平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

八重の桜 第25話「白虎隊出陣」~「今から私は三郎だ。私は戦う」

2013年06月24日 | 大河ドラマ・時代劇
「私は三郎と共にお城に上がりやす。今から私は三郎だ。私は戦う」

 八重(綾瀬はるか)覚醒です。
 三郎の遺品の軍服を着て。
 南天の刺繍が施された袖を破ったのはなぜだろう?
 こんな物は役に立たないという意思なのか? 三郎を胸に戦うという意思なのか?
 いずれにしても八重の足元からカメラがパンUPして、三郎の軍服姿の八重が現れるシーンは今作の見せ場。

 伏線もあった。
 八重は、父・権八(松重豊)におなごが戦場に出ることを反対される。
 中野竹子(黒木メイサ)のように薙刀で戦うことは現実的でないと考える。
 出陣する白虎隊の少年たちに「十分に引きつけて撃て」「無駄死にはするな」と説く。
 八重にしてみれば、女性であるがゆえに戦場で戦えない自分に相当な葛藤があっただろう。
 薙刀の無力や武器の差が勝敗を左右することを理解している八重は<合理主義者>だ。
 だから、十分な戦闘能力がある自分が、女性であるという理由だけで戦えないことは非合理なことであっただろう。
 そして、これらの非合理を解決する手段が<三郎として戦う>ということ。
 あまり説得力のない理屈ではあるが、強引さや勢いはすべてを凌駕する。
 大きな声で言い切ってしまったもの勝ち。
 それは官軍の理屈を見てみればわかる。
 それが戦乱の世。

 使用人の使用人のお吉と徳造とのやりとりでは、田舎に帰る帰らないというやりとり以外に、次のことが微笑ましかった。
 お吉と徳造は土の中に、収穫した作物を埋めていた。
 いずれ掘り起こして食べる時のために。
 たくましいですね。
 将来の食料を気にする彼らは死ぬことを考えていない。
 どんな悲惨な状況でも生きることを考えているし、武士たちのように死ぬことが美しいなどとは考えていない。
 さりげない描写ですが、この作品は庶民の視点を忘れていない。

 一方、僕などは以下のせりふに、現代人として違和感を感じます。
 山川艶(秋吉久美子)が出陣する息子たちに言う言葉。
「命を惜しんでおくれを取ってはなりません」
 斎藤一(降谷建志)の言葉。
「今、会津を捨てるは義にあらず」
「愚かなほど真っ直ぐな会津という国に惚れた」
 <義><愚かなほど真っ直ぐ>というのは、行き過ぎると<悪>です。
 艶の息子たちに語った言葉も額面どおりに取るべきではなく、その裏に母親としての苦悩・葛藤があるのはわかりますが、<命を惜しむな><おくれを取るな>というのは間違い。
 先の太平洋戦争を含め、こうした言葉で、何人の人が命を落としたことか。

 繰り返しますが、これは現代人の意見として書いています。
 これらの言葉に共感する時代が来たら、かなりヤバイ時代だと思います。
 安倍さん、さまざまな教育改革を画策しているようですが、頼みますよ。

コメント (6)
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