・i一瞬、何か大きな光と音を感じた・・・。
つぎに気づいたときは、私の背中に大きくて重たいものがのっていて、まった動けない状態になっていました。・・・
そんな私にできた唯一のこと。それは、手を動かすこと。その手で目の前にある瓦礫や石を払いのけました。そして私は見てしまった・・・。
夜なのに空が赤い・・・。・・・
空爆のなかったテヘランの上級階級の家庭で裕福に育ち、平穏な日々を過ごしているひとりの女性がいました。
その女性は大学四年生で心理学を専攻していましたが、イラン革命によって大学が閉鎖、卒業できずに四年間が経過しようとしていました。彼女は大学ソーシャルワークの勉強をしていたためボランティアに興味があり、週に二、三回、病院で研修を受けていたのです。
1989年2月下旬のある日、クルマディスタン近くの町で大規模な空爆があったという情報が入り、ただちに医師、看護師、救急隊員たちは現場い急行することになって、その場にいた彼女もボランティアとして加わったのです。・・・
空爆からすでに丸一日が経過し、二日目の深夜二時を回っていました。・・・
次の日も一日中捜索が続けれましたが、一般的な生存者のタイ
ムリミットは72時間と言われています。・・・
「イラク軍の攻撃がふたたびあるかもしれない。収容した遺体だけをのせてすぐに撤収せよ」
という命令が下されたのです。・・・
絶望のなかを歩いていると、ふと、瓦礫のあいだに咲いていた一輪の青い花が目に飛び込んできた。・・・
私(母フローラ)は、青い花のそばで小さな人形の手を見つけた。
思わず近寄って触れてみると、それは人形の手ではない。
柔らかい。
そして温もり。
これは、まちがいなく人間の手。
空爆から四日近くも経っているのでまさかとは思ったが、わずかな希望にかけて脈をとってみると、ドクン・・・ドクンと、かすかだが脈を感じる。
何度も何度も確かめた。
弱いながらもしっかりとした脈があり、呼吸もしている。
生きている!
私は確信した。帰り支度をしていた、医師、看護師、救命士らがかけつけ、慎重に土砂を取り除いて掘り出すと、そこには顔が血と泥で真っ黒になった、傷だらけの少女がいた。
すぐにジープに運び込み、酸素マスクをあて、私たちは大急ぎで現場を離れた。・・・
ようやくテント張りの救急施設に到着したときは、すでに二時間が経過した。
ただちに少女は点滴につながれ、医療スタッフ総出で、できるかぎりの応急処置が施され、翌日、近くの町から飛行機でテヘランの病院に移送された。・・・
私はこのとき先天的な重い心臓病にかかっていたので、ただちに手術をしなければならない状態だったといいます。しかし、空爆によって重症を負った体はとても耐えられないということで、手術をするまでに半年待たなければなりませんでした。その間、その女性はずっと私を看病してくれたのです。
その女性の名前はフローラ・・・。
・私は鏡が好きです。なぜなら、泣きたいとき、つらいとき、かならず鏡が私を落ち着かせてくれるから。ケンかをしていた鏡のなかの自分を見て、「落ち着け、落ち着け」と話しかけることで、自分自身を落ち着かせます。あんなに嫌いだった鑑ですが、いまでは私の友だち。
・病院で生まれたことは確かですが、母は出産したあと、私をそのまま病院に置き去りにして帰ってしまいました。
病院側は、あなたの赤ちゃんを連れていってくださいとすぐに連絡したのですが、両親は、うちにはおカネがないので子どもはこれ以上育てられない、無理ですと言って拒否したといいます。
先天的な心臓の病気が見つかったのでいずれ手術をしなければならず、さらに体も小さく虚弱で、この子を育てていくには多額のおカネが必要になってくる、とても面倒はみられない、ということだったのではないでしょうか。・・・
生まれて1か月後、私は強制的に家族のもとに送り返されました。
・仕事で背中のあいたドレスを着たときに、どうしても傷痕が見えてしまうことがあります。あるとき、
「その傷、気持ち悪い」
と言われたことがあり、とても傷つた。軽い気持ちのひと言なのでしょうけれど、やはり、「気持ち悪い」と言われるのがいちばんつらく、悲しい。
もちろん、手術で消すことはできます。でも、私は残そうと思っています。なぜなら、この傷あっての自分だから。
いままでどう生きてきたか、なぜ生きているのか、これからどう生きるのか-、この背中の傷を見ることで自分のなかの原点に立ち返ることができるのです。
・退院の日、フローラは私をギュッと抱きしめて、お別れを言って帰りました。私は、「これからも毎日会える」と思いこんでいました。でも、テヘランの孤児院に行ってからは、フローラに会うことはなかった・・・。
・私たちは毎週金曜日になると、いかに自分をかわいらしく見せるか必死で考え、ありったけの笑顔を振りまいて一生懸命アピールしました。
毎週「オーディション」に落ち続けることによって、私は夫婦がいったどんな子が欲しいのかわかってくるようになりました。親の記憶がほとんどインプットされていないような2、3歳くらいのかわいいい小さな子が、人気なのです。そう考えると4歳ぐらいがぎりぎり、つまり、5歳になろうとしていた私は、年齢的にまずチャンスはなかった-。
・「親を探しています。私たちをもらってください」
というセリフを言ってそのコマーシャルは終わるのですが、それをフローラが見ていたのです。
「このあいだ、テレビであなたを見たのよ。それで、まだ孤児院にいると知ってここに来たの」
あれからフローラは、イランのアクセサリーを海外に輸出する仕事を始め、シンガポールに行っていたそうです。
・私は悲しくなって、泣きながらフローラにしがみつきました。
「いやだ。離れたくない。お願い、一緒に連れていって。なんで連れていってくれないの。お願いだから私を連れてって・・・」
しかしフローラは私の手をとって、「また、すぐに来るから」と穏やかな笑顔で言い、帰ってしまいました。・・・
数日後、約束通り彼女はたくさんのお土産を抱えてやってきました。その後は、少なくとも一週間に一回は新品の洋服や靴、おもちゃ、イチゴジャムやハチミツなどの食料品を持って訪ねてきてくれたのです。
・二か月後、フローラが突然現れました。・・・彼女は私を膝から下ろし、真剣な顔をして私の目をじっと見てこう言ったのです。
「ねぇ、私の子どもになる?」
私は即答しました。
「うん、なる!」
・いまだからわかります。そのときの母の気持ちが。私のためにすべてを投げ出して育ててくれたのち、「お母さんなんか嫌い。おばさん(母の妹、結婚していて子どもがいた)の子どもになりたい」と言われたときのショックがどれほどだったのか-。
・家族と疎遠になってしまった母にとって、最期に頼ることのできる「頼みの綱」が、フィアンセだったのです。母がそこまで追い詰められていたなんて-。私は知らなかった。
経済的にも苦しくなり、そのことを母が彼に打ち明けると、そんなにつらいのなら、こちらに来てはどうかと誘われたのです。母は悩んだ末、イランにいても両親から冷たくされるのなら、いっそ彼の待つ日本に行ったほうが幸せになれるかもしれないと思ったそうです。
・三人で電車を乗り継ぎ埼玉県・志木にある彼のアパートに到着しました。
彼のアパートは、ユニットバスの付いた六畳一間でした。
・彼はクルマの販売を仕事にしていましたが、いっぽうで大学にも通っていて、私たちが来日して三日目に、母にこう頼んできたのです。
「大学に集中したいので、かわりに働いてほしい。大学を卒業できればいい仕事に就けるし、そうしたら、幸せにしてあげられる」
・一週間が経ち、日本緒生活に慣れ、ようやく落ち着いたころ・・・。彼の態度が変わり始めたのです。きっかけは私でした。・・・
彼は、「どうしてこの子はいつも貪るように、汚く食べるんだ」と、とても嫌いました。
ゆっくり食べなければいけない、ということはわかっていたのですが、空腹なので早く食べたくなって、どうしてもがつがつしてします。それが彼には耐えれなかった。やがて彼は、私に手を上げるようになったのです。・・・
行為はエスカレートしていきました。叩かれて私が泣き叫ぶと、そのまま風呂場に入れられて一晩中、出してもらえなかったことも・・・。
夏でも、風呂場は夜になるとけっこう冷えるものです。私は寒さが苦手で、それに、瓦礫に埋まっていたために暗闇が怖かったのですが、どんなに泣いて頼んでも、風呂場のドアを開けてもらえませんでした。
イランの女性の立場は、男性に対して弱いのです。母にはどうすることもできなかった。いまも、涙を流しながら、そのときの様子を話してくれます。
「あなたは栄養失調の影響で虚弱だったし、心臓がもともと弱い子だったので気が気でなかった。ぜったいに育てますからと、孤児院に約束して引き取ったのに、だから私は必死になって許してあげるように彼にお願いしたのよ。でも、だめだった。
夜、彼が寝静まったころを見計らって、私は風呂場のドアを開け、あなたを抱え上げました。もう、ここで三人で暮らすわけにはいかないと思ったけれど、私には日本の友だちがいないし、両親に電話をかけるわけにもいかな。相談する人がいなかったので、ほんとうにつらかった」
・「私は意を決して、直接、彼と話し合った。私はここにいるべきなの? それとも出ていったほうがいいの? すると彼はこう言ったの。
・・・大学に好きな子がいる。その子と結婚したいんだ、だから、今週の日曜日までに出ていってくれないか。日曜日が過ぎたら鍵は替えるから・・・」
・日本に来て三週間が過ぎていました。期限の日曜日の朝、彼が出かけると、母は私にたずねました。
「私は出ていくけど、サヘルはどうする? 私と一緒に行く? それともここに残る?」
孤児院を出るときもそうでしたが、母は、どんな場面でも選択肢を与えます。これまで、強制的に何かをさせられたことは一度もありません。いつも、「あなたはどうする?」と聞くのです。
私の返事は決まっていました。
「madar(ママ)と一緒がいい」
「ここにいれば食べていけるのよ。でも、私とくるとこれから住む場所もないし、食べていけるのよ。でも、私とくるとこれから住む場所もないし、食べるものもない。それでいいの?」
私はもちろん、
「うん」
・行き場もなく、あるスーパーに入った私たち、閉店までいたものの、もう戻る場所もなく、とぼとぼ歩くと、ある公園にたどり着きました。その公園はは広く、ベンチや滑り立ちもあって、滑り台の下はコンクリート製の大きな「土管」になっています。なかに入ると外から見えにくく、比較的、暖かいので、そこで母と夜を過ごすことになりました。母が壁にもたれて座り私を膝の上にのせ、私は母に抱かれたままの姿勢で眠ったのです。こうして、この日から私たちの公園生活がスタートしました。
すでに九月になっていたので、小学校の二学期が始まっていました。朝、土管のなかで目を覚まし、公園の水道で顔を洗って髪の毛をちょっと濡らしてきれいにしてから私は登校、母も工場へ仕事に出かけていきました。そして、夕方になると二人は公園に帰ってくるのです。
雨の日がつらかった。土管のなかに水が入ってくるので、私たちは近くの図書館に避難するのですが、二人とも字がわからないので本を読むこともできず、ひたすら座って過ごしました。三階にレストランがあってもおカネがなくて入れないので、眺めているだけ。いつも、お腹がグーグー鳴っていました。
閉館時間の夜になると図書館をでなければならず、そのときまだ雨が降り続いている場合は、公衆トイレに入ってやむのを待つのです。
・公園に住んでいる私たちは、やがて近所に知られるようになっていきました。ありがたいことに、誰からも温かく、そして、やさしく接してもらうことができたのです。私たちはいつも空白だったので、近くに住むご夫婦や、おじいちゃん、おばちゃんから、「これ食べなさいよ」と、ときどきいただくお菓子やフルーツが、とてもありがたく、うれしかった。
・私はランドセル(学校からお古をいただいて)を背負って、公園から学校に通いました。
一、二限目の授業をみんなと一緒に受け、そのあと三限目からは校長室に行って校長先生と一対一で日本語の勉強をするのです。
・公園の暮らしが二週間過ぎたころ、そんな様子を見かねてか、給食をつくってくれるおばちゃんが心配して声をかけてくれました。・・・
「そうなの。それはたいへんね。こんど、お母さんと一緒にうにちいらっしゃい」
と、言ってくれたのです。
数日後、母と私は彼女の家を訪ねました。
私の通訳を通して、おばちゃんは涙を流しながら、母の話にじっと聞き入っていました。
「公園で寝泊まりするなんて、サヘルちゃんの体に良くないわよ。私が安いアパートを探してあげるから、そこに住むようにしなさい。そうなると、いまの仕事の収入では家賃が払えないので、何か別の仕事にしないとだめね。日本語がわからないから、なかなか難しいけれど、そうね、ペルシャ語を活かせるものがいいわね」
そう言うと電話帳を持ってきて、調べ始めました。やがて、
「ペルシャ絨毯の会社があるけど、これなんかどう?」
母が子どものころ、面倒をみてくれたナニーがペルシャ絨毯を織ることができたので、偶然、母はその技術をナニーから教わっていたのです。
「それなら私にもできそう。たぶん、社長はイラン人でしょうから、言葉の心配もないはず」
母は喜びました。さっそく、おばちゃんが会社に電話をかけ、面接のアポイントまでとってくれました。
「すぐに面接にきてほしいそうよ。その日はサヘルちゃんをうちで面倒みてあげるから、これを持って行ってきなさい」
と言って、会社のある東京・三田までのお往復交通費を母に握らせてくれたのです。・・・
「合格しました。やっぱりイラン人の社長でした。母国語なので気持ちを伝えることができて良かった」
私たちは、二週間にわたる公園生活からようやく抜け出すことができました。いっぽうで、私と母が一緒に居られる時間は、めっきり減ってしまったけれど・・・。・・・
母の帰りは早くて十時を回ってしまうのです。
ひとりでご飯をつくれないので、母を待っているあいだはおばちゃんの家にお世話になっていました。・・・
私は、給食のおばちゃんたちからとてもかわいがられて、しあわせでした。あるとき、おカネを出し合って私のためにわざわざ、子ども用の自転車を買ってくれたのです。とてもうれしかった。私はその自転車に乗ってどこにでも行きました。
帰る時間になると、私は自転車をこいでおばちゃんについていき、家にあがると、おばちゃんは、
「サヘル、お風呂に入って、それから勉強ね」
と。まずお風呂に入れられ、次に漢字のドリルをさせられます。でも、お腹がすいて集中できない。終わらないと夕食にならないので、空腹を我慢して頑張ってやり終えると、ようやくご飯になります。湯船につかるお風呂は、生まれてはじめてでした。・・・
おばちゃんは私たちの命の恩人です。もしあのとき彼女が助けてくれなかったら・・・。
私たちは現在どうなっていたのか、わかりません。でもなぜ、アカの他人の私たちにここまですることができたのでしょう?
私は大人になって、おばちゃんに聞いてみました。
「ねぇ、どうして、私たちを助けてくれたんですか?」
彼女はふっくらとした顔にやさしい笑みを浮かべ、こう答えてくれたのです。
「あのころ私は離婚していて、一人で娘を育てなければならなかったの。あなたたちを見て、とても人ごととは思えなかった。だから、どうしても何かをしてあげたいと思ったの」
・月謝(スイミング)を払うために母はなんと、一日の食事を小さなツナ缶半分で過ごし始めました。
・泉岳寺(会社の近く)に引っ越してうれしい出来事がありました。母の仕事が、トイレ掃除からレベルアップ! なんと経理を任されるようになったのです。そして、給料も少しレベルアップ!
そのおかげで、母はツナ缶と一緒にパンを食べる余裕ができたり、外にでかけても試食ではなく、ちゃんとしたお店ラーメンを注文したり、ハンバーガーを二人で分けたりできるようになったのです。ささやかなピクニック気分で、とてもうれしかった。
・しかし母はそうはいかなかった。ストレスから胃かいようになったり、ケガしたりでたいへんでした。やつれて白髪もずいぶん増え、日本に来るまえに58キロあった体重は43キロまで減ってしまったのです。
・私は、母がいつも言っていることを思い出しました。
「サヘル、あなたは空爆で両親を失い、孤児院で育ったけれど、でも、そのことを重荷に感じたり恥ずかしがったりすることはありません。ひとりだけ生き残ったということは、何か意味があるはず。自信をもちなさい。・・・
私はあなたを生んでいないけれど、ほんとうの親よりあなたを愛せる自信があります」
私には、ここまで言ってくれる母がいる。、ならば、この母のために生きよう。そう思ったのです。
・最近になって、母が死のうとしたときにことを打ち明けてくれました。
「あのときはおカネもなくなって、ほんとうに苦しかった。・・・
私は、あなたがいなかったらとっくに死んでいたわ。それほど、あなたはすばらしい私の娘。世界でいちばんお娘よ」
母がいるからこそ、私はいま、生きていられるのです。
・私がいじめに遭っていても助けてくれなかったのに、テレビに出て名前が知られるようになると、手のひらを返したように、
「あなたは学校の誇りです。誰でもがんばれば、サヘルのように立派になれるということを、こんど、生徒たちに聞かせてあげたいと思う!」
・いろいろ考えた結果、学校でつくった野菜や果物などを持ち帰ることができる東京都立園芸高校を受験することにしました。
・園芸高校は都立なので授業料が安く、さらに、実習で育てたキュウリやトマト、ナス、タマネギ、ジャガイモ、大根などの野菜をもらって帰ることができました。
収穫された野菜は一か所に集められ、放課後になると生徒に配られるのですが、ほとんどの生徒は興味がなく見向きもしません。私はクラスメートの分まで思いっきり袋に詰め込んで、両手いっぱいに野菜を抱えて家に帰りました。おかげで我が家は、収穫時期になると野菜に困りませんでした。
・私はいま、23歳。50歳、80歳になっても戦争の悲惨さを訴えていうつもりなので、時間だけはたっぷりあります。ひとりだけ生きのびることができたということは、それだけパワーがあるということ。生かされたのは、「そのパワーを平和に」という、神さまからのメッセージなのかもしれません。
だから私は生きる。生き続ける。亡くなった町の人、残された孤児院の仲間、いままで助けてくれた多くの方々、そして私の命の源である母フローラのために、私は生きて、そして、いつか恩返しをします。
神さま、私に母を与えてくれてありがとう。
私に「生きろ」と、ちからを授けてくれてありがとう。
人を愛する心、感謝の気持ちを教えてくれてありがとう。
神さま、私は生きていて、よかった。ほんとうに、よかった。
感想;
人は生きるには、やはり”誰かのために”、”何かのために”が必要なのでしょう。
逆にそれがあれば、苦しい状況を何とか頑張っていけるのでしょう。
いろいろな人がいます。虐める人、手を差し伸べてくれる人、傍観している人。まさに自分がどうするかが問われているように思いました。
それにしても給食のおあばちゃん、優しいです。シングルマザーで子育ては余裕がないはずです。でも手を差し伸べられたのです。
菅前首相が「自助、共助、公助」と言っていました。
今の世の中は”自助”では生きられない時代になっているのです。
自助できる公助があってこその自助です。
そして共助できる余裕が持てる公助なのです。
それを政治家が忘れていたとしたら、政治家失格です。
まあ、そういう政治家に投票している、投票しない国民の責任なのですが。
戦争も戦争を決めた人は苦しますずに、国民が苦しみ命を落としたり、貧困に苦しむのです。
空爆したイラン人を憎まない。
それはイラン人もイラクに空爆したいと国民は思っていないのです。
声をあげる。声をあげ続けるサヘル・ローズさん。
応援したいです。
サヘル・ローズさんはとってもステキな方ですが、お母さん(フローラ)は凄すぎます。素晴らしいです。
博士課程に行く予定で、卒業したら大学の先生になり尊敬もされていたでしょう。
生活に困ることもなかったでしょう。それを投げ棄てて、違う人生を選択されたのです。
まさに人生の問いかけに、困難な、それもすごく困難な道を選択されたのです。
まさに運命の出逢いだったのでしょう。