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「激励の禁忌神話の終焉」井原 裕著 ”うつ病患者への激励禁止は英語圏では逆で激励を必要としている”

2023-07-12 18:18:55 | 本の紹介
・メンタル・クリニックを訪れる患者たちは、しばしば不満そうにこう言う。
「落ち込んで、このままでは立ち直れない。勇気がほしくて外来に来たのに、先生は話を聞いて、『では薬を出しましょう』と言うだけ。力づけてくれる一言がほしいのに・・・」

・今日、すべての医師が「うつ病に激励は禁忌」と信じこまされている。精神科医だけではない。内科医も、外科医も、産婦人科医も、すべての臨床医が「うつ病」と聞けば、「激励は禁忌」と答える。

・英語圏のテキストにおいては、禁忌ではない。むしろ、すべてのうつ病患者に激励(encourage)は必要とされている。まず、英語圏でもっともポピュラーな教科書と思われる”Oxford Textbook of Psychiatry Third Edition”では、「感情障害、精神療法、臨床マネージメント」の項に、「うつ病患者は、他のさまざまな治療を受けるにしても、みな、適切な臨床的マネージメントを求めている。それらは、教育であり、元気づけであり、激励である」との記載がある。
 また、139頁には、「精神療法のニーズを、すべての症例においてはっきりさせるべきである。すべてのうつ病患者は、支持、激励を求めており、病気で苦しんでいる状態なのであって、道徳的な過失ではないということを詳細に説明してもらうことを求めている」とある。
 具体的な治療法に関して、「激励(encourage)」という言葉がしばしば見受けられる。一例を挙げれば、640頁の『うつ病に対する認知療法』において、『誤謬に気づき、より倫理的に思考し、もっと適応的な結論へと至るように、激励していく』とある。・・・
 全体として、英語圏においては、「うつ病に激励は禁忌」との記述は認められない。むしろ、患者を治療へと促すために激励すべきだということ、治療に希望をもたせるために、適度に激励することを推奨している。日本で「うつ病に激励は禁忌」とされていることは、英語圏の精神科医には理解できないことであろう。

・狭義の精神療法以外でも、「激励禁忌」は、希死念慮の強い症例に対しては、最悪の結果をもたらしかねない。実際、自殺の危険が切迫している場合には、「激励」がほとんど唯一可能な精神療法である。

・ニーチェ
「自殺を想うことで強い慰籍の手段である。これによって数々の辛い夜をとうにか耐えしのぐことができる」
 しかし、自殺の危険が切迫しているときは、そうではない。「人生の意味」を巡る神学論争に巻き込まれるべきではない。希死念慮は、焦燥と罪責念慮が形を変えたものであり、治療者がなずべきは、「治療を続けましょう」「生きていきましょう」と、妥協のない強い信念で語りかけることである。「激励禁忌」などの標語に断じてとらわれてはならない。希死念慮を訴える患者に、むなしく手をこまねいていてはいけない。無力な治療者ほど患者の絶望を深める存在はない。「頑張って生きていきましょう」と強く激励するべきである。

・病気を担う者は、励まされることを不断に求めている。身体の疾患であり、精神の問題であれ、励まされることなくして、人は病という重荷を背負って生きていくことはできない。うつ病患者だけが励ましの恩恵に浴してはならない理由などない。

・産業戦士の消耗性のうつ状態の場合、精神科医として最初に行うことは、基本的な健康管理である。こころのケアは、からだのケアがすんでからである。
 まず、十分な睡眠を確保する。

・仕事人のメンタルヘルスの問題は、単に、うつ病の治療にとどまらない。・・・仕事のプレッシャーを通じて、個人に、お前は誰か、何ができるのか、何になりたいのか、何をして何を得たいのかといった本質的な問いを投げかける。
 このようなプレッシャーのなかでこそ人は成長する。丹羽は自著のタイトルを『人は仕事で磨かれる』としたが、この言葉は、仕事人にとってメンタルヘルスの危機においてこそ、至言たりうる。

・寺山修司は、「たまには怒ったら、どうですか? 怒ると、人間らしくなる。少なくとも怒れるってことは植物じゃできないことだからね」と言った。さらには、「怒りは自動車のガソリンのようなものです。怒りは要するに明日への活力です」とも語った。
 この言葉は、怒ることに禁欲的なメランコリー親和型の患者たちと、怒ることに無節操な他責型の患者たちの、双方にとって意味がある。

・アリストテレス
「然るべきことがらについて、然るべきひとびとに対して、さらにまた然るべき仕方において、然るべきときに、然るべき間だけ怒るひとは称賛される」

・土居健朗によれば、「精神療法の目的は見失われたストリーを回復すること」とされる
「私のいいたいことを一言で言えば、患者の話を、あたかもストーリーを読むごとく、聞かねばならぬということである。・・・患者は、時間的前後関係におかまいなしに話をすることが多いが、面接者は聞いたことを時間の中に配列し直して、それをストーリーとして聞かねばならない」
「大体われわれはある人間を理解しようと思えば、その相手と何らかの人間的関係に入らなければならない。その関係が視点となって、相手を理解することが可能となるのである。いいかええrば、関係なくして人間理解はあり得ない」

・笠原嘉「精神科医には『精神医学的猥雑性』とでもいうべき悪癖があって、ともすれば人の心のひだの奥深く手をいれたがるところがある。心因的可能性をできるだけ大きく考えるとか、深層心理学的可能性に必要以上にこだわるとか、しがちである。・・・
 幸薄かった生い立ちについて、自虐的に語り続けることは、結局、自己価値観を下げ、抑うつをを深めるだけである。

・しゃべり続けることがかえって本人の惨めさをいや増す。そのような例を、私自身も経験してきた。

・人間としての患者を評価するとき、その人の最悪の状態を見てはいけない。われわれの前にやってくるとき、しばしば患者はその人の生涯でも最悪の状態でやってくる。・・・この最悪の状態を見て、その人の人格を判断するのは、短絡的にすぎる。

・燃えつき症候群がみられるのは、主として対人援助職、医療・福祉・教育などが典型である。・・・
 対人援助職は過酷な仕事である。それは、心身を次第に蝕んでいく。

・われわれは、抗うつ薬も処方するが、薬が患者を治しているわけではなく、患者自身の自己治癒力でたくましく治っていくにすぎない。

・「眠れない」「落ち込む」「イライラする」「やる気が起きない」などは、それぞれ「不眠」「「抑うつ気分」「焦燥」「意欲低下」といった「症状」とみなされるが、しかし、これらの訴えの背後には事情がある。その事情を聞くことこそ精神療法である。症状を治療することが精神療法の目的ではない。本当の問題は、症状の向こう側にある。

・初診時に明らかにすべきは、彼、彼女がどのような主題で苦しんでいるかである。患者は、ある未解決の精神的問題を抱えている。それについて、少しずつさぐりを入れていく。見失いつつある彼、彼女の物語を再発見すること、それが治療である。

・初診時に「薬を出さない」という選択肢は、頭に置いていい。それに「時間がないから薬を出すだけにしよう」と思うと、かえって墓穴を掘る。
・・・薬はあくまで補助的手段にすぎない。
精神科医が「薬のソムリエ」と化す背景には、精神科医の側の現実逃避はないか。薬物療法依存となって、職業人として本来とりくむべき使命から逃げ出していないか、精神科医は、患者が何を求めているか知っている。しかし知ったうえで、あえてその話題を避けようとしているのはないか。面倒なことにならないように、「君子あやうきに近寄らず」に徹しているのではないか。
 西園は、薬物療法への精神科医の過度の依存を戒め、次のように語っている。・・・
「深いパーソナリティの問題の解明や行動変化への患者の意欲を妨げ、治療中断を起こすことがある」
「もともと精神療法を期待している患者が薬物療法を施行されることで、精神科医が関心がないと判断してしまう」

・医師にとっての「三方よし」とは、「顧客満足」「医療安全」「医療収入」の三者を高いレベルで実現するというかあった。
 その結果自分なりに工夫して、たどりついた結論は、「超短時間精神療法を中心に」「薬剤は最小限かつ短期間に」ということであった。

・大多数の精神科医からすれば、「うつ病には、まず抗うつ薬」である。これに異議を唱えようとする者は、少数派であろう。
 しかし、もし、仮に「絶対にうつ病に抗うつ薬を投与しない医者」(私はそこまで頑固でない。一応投与する)がいるとして、それは非難に値するか。うつ病に対する6週間のプラセボ対象試験の結果、抗うつ薬の効果は60%前後、プラセボの効果は40%程度というデータがある。すなわち、5人のうつ病患者のうち、2人は薬を使わなくても治る。2人は薬を使っても治らない。最後の1人は薬を使わないと治らないが、使えば治る」ということになる。・・・
 今日、「うつ病」とされる人には、背景に人間関係、過重労働、リストラなどの複雑な事情が山積みしている。私からすれば、こういう問題に気づいていながら、目をつぶって薬を出す医者の木が知れない。発病をもたらした状況に介入しなければ、問題は解決しない。・・・薬物に依存したうつ病治療は、私の目から見れば危険きわまりない。

・勤務医が経営について考えることは、悪いことではない。むしろ、必要なことである。医療機関が赤字を垂れ流し、そのつけを国民にまわすほうが、たちが悪い。

・宮本忠雄は、薬物療法の考え方を、精神病圏の病態とうつ病圏の病態とは、截然と区別していた。うつ病圏の薬物療法については、つねに抑制的であり、そのぶん人間としての患者が生きる世界や具体的な生活に注意を払うことを重視していた。患者の背景を顧慮することのない薬物療法に対しては、批判的であった。
 私は、宮本の直弟子なので、精神科医としての幼年時代に、このような宮本の意見を何度も聴かされた。自然、私も「まずは人間としての患者と対する」という姿勢が身についた。

・彼らは、単純に同情が欲しいわけではない。素人のみならず多くの専門家も、この点を誤解している。治療者が自傷行為のこころをつかむには、まずこのステレオタイプの認識から脱却する必要がある。治療者の面前でこれ御代が死に自傷する者がいるだろうか。治療者が挑発でもしないかぎり、このようなことはありえない。彼らは、いつも一人の自分に帰ったときにのみ、孤独な自傷行為に落ちていく。それは、ナース・ステーションの前で倒れてみせるヒステリー者の自己顕示性とは、際立った対照をなしている。
 もちろん、自傷行為者のほとんどは「死ぬ気」はない。しかし、そのことは、彼らの自傷行為が「悲劇の主人公を演じるお芝居」であるということも意味しない。演技であれば、傷をつけずに「痛い思い」を表現する。いかなる名優といえども、迫真の演技のために、みずから舞台で切腹してみせる者はいない。それは、もはや「演技」ではない。

・われわれ大人は、孤独を克服したから生きているというわけではなく、日々の営みのなかに生きる意味を探し、愛したい、愛されたいという希望を、わずかでもかなえてくれる対象を、周囲の人間のなかに見いだしている。

・各部署に一人クレーム対応のプロを作っておくべきであろう。クレーム対応は、経験知がものをいう世界であり、ある程度場数を踏まないとうまくならない。そのためには交渉のプロを作るほうがいいであろう・

・平成11年に発生した東芝クレーマー事件は、インターネット告白のさきがけとなったセンセーショナルな出来事であった。

・医療機関が事故を起こした場合、まず、患者・家族に説明しなければならない。・・・直接の被害者を前にしている。責任逃れの態度は、被害者感情の火に油を注ぐ。とくに、「初めて聞いた、驚いた」では、組織内の情報伝達の緩慢さを露呈させているようなものである。・・・
朝田は、次のような「当事者意識のこもった」三段論証を提案している。
「①すぐに知らせを受けました。②実に遺憾に存じます。③すでに調査をしています」
⇔「初めて聞いた、驚いた。事実とすれば大変だ。すぐに徹底調査する」

・これからの危機管理の原則は、「隠さない、逃げない、ごまかさない」である。

・発端者を組織としてサポートすることと、被害者の支援との両者を実現しようとするシステムが裁判外紛争解決(ADR)である。

・お産についていえば、本来は、「棺おけに片足突っ込んでやるもの」である。ユニセフの統計では、世界の「10万出生あたりの母体死亡」の平均は、推定400人である。医療介入のないアフガニスタンでは、推定1,900人である。すなわち、「自然の摂理」にまかせれば、53人にの妊婦のうち1人が出産時に亡くなる。これを医療としう人為を加えることで、死ぬはずの妊婦の一部は助かるようになった。日本の産婦人科医は、この人為操作を徹底して行った結果「10万人あたり5人」という信じられない数字を達成した。・・・その結果、日本の妊婦たちは、お産について、まったくもって危機意識を抱かなくなってしまったのである。

大野病院事件以降、産科医が「お産のリスク」を妊婦にくわしく説明するようになった。

・精神科医にとっては、「スピリチュアル・ケア」の課題が課せられる。
 スピリチュアル・ケアは、対人援助ののなかでも「価値」「意味」「目的」などの精神的なテーマにかかわるものをさす。・・・
 がんをせんこくされたとき、人は「人生とは何か」「自分とは何か」「生きるとは何か」を問わずにはおられなくなる。迫りくる死という現実を前にして、運命が自身のあずかり知らぬ力によって動かされているということを肌で感じる。

・年配者にとって、美空ひばりの最後のヒット曲「川の流れのように」が、導きの糸となろう。・・・ 
 不幸にも若くして「死にいたる病」にかかった人には同じ作詞家によるWill」(中島美嘉)を捧げたい。

・精神科医とは何か。それは、「こころの専門家」である。「こころの専門家」とは何か。それは、
「こころのジェネラリスト」である。「人のこころのことなら、まず精神科医に聞いてみよう」、そう思われなければ本物でない。人のこころの多様性を、不合理であろうとなかろうと、まずはそのありのままを素朴な状態で診るという姿勢をもたなければならない。迷ったときには、つねに原点回帰である。

・診断名は「うつ病」でも、薬だけ出せば治るような人はほとんどいない。背景に、過重労働もあれば、パワーハラスメントもある。会社に内緒で多重債務を抱えている人もいるかもしれない、。それらに、古典的な精神疾患である統合失調症や躁うつ病も混じっている。うつ病がアブセンティズム(意図的怠業)か、診断書を書いて休ませるか、思い切って復職を促すか、それともいっそのこと本人が危惧する人事的最終決断を医師として容認するかなど、従業員と会社のあいだに立って、高度の判断が要求される。しかもこの判断を、自分以外に精神科医の同僚がいない状況で行わなければならない。

・狭い範囲の専門家ではなく、「こころのジェネラリスト」にこそふさわしいもうひとつの分野がコンサルテーション・リエゾン精神医学である。

・今日の精神科臨床は、薬物療法にあまりにも依存しています。しかし、その一方で医療収入としては依然「通院精神療法」「入院精神療法」等を主たる診療報酬としています。

・ニーチェは、かつて「人間的、あまりに人間的」という表現で、「「人間」という紅茶臆した外苑んを批判しました。しかし、私はこの時代にあえて、「人間学的、あまりに人間学的」でありたちお思うのです。
「人間と言う秘密」は、永遠の未開地です。それは、ドストエフスキーをして「一生をこの秘密に費やしても、時間を無駄にしたとは言えない」とわしめました。そこには、狭量な人道主義とは何のゆかりもない、無限の可能性が秘められています。

感想
 鬱病に「頑張って」と激励するのは禁忌と言われてきました。
しかし、英語圏のテキストでは逆に激励は必要であり、治療上重要なツールだということです。
 激励禁忌と全否定せずに、ケースバイケースで使うことが良い場合もかなりあるようです。

 製薬企業に勤めていたものとして言うのもおかしいかもしれませんが、
①睡眠
②栄養
③排便
④運動
を先ずは確保することでしょう。
それでもどうしようもないときにお薬に頼ることだと思います。

 メンタルを病むと直ぐにお薬が処方されます。また直ぐに「会社を休みましょう」と精神科医が言います。以前からは「おかしい」と思っていましたが、それを言っている精神科医がおられました。
お薬は選択肢の一つであり、お薬だけに頼らないことだと思います。
お薬は症状を緩和するに役立つこともありますが、治す働きはないとのこと、前から思っていたことでした。
 逆に多くのお薬が処方されそれで体調が悪くなるケースもあります。
また自分がお薬に支配され、自分で亡くなるように感じるケースもあるようです。
その時の症状で総合的によくよく判断することだと著者は言われていました。
会社を休むと復帰も大変です。復帰できないケースもあります。

 セルフカウンセリングや生きる姿勢など普段から考えておくことなのでしょう。
それが危機を迎えたときに助けてくれるように思います。

 そしていつか必ず迎える死、今から考えることが今を大切に生きることだと、日本に”死生学”を導入された、アルフォンス・デーケンス先生のお考えでした。

 過去は過去、過去の失敗を今に生かす。
未来は今の結果。
あらためて今を大切にしたいと思いました。
 と言いながら、なかなかできませんが。涙
でも考えていると少しは出来ているのかもしれません。