ユゴー、デュマ、バルザック。
19世紀のフランスの作家たちというのは、ものすごいエネルギーのかたまりで、
権力欲、名声欲、金銭欲、性欲でいっぱいで、これらが彼らに膨大な量の作品を書かせていた。
僕の敬愛するヴィクトル・ユゴー先生は「性の蒸気機関車」で、何とエッチを一晩で9回!
疲れを知らぬユゴーの性欲は妻アデルに恐怖を抱かせる!
ユゴー72歳の時に書いた詩がこれ!
『裸の女』
あの娘はきいた。「シュミーズ着けたままの方がいい?」
私は答えた。「裸が女のいちばんきれいな着物」
ああ、束の間に過ぎる春の日よ!
恋の始めは笑う声、終わりはじっと物思い。
何という喜び! マスクを脱いだ素顔のアスタルテよ!
何という恍惚! ベールを脱いだイシスよ!
すばらしい眺め! 「ほら脱いだわよ」とあの娘は行った。
アドニスの前のビーナスもこんな姿だったのだ。
72歳でこんな詩を書くんですよ!(笑)
ユゴーはすでにこの時、大巨匠になっているんですよ!(笑)
このあたりの紹介は「パリの王様たち」(鹿島茂著・文春文庫)に詳しい。
…………
さて、漱石先生。
日本の胃弱で神経質な作家は、ロンドンに留学に行けば欝になってしまうし、
フランスの文豪ユゴー、デュマ、バルザックと比べれば、はるかにパワー不足。
『吾輩は猫である』の中には、バルザックについてこんな描写がある。
主人の話しによると仏蘭西フランスにバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢ぜいたく屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固もとより何なんにも知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼かねて自分の苦心している名を目付めつけようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行あるいている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗むやみにあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理パリを探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍うって「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分ぶんのない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意わざとらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに一日いちんち巴理パリを探険しなくてはならぬようでは随分手数てすうのかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。
たったひとりの小説の人物の名前がしっくり来なくて、一日中町を歩て探しまわるバルザック。
何というこだわり!
何というパワー!
バルザックは膨大な借金を抱えていて、それを返すためにあの膨大な作品群を書いたが、
極東の島国の、紙と木でできた家に住む作家には到底できない。
美食家でもないし、名誉も金銭も望まないし、たくさんの女性と官能に溺れるなんてこともしない。
漱石は上の文章をどんな思いで書いたのだろう?
日本はこうした西欧諸国と肩を並べるために必死になっているが、バルザックやユゴーがいるような国に勝てるわけがない、
日本は西洋を取り入れようとしているが、いくら贅をこらしてもそれは上っ面で体に根づいた本質的なものでない、
と思っていたのかもしれない。
そう言えば、『吾輩は猫である』の猫には名前がないんだよな。
名前をつけるために一日中パリの街を歩きまわったバルザック先生とは大きな違い!
19世紀のフランスの作家たちというのは、ものすごいエネルギーのかたまりで、
権力欲、名声欲、金銭欲、性欲でいっぱいで、これらが彼らに膨大な量の作品を書かせていた。
僕の敬愛するヴィクトル・ユゴー先生は「性の蒸気機関車」で、何とエッチを一晩で9回!
疲れを知らぬユゴーの性欲は妻アデルに恐怖を抱かせる!
ユゴー72歳の時に書いた詩がこれ!
『裸の女』
あの娘はきいた。「シュミーズ着けたままの方がいい?」
私は答えた。「裸が女のいちばんきれいな着物」
ああ、束の間に過ぎる春の日よ!
恋の始めは笑う声、終わりはじっと物思い。
何という喜び! マスクを脱いだ素顔のアスタルテよ!
何という恍惚! ベールを脱いだイシスよ!
すばらしい眺め! 「ほら脱いだわよ」とあの娘は行った。
アドニスの前のビーナスもこんな姿だったのだ。
72歳でこんな詩を書くんですよ!(笑)
ユゴーはすでにこの時、大巨匠になっているんですよ!(笑)
このあたりの紹介は「パリの王様たち」(鹿島茂著・文春文庫)に詳しい。
…………
さて、漱石先生。
日本の胃弱で神経質な作家は、ロンドンに留学に行けば欝になってしまうし、
フランスの文豪ユゴー、デュマ、バルザックと比べれば、はるかにパワー不足。
『吾輩は猫である』の中には、バルザックについてこんな描写がある。
主人の話しによると仏蘭西フランスにバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢ぜいたく屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固もとより何なんにも知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼かねて自分の苦心している名を目付めつけようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行あるいている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗むやみにあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理パリを探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍うって「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分ぶんのない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意わざとらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに一日いちんち巴理パリを探険しなくてはならぬようでは随分手数てすうのかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。
たったひとりの小説の人物の名前がしっくり来なくて、一日中町を歩て探しまわるバルザック。
何というこだわり!
何というパワー!
バルザックは膨大な借金を抱えていて、それを返すためにあの膨大な作品群を書いたが、
極東の島国の、紙と木でできた家に住む作家には到底できない。
美食家でもないし、名誉も金銭も望まないし、たくさんの女性と官能に溺れるなんてこともしない。
漱石は上の文章をどんな思いで書いたのだろう?
日本はこうした西欧諸国と肩を並べるために必死になっているが、バルザックやユゴーがいるような国に勝てるわけがない、
日本は西洋を取り入れようとしているが、いくら贅をこらしてもそれは上っ面で体に根づいた本質的なものでない、
と思っていたのかもしれない。
そう言えば、『吾輩は猫である』の猫には名前がないんだよな。
名前をつけるために一日中パリの街を歩きまわったバルザック先生とは大きな違い!
イタリアのオカマにはまんまと騙され、
だから、バルザックは憎めない・・・
いつもありがとうございます。
バルザック、イタリアで度肝を抜かれる!
象が転んださんは確かバルザックにお詳しいんですよね。
これらの文豪たちには、憎めない面白エピソードがいっぱいありますよね。