幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん 安倍元首相の国葬の議論に私見「一般国民としては国葬になる人は…」 ”国葬反対が2/3を越えたら、岸田首相の判断は国民から解離していたと明白に”

2022-08-07 15:47:07 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/16ab1f256bc246101c1379a35c13bdbdd311cf88 8/7(日) 14:26

 作家でエッセイストの阿川佐和子さん(68)が7日放送のテレビ朝日「ビートたけしのTVタックル」(日曜正午)に出演。9月27日に東京の日本武道館で実施することが閣議決定された、参院選の街頭演説中に銃撃されて死去した安倍晋三元首相(享年67)の国葬に関する議論に見解を示した。

 実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏が国葬にすることによる弔問外交での“コストパフォーマンス”の良さを主張する中、進行を務める阿川さんは「弔問外交ということだけを重視して、一般国民としては国葬になる人は国を代表して素晴らしい功績を残したっていう、曇りもないような感覚がある。亡くなられ方が本当に悲劇的だったけど、まだ疑問符がいくつか残っているんじゃないの?っていう人を一党だけで決めるのは…」と国会での議論がないまま決まったことへの疑問点を指摘した。

 タレントの大竹まことも「ルールブックがないまま、どうしたら国葬になるのか!ってルールができないまま、コスパの問題で語ったけど、それだけで済まないと俺は思う」と主張。「国葬って1回廃止になっている。日本国憲法との整合性がまだちゃんと取れていないからと」と力を込めた。

感想
TVに出ている人は、国葬反対とはなかなか言えないです。
でも、できる範囲で、このように婉曲的に反対と声を上げることが必要なのだと思います。
そして続く人がいることです。
勇気をだすことです。
それが国を良くしていくのではないでしょうか?

「人間とは何か」マーク・トウェイン著 ”欲望というのは、みんな精神的なものだよ”

2022-08-07 02:08:16 | 本の紹介
マーク・トウェイン『人間とは何か』人間は機械です【要約・感想】
https://sonoke.com/bungaku-what-is-a-human/

 人間の意志決定に関する老人と青年との対話本。雰囲気的には『嫌われる勇気』。青年は人間の精神の自由性を主張します。一方、老人は人間の精神は機械的なもの、二者択一的なものだと語ります。欲望も同じ。すべての欲は、精神的なものであり、物質欲と精神欲は分けられません、と。

 人生に幻滅している老人は、青年にむかって、人間の自由意志を否定し、「人間が全く環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎない」ことを論証する。人間社会の理想と、現実に存在する利己心とを対置させつつ、マーク・トウェイン(1835‐1910)はそのペシミスティックな人間観に読者をひきこんでゆく。当初匿名で発表された晩年の対話体評論
引用:Amazon(商品説明より)

ある小さな逸話
 ひとりのイスラム教徒が、キリスト教を信じている後家さんの家に客になって泊っておった。ところが、その後家さんの坊やは病気で、いまにも死にそうだった。イスラム教徒は、何度も枕元に行っては看病し、いろいろな話をしてその子を喜ばせていた。そして彼はこの機会を利用して、自分の天性がもっている一つの強い願望を満足させようとしていた-われわれすべての人間の中にあるあの欲望だ。つまり、ほかの人たちの状態を少しでもよくしてやろうとして、その人たちに自分と同じ考え方をさせようとしたのだ。彼は成功した。だが、その瀕死の子供は、いまわの際に、彼を責めて。こう言った-
「ぼくは信じていました。そして信じていることで幸福でした。ところが、あなたはぼくの信仰を奪ってしまいました。それに、ぼくの心の平安までも奪ったのです。今では、ぼくには何も残っていません。そして、ぼくは惨めに死んでゆくのです。なぜんら、あなたがぼくに話してくれたことは、ぼくが失ったものの代わりにはなってくれないからです」
すると、母親もまたこのイスラム教徒を責めて、こう言った-
「子供は永遠に迷える子となりました。そして、わたしの胸は張り裂けました。あなたは、どうしてこんな残酷なことができたのですか?わたしたちは、あなたに対して、何の悪さもしておりません。ただ親切をつくしてあげただけです。この家をあなたのお家のようにしてあげました。わたしたちが持っているものをすべて自由に使っていただきました。それなのに、これがその報いなのです」
 イスラム教徒の胸は、後悔の念でいっぱいになった。自分がこんなことをしてしまったからだ。そこで彼は言った-
「わたしが、いけなかったです-今それがわかりました。しかし、わたしはお子さんに善いことをしようとしていただけなのです。わたしの考えからすれば、お子さんの考えは間違っていました。ですから、真実を教えてあげるのが私の義務だと思えたのです。
 すると母親はこう言った-
「わたしは、この子に教えてきました。この短い生涯のあいだずっと教えてきました。わたしが真実だと信じていることすべて教えてきました。そして、この子が信仰をもつことで、わたしたち二人は共に幸福でした。今この子は死んでしまいました-そして迷える子となっているのです。そして、わたしは惨めな思いをしています。わたしたちの信仰は、何世紀も昔からそれを信じていた祖先から受け継いできたものです。何の権利があって、あなたは、あるいは誰にしろ、それを邪魔しようとなさるのですか? あなたの名誉はどこにあったのです。あなたの恥辱はどこにあったのですか?」

感想;
人間のある面を言っているように思いました。

小さな逸話は考えさせられました。
信じるということの強さ、素晴らしさ。
宗教の良さと怖さ。

信じるものがあるのは幸せなのでしょう。
その信じるものが、人であれ、宗教であれ、良いものだと自分も周りも社会も幸せになり、それが社会に善くないものだと、自分も周りも不幸にしかつ社会に対しても結果として悪をなしているのでしょう。
世の中には、騙しても平気で居られる人もいるので、騙されないだけの知恵を身につけたいものです。

そして、自分は騙さない人でいたいものです。
決して騙されて騙すことをしないようにしたいです。
自分たちの善は必ずしも相手にとっての善ではないということです。