昨日、NHKでクィーンの『ボヘミアン・アプソディ』の分析番組(=「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」)をやっていた。
現在、映画が大ヒットしているようだけど、確かにあの曲は革命だったな。
僕も初めて聞いた時、「何じゃこれはーーー!?」と衝撃を受けた。
………………
『ボヘミアン・ラプソディ』の楽曲構成は次のようになっている。
・バラードパート
・オペラパート
・ハードロックパート
・バラードパート
冒頭のバラードパート。ここでは人を殺してしまった青年の告白から始まる。
「これは現実化なのか? 幻想なのか?
ママ、僕は人を殺してしまったよ。
彼の頭に銃をあて、引き金を引いて。
さあ、行かなくちゃ。みんな、さようなら。
ママ、死にたくないよ。
いっそ生まれてこなきゃよかった。
ママ、僕が戻ってこなくても気にしないでね」
絶望と哀しみにあふれた告白だ。
フレディ・マーキュリーの歌声が美しくせつない。
青年は自殺してしまうのか?
ところが、次のオペラパートになると曲はガラリと変わる。
オペラのような掛け合いをしながら、
「小人のシルエットが見える。
スカラムーシュ(=イタリア喜劇のピエロ)、ファンタンゴ(=スペインの踊り)を踊ろう。
雷鳴と稲妻が僕を驚かす。
ガリレオ(=天文学者)、フィガロ(=オペラの主人公)
僕は貧乏で、誰からも愛されていない。
ビスミラ(=アラーの神よ)、僕を逃がして。
ビスミラ、ダメだ!
ベルゼブブ(=悪魔のボス)が悪魔を連れてきた」
シュールですなあ。
おそらく主人公の青年は錯乱しているのだろう。
死の恐怖から、クスリに手を出して幻覚を見ているのかもしれない。
クィーンの他のメンバーは、このオペラパートは要らないと主張したらしいんだけど、フレディ・マーキュリーはこだわったらしい。
そしてハードロックパート。
ここで主人公は反転、反抗に出る。
「僕に石を投げつけ、目に唾を吐くつもりだな!
愛するふりして僕を野垂れ死にさせるつもりだろう!
そんなことさせない!
ここから出て行け!」
すごい展開ですね。
今までの弱気や哀しみとは全然違う。
でも、これがロックなんですね。
自分を押しつぶそうとするものに反抗して立ち向かう。
この曲が最高に盛り上がる瞬間!
そしてラストのバラードパート。
ここではハードロックパートの勢いはなくなり、諦めの境地、人生を深く見つめる姿勢に転じる。
「大丈夫、たいしたことないさ。
たしたことないさ。みんな、わかってるだろう?
ただ、風が吹くだけ」
おおっ、これがこの曲の結論なのか。
番組(=「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」)ではシェイクスピアの『マクベス』のせりふを引用して説明していた。
「人生は動きまわる影に過ぎない。
人は哀れな役者だ。
自分の出番が来れば見栄を切ったり、嘆いたりするが、とどのつまりは消えてなくなる」
…………………
すごい曲ですね。
主人公は人を殺した設定になっているが、彼が象徴しているものは〝社会から疎外された人たち〟(フレディ・マーキュリーの場合はゲイであること)だろう。
そんな疎外された人たちが嘆き哀しみ、錯乱し、反抗する。
この曲がすごいのは、単なるバラードで終わらせず、オペラパートとハードロックパートを入れたこと。
オペラパートで、行き場のない絶望、苦しみ、哀しみ、不安、恐怖がうず巻き、
ハードロックパートで、立ち直り、反抗し、戦い始める。
この曲が発表された1975年の英国は〝英国病〟と言われ、不況・失業・インフレの時代で社会不安でいっぱいの社会だったらしい。
そんな社会状況が『ボヘミアン・ラプソディ』とシンクロしたのだろう。
そして現在、
僕は未見だが、現在、映画『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットし、クィーンが再評価されているということは───
同じく社会が絶望や不安に溢れているということではないか?
今の世界には、この曲とシンクロする人がたくさんいる。
『ボヘミアン・ラプソディ』は現代のアンセム(=聖歌・心の拠り所になる歌)になるかもしれない。
それでは聴いて下さい。
「Queen - Bohemian Rhapsody (Official Video)」(YouTube)
世界初のミュージックビデオだそうです。
『ボヘミアン・ラプソディ』は180ものトラックが重ねられた〝多重録音〟で制作されており、生演奏が不可能なため、ミュージックビデオがつくられたらしい。
現在、映画が大ヒットしているようだけど、確かにあの曲は革命だったな。
僕も初めて聞いた時、「何じゃこれはーーー!?」と衝撃を受けた。
………………
『ボヘミアン・ラプソディ』の楽曲構成は次のようになっている。
・バラードパート
・オペラパート
・ハードロックパート
・バラードパート
冒頭のバラードパート。ここでは人を殺してしまった青年の告白から始まる。
「これは現実化なのか? 幻想なのか?
ママ、僕は人を殺してしまったよ。
彼の頭に銃をあて、引き金を引いて。
さあ、行かなくちゃ。みんな、さようなら。
ママ、死にたくないよ。
いっそ生まれてこなきゃよかった。
ママ、僕が戻ってこなくても気にしないでね」
絶望と哀しみにあふれた告白だ。
フレディ・マーキュリーの歌声が美しくせつない。
青年は自殺してしまうのか?
ところが、次のオペラパートになると曲はガラリと変わる。
オペラのような掛け合いをしながら、
「小人のシルエットが見える。
スカラムーシュ(=イタリア喜劇のピエロ)、ファンタンゴ(=スペインの踊り)を踊ろう。
雷鳴と稲妻が僕を驚かす。
ガリレオ(=天文学者)、フィガロ(=オペラの主人公)
僕は貧乏で、誰からも愛されていない。
ビスミラ(=アラーの神よ)、僕を逃がして。
ビスミラ、ダメだ!
ベルゼブブ(=悪魔のボス)が悪魔を連れてきた」
シュールですなあ。
おそらく主人公の青年は錯乱しているのだろう。
死の恐怖から、クスリに手を出して幻覚を見ているのかもしれない。
クィーンの他のメンバーは、このオペラパートは要らないと主張したらしいんだけど、フレディ・マーキュリーはこだわったらしい。
そしてハードロックパート。
ここで主人公は反転、反抗に出る。
「僕に石を投げつけ、目に唾を吐くつもりだな!
愛するふりして僕を野垂れ死にさせるつもりだろう!
そんなことさせない!
ここから出て行け!」
すごい展開ですね。
今までの弱気や哀しみとは全然違う。
でも、これがロックなんですね。
自分を押しつぶそうとするものに反抗して立ち向かう。
この曲が最高に盛り上がる瞬間!
そしてラストのバラードパート。
ここではハードロックパートの勢いはなくなり、諦めの境地、人生を深く見つめる姿勢に転じる。
「大丈夫、たいしたことないさ。
たしたことないさ。みんな、わかってるだろう?
ただ、風が吹くだけ」
おおっ、これがこの曲の結論なのか。
番組(=「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」)ではシェイクスピアの『マクベス』のせりふを引用して説明していた。
「人生は動きまわる影に過ぎない。
人は哀れな役者だ。
自分の出番が来れば見栄を切ったり、嘆いたりするが、とどのつまりは消えてなくなる」
…………………
すごい曲ですね。
主人公は人を殺した設定になっているが、彼が象徴しているものは〝社会から疎外された人たち〟(フレディ・マーキュリーの場合はゲイであること)だろう。
そんな疎外された人たちが嘆き哀しみ、錯乱し、反抗する。
この曲がすごいのは、単なるバラードで終わらせず、オペラパートとハードロックパートを入れたこと。
オペラパートで、行き場のない絶望、苦しみ、哀しみ、不安、恐怖がうず巻き、
ハードロックパートで、立ち直り、反抗し、戦い始める。
この曲が発表された1975年の英国は〝英国病〟と言われ、不況・失業・インフレの時代で社会不安でいっぱいの社会だったらしい。
そんな社会状況が『ボヘミアン・ラプソディ』とシンクロしたのだろう。
そして現在、
僕は未見だが、現在、映画『ボヘミアン・ラプソディ』がヒットし、クィーンが再評価されているということは───
同じく社会が絶望や不安に溢れているということではないか?
今の世界には、この曲とシンクロする人がたくさんいる。
『ボヘミアン・ラプソディ』は現代のアンセム(=聖歌・心の拠り所になる歌)になるかもしれない。
それでは聴いて下さい。
「Queen - Bohemian Rhapsody (Official Video)」(YouTube)
世界初のミュージックビデオだそうです。
『ボヘミアン・ラプソディ』は180ものトラックが重ねられた〝多重録音〟で制作されており、生演奏が不可能なため、ミュージックビデオがつくられたらしい。
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