり技選手権』そして自分は『全国魚通選手権』での優勝者同志でした。
お魚のお仕事を探していることを知り、川澄さあんが「アルバイトにおいで。」と言ってくれたのでした。
「本当に不器用だな。」
「できました! このシャリいかがですか。」
「それじゃ、おにぎりだろ。」
「はあ、お寿司屋さんも向いていないなぁ。」
・「また絵を描いてんのかい?」
「はいっ! お魚の絵を描いていると、時間を忘れちゃうんですよ。このウマヅラハギちゃんのやさしい表情を絵であらわせるとすっごいうれしくて。」
そう答えると、川澄さんは絵をのぞき込んで言いました。
「たしかに、表情があって、面白く描くね。」
「ありがとうございます! うわあ~、ほめていただいてうれしいです。」
すると、川澄さんはポンと手をたたいて、こう言ったのです。
「はっきりいって、寿司職人には向いていないけど、絵はすばらしい! そうだ、絵を描いてよ。うちの店の壁いっぱいに! 好きなように魚を描いて!」
「えええ! 本当ですか~?」
川澄さんの突然の提案に、びっくりしました。もちろんお店の壁に描くなんて、いままで考えたことも想像したこともありません。
「だーいじょうぶ大丈夫、思いきり描いちゃってよ。」
と、さわやかにおっしゃってくださいました。
「そう言っていただけるなら。描かせていただきます!」
すぐに川澄さんは、アクリル絵の具など必要な画材一式を、ぜんぶ買いそろえてくださいました。しかも、
「思いっきりのびのび描いていいよ。時給も上げるからさ。」
絵を描いてお金をいただくのは人生で初めてでした。
「うわぁああ。よーし! がんばるぞぉ!」
・壁画が完成してから数か月後。川澄さんのお魚壁画のうわさはどんどん広まり、いろいろなところから「うちにも描いて。」「うちのお店にもお願いします。」と、どんどんお声をかけていただくようになりました。
「え!! 本当?!」と、とまどいを感じつつも、自分の絵を気に入ってくださった、そのことがただうれしくて、よろこんで引き受けることにしたのでした。
いただいたご依頼は、ひとつひとつじっくり心をこめて、お魚の命を絵にこめるような気持で描いていきました。するとまたさらに評判になり、いつしかお魚の壁画アートが、自分の主な収入源になっていきました。
そんなある日、テレビ局の方から電話がかかってきました。
「壁に魚の絵を描いているというあなたのうわさを聞きました。とてもおもしろい生活なのでぜひ密着させていただき、ドキュメンタリー番組に取り上げさせてください。」
専門学校を卒業してから数年。自分にピッタリの生き方が見つからず、フラフラと試行錯誤しなが回遊していた自分の目の前に、とつぜん光が射した瞬間でした。
・密着していいただいた番組は、30分間のドキュメンタリーとして放送されました。
すると、思わぬことが起こりました。オンエアを見て、自分に興味を持ってくださった会社が、これからの仕事を全面的に応援してくださることになったのです!
「さかなクン」として初めてとなるお仕事は、江ノ島水族館での作品展に決まりました。
「夏休みにさかなクンの絵で作品展をしようよ!」
・(あんなに強くて一生懸命なハコフグが頭にのっていれば、勇気をもらえるはず! ハコフグちゃんのようにめげずにがんばれる気がする!)
なによりも変わったのは、自分自身。あんなに人前で話すのが苦手だったのに、ハコフグが頭にいると、そのとたんスイッチが入ったかのように、不思議とお魚の魅力がパーッと表現できるようになったのです。
・東京水産大学へ通っている学生さんに会うのは、そのときが初めてでした。すっかり舞い上がってしまい、どんな授業があるのか、どんな研究をしているのか、質問攻めにしてしまいました。するとその学生さん、西迫くんは言いました。
「そんなにあこがれているんですか? だったら研究施設にいっしょにいきますか? すぐそこにあるので。」
と誘ってくれたのです。
研究施設を案内してもらった後、西迫くんの紹介で先生方にごあいさつをさせていただくことになりました。すると先生方はとつぜんきたにもかかわらず、
「あ! TVチャンピオンの子だよね。見てたよ!」
「さかなクンでしょ、がんばっているね。最近よくテレビで観るよ。」
と、口々に声をかけて下さったのです。偉大な東京水産大学の先生方が、自分のことを知ってくださっている! うれしくって大感動で、胸がいっぱいになってしまいました。
「ありがとうギョざいます! 館山に引っ越してきました! 自分にも、お魚のことを教えてください!」
これをきっかけに、東京水産大学の先生方との交流がはじまりました。館山に帰ったときは先生方に学ばせていただくようになりました。
・2006年の秋。一通の報せが届きました。なんと! 東京海洋大学(2003年に東京水産大学と東京商船大学が統合)からでした。
刑部先生が自分を客員助教授(現・客員准教授)に推薦してくださったのです。
「ヒャー-!!」
「まさかあ。それはないでしょう。わかった?! どっきりなんじゃない?」
「本当ですよ、さかなクン!」
それでもまだ夢を見ているような感覚でした。それも無理はありません。だって東京海洋大学といえば、名前は変わったけれど、ずっとあこがれていた、あの東京水産大学です。世の中にたくさんある大学の中で、唯一いきたいと思い、ずっとあこがれて、けれどもいきたくてもいくことのできなかった大学なのです。客員助教授となれば、そこの先生になるということです! そんな奇跡、かんたんに信じることができるでしょうか。
小学生のころ、卒業文集に書いた言葉を思い出していました。
「東京水産大学の先生になって、調べたお魚のことをみんなに教えてあげたい。そして図鑑を作りたい。」
お魚に夢中になりすぎて大学にも入れなかった自分が、お魚に夢中になりすぎたおかげで、小さいころから持ちつづけていた夢が目の前までやってきました。
・「安永館長! 今日はまことにありがとうギョざいます! あのときここ(サンシャイン国際水族館)で実習させていただいたことは、自分にとって宝物です!」
すると安永館長はニコニコして言うのです。
「そうなの? きみはずーっと魚ばっかり見ててぜんぜん仕事してなかったけどね。」
まわりにいた人たちは、みんなドッと大爆笑!
・数日後、なんと! 東京水産大学名誉教授・奥谷喬司先生から、お祝いのお手紙をいただきました。
自分にとっては、まさに神様からのお言葉。感激すると同時に、身の引きしまる思いがしたのを、いまでも昨日のことのように思い出します。卒業文集を書いたころに自分が知ったら、どんなにビックリすることでしょう!!
・さかなクンが、とっても長くつづけさせていただいているお仕事があります。それは2002年からこれまで、14年もの間ずっと連載させていただいている朝日小学生新聞のコラム「おしえてだかなクン」。
・もうひとつ、いまにつながっているものがあります。
それは管楽器。中学で吹奏楽(水槽学と勘違い)に出会って以来、トロンボーン、バスクラリネット、サクソフォンとずっとつづけてきた管楽器が、お魚の世界とおなじく、いまではさかなクンの生活にはなくてはならないものになっています。
数年前からは、『ブラス・ジャンボリー』という年に2回おこなわれる音楽の大イベントに、ゲストとして呼んでいただくようになりました。
・奇跡の魚
2010年、うれしい出来事がありました。絶滅していたと思われていたサケ科のお魚、クニマスが再発見されたのです。感動の出来事にすこしでもかかわることができたのは、自分にとってうれしい宝物です。
絶滅した幻の魚「クニマス」が再び発見されたのは“あの人”のおかげ!!
https://getnavi.jp/book/58690
「京都大学からクニマスのイラスト執筆を依頼されたさかなクンは、参考のために西湖から近縁種であるヒメマスを取り寄せた。そのとき、クニマスに酷似した個体をさかなクンが発見。以後、京都大学で解剖や遺伝子解析を行った結果、正式にクニマスであると発表された。絶滅前に田沢湖から送られた卵から生まれた稚魚が生き延び、交配を繰り返して生存したようだ。」
・2015年、クニマスの生息確認に貢献したことや、内閣総理大臣賞受賞などがきっかけとなり、なんと! 東京海洋大学から名誉博士号が授与されました。大変ありがたい気持ちでいっぱいです。名前負けしないように、がんばります。
・もしお子さんがいらっしゃったら、いまのお子さんが夢中になっているものが、すぐ思い浮かぶはずです。それは虫かもしれないし、ゲームやお菓子かもしれません。つい「もうやめなさい!」なんて言ってしまいたくなるかもしれません。けれど、ちょっとでもお子さんが夢中になっている姿を見たら、どうか「やめなさい」とすぐ否定せず、「そんなに面白いの? 教えて。」と、きいてみてあげてください。きっとお子さんは喜んで話をしてくれるはずです。その小さな芽が、もしかしたら将来とんでもなく大きな木に育つかもしれません。
夢は、言葉に出すとかなう気がします。心の中で思っているだけじゃなく、言葉にしたり絵に描いたり、表現することがとても大事な気がするのです。その思いが、夢を現実へと近づけてくれるのだと思います。
自分は、いまでも小学生のころとおなじようにワクワクしています。お魚に会うと、心が浮き立つような気持になり、毎回大漁の感動をもらっています。
感想;
さかなクンのこれまでの半生が映画になるとの記事でこの本を知り読みました。
さかなクンはとてもステキです。
読んでいて、さかなクンのお母さんがとてもすばらしく感じました。
お母さんは、さかなクンが自分でやるように見守り、失敗から学ぶということを教えて来られたように思います。
お母さんとのエピソードを多く引用しました。
さかなクンのお父さんは、宮沢吾郎九段(囲碁棋士)です。
囲碁が好きなので、さかなクンを知る前から知っていました。
戦いの碁なので、自分も戦いが好きなので、特によく知っていました。
さかなクンのお父さんが宮沢吾郎九段だと知り、びっくり。
囲碁棋士は子どもにも囲碁を教えることが多いのですが、きっとさかなクンは興味がなかったのでしょう。
さかなクンはとても魅力的で多くの人を惹きつけるようです。
今のさかなクンのお仕事は、いろいろな試行錯誤や失敗を乗り越えた結果のようです。
どこにどのような縁があるのかわからないですね。
さかなクンは、今を大切にしてきたこと、そしてやはり自分がやりたいことをやって来られたからのように思いました。
知るは好きに如かず
好きは楽しむに如かず
さかなクンは、ワクワクしながら、さかなのお仕事をされています。
仕事にワクワク感をどう持たせるか、どう楽しむかの工夫も大切なのでしょう。
それと失敗を恐れないこと。
失敗したら、ギョ! ギョ! ギョ!
さかなクンとお母さんから、大切なことを教えていただいたようです。
「さかなクン」の母に学ぶ、子どもを信じる伸ばし方