今日は終戦の日。
終戦の日、わたしは未就学児でした。大叔父の家に家族で疎開していました。
その頃、父は軍属として会社から派遣され、シンガポールで電気冷蔵庫を作っていたようです…
何も解らないまま、大人と同じように座敷に座り、ラジオを聞きました。
雑音が有りましたし、どのような放送だったか。当時は、まったく解りませんでした。
ラジオの放送が終わっても、大人の人が動かず重くるしい空気だったことを覚えています。
ただ、ご近所のおじさんやおばさんが、何も言わずエプロンで目のあたりを拭いていました。
誰も声を出さなかったのです。不思議な景色だったことだけは、記憶しています。
”何か大変な事”をラジオで聞いたことは、なんとなく感じたのでしょうね、
”どうしたの?…とか、”何かあったの?…とか、大人に聞けない雰囲気だったのを覚えてます。
富士宮に疎開していましたので、戦争そのものを全く知りませんでした。
飛行機が飛んでくることもありませんでしたし、サツマイモやジャガイモはありましたので、
お腹が空いて辛い思いもしていません。恵まれていました。
幼かったので、戦前のいろいろな食べ物を知らなかったので、辛いとも思いませんでした。
”あれが食べたい、これが食べたい”と言うほど、いろいろなお菓子などを知らなかったし、
報道はラジオか新聞だけ。今の様に宣伝のチラシもありませんから、
知るすべもなかったのでは?と思います。
母親は、年に1,2回、トウキビの絞り汁を煮詰めて、飴を作っていました。
美味しかったです。煮詰めて居るとき、傍にヘバリツイテいました。
未就学児のわたしにとって、懐かしい最高の良い想い出です。
飴を作るときの母は、とても優しかったように、記憶しています。
終戦の日、わたしは未就学児でした。大叔父の家に家族で疎開していました。
その頃、父は軍属として会社から派遣され、シンガポールで電気冷蔵庫を作っていたようです…
何も解らないまま、大人と同じように座敷に座り、ラジオを聞きました。
雑音が有りましたし、どのような放送だったか。当時は、まったく解りませんでした。
ラジオの放送が終わっても、大人の人が動かず重くるしい空気だったことを覚えています。
ただ、ご近所のおじさんやおばさんが、何も言わずエプロンで目のあたりを拭いていました。
誰も声を出さなかったのです。不思議な景色だったことだけは、記憶しています。
”何か大変な事”をラジオで聞いたことは、なんとなく感じたのでしょうね、
”どうしたの?…とか、”何かあったの?…とか、大人に聞けない雰囲気だったのを覚えてます。
富士宮に疎開していましたので、戦争そのものを全く知りませんでした。
飛行機が飛んでくることもありませんでしたし、サツマイモやジャガイモはありましたので、
お腹が空いて辛い思いもしていません。恵まれていました。
幼かったので、戦前のいろいろな食べ物を知らなかったので、辛いとも思いませんでした。
”あれが食べたい、これが食べたい”と言うほど、いろいろなお菓子などを知らなかったし、
報道はラジオか新聞だけ。今の様に宣伝のチラシもありませんから、
知るすべもなかったのでは?と思います。
母親は、年に1,2回、トウキビの絞り汁を煮詰めて、飴を作っていました。
美味しかったです。煮詰めて居るとき、傍にヘバリツイテいました。
未就学児のわたしにとって、懐かしい最高の良い想い出です。
飴を作るときの母は、とても優しかったように、記憶しています。