国内の精神疾患患者数は392万人(2014年、厚生労働省障害保健福祉部作成の資料より)を超え、30人に1人が通院や入院をしているといわれます。精神疾患はもはや身近な病気です。一方、病気の自覚がない人や、症状が慢性化した人ほど、医療につながりにくい現実があり、家族も苦しんでいます。危機的な家庭からのSOSを受け、本人を説得して医療機関に移送するスペシャリスト、押川剛さんとともに、家庭内や地域でどのように対処すればよいかを探ります。
10代の終わりごろに強迫性障害を発症
私(押川)は1992年、神奈川県で警備会社を創業し、96年、病識のない精神障害者を説得して医療機関に移送する、日本初の「精神障害者移送サービス」を始めた。
今回は、中部地方で自然食品の会社を経営するA夫妻(ともに60代)と、30代の娘B子さんのケースを紹介する。
A夫妻は、30年ほど前に会社を創業した。当初は苦労したものの、ネット販売事業が軌道に乗り、固定客を数多く獲得している。健康や自然食品に関するセミナーの講師として全国から声がかかるそうだ。そんなA夫妻から、10年近くひきこもり生活を続けるB子さんの相談を受けた。状態が悪化し、A夫妻はビジネスにも集中できなくなっていた。
私が説得移送を行う時は、まず家族に丁寧にヒアリングし、対象者が生まれてから今に至るまでの歩みを時系列で資料化する。そして、エビデンス(根拠)を得るために自宅や本人の様子を視察調査する。時に資料は分厚いファイル数冊分にもなるが、これが医療機関を確保し、治療につなぐ「決め手」になる。
B子さんは10代の終わりごろ、反復的で持続的な思考やイメージにとらわれ、過剰な手洗いや除菌などを繰り返してしまう強迫性障害を発症した。親元で生活しながら短大を卒業し、いったんは化粧品会社に就職したが、症状が悪化して退職。その後、家族が触ったものや歩いたところをしつこく除菌するなど、強迫行為がひどくなり、外出もできなくなった。
A夫妻はB子さんを説き伏せて精神科病院に入院させたが、B子さんは数週間で家に帰りたがって退院。その後自宅にひきこもった。
A夫妻は、B子さんが幼いころから会社の事業に熱中していた。親子らしい関わりを持った記憶は少なく、過分な小遣いを渡し、わがままを聞き入れてきた。発症してからは病気のことを理解しようと、行政や医療機関に相談に行ったが、B子さんに「自分で何とかする」「入院の話をしたら自殺する」と言われ、治療を強く勧められなくなった。
独自ルール、買い物リスト、生活費負担の重荷
強迫観念や強迫行為にとらわれたB子さんは、暴言や暴力でいらだちをA夫妻にぶつけるようになった。A夫妻はB子さんの言いなりの生活を送るようになり、夜もまともに寝かせてもらえない日が続いた。
2年ほど前、B子さんは「一緒にいたらいつか殺してしまう」とA夫妻に言い放ち、マンションを借りさせた。しかし、身の回りのことは一切できない。A夫妻は仕事の合間に交代でマンションを訪れ、世話をする生活が始まった。
B子さんは、独自の「ルール」をA夫妻に徹底させていた。例えば、1日に数十通の「定時報告メール」を課す。訪問の際は洗濯したての衣類に着替えさせ、玄関でウエットティッシュを一袋使い切るほど手足を拭かせる。食事の用意や掃除のやり方にも細かな手順を定めていた。さらに重荷なのが「買い物リスト」のメールだ。
買い物リストには、B子さんが食べたいものや除菌グッズ、洗剤などの日用品。そして、1日300枚は使うというペットシーツ(ペット用トイレシート)が記載されていた。A夫妻は要求を黙々と受け入れ、家賃も含め月150万円の出費を強いられていた。
B子さんは、洗濯しても衣類の汚れがとれないという理由で、全裸で生活していた。トイレも「ばい菌がいる」と言って使わず、部屋中に敷き詰めたペットシーツに排せつしていたという。
A夫妻が行政機関に相談した際、ペットシーツの話をしたら、担当者は「信じられない」という顔をしたという。父親は「このままでは近いうちに破産ですね」と淡々と話した。A夫妻もまた、健全な思考力を失っていた。
本当のことを言えないA夫妻の悩み
B子さんの症状は重篤だったため、医療機関の確保は困難を極めた。A夫妻とともに私も保健所に行き、まとめた資料をもとに交渉して何とか受け入れてくれる病院が見つかった。
その過程で、A夫妻がところどころで見せる歯切れの悪さに気づいた。例えば保健所の担当者に、事実を矮小(わいしょう)化して伝えていた。「自然食品を扱うビジネスをしていながら、健康を損ねた娘がいるなんて恥ずかしい」--そんな心の声が聞こえるようだったが、それこそが娘の状態を悪化させた要因にも思えた。
マンション管理会社にもB子さんのことを伝えていなかった。室内で排せつするB子さんの生活は、衛生上問題があり、賃貸ルールにも沿わない。A夫妻を説き伏せて管理会社に事情を説明すると、当然ながら退去を求められた。あえて家族の闇を表ざたにしたのだが、これが「移送説得」の決め手になった。A夫妻も「現実と向き合う覚悟ができました」と言った。
移送には、管理会社社員に立ち会ってもらった。B子さんが女性で、全裸で生活していたため保健所の保健師にも同行を依頼した。万一の事態も想定し、事前に管轄の警察(生活安全課)にも相談した。
移送当日、B子さんには退去を求められていることを説明した。そして健全さを失った生活を続ければ、心身の健康をますます損ねることを話した。B子さんは強迫性障害の症状に苦しんでいたが、妄想や幻覚はなく、入院治療に同意した。B子さんは今、入院して治療を受け、A夫妻との親子関係を修復している。
A夫妻は、マンションというおりの中でB子さんの要望をひたすら聞き入れ、欲しがるものを与えることでおとなしくさせてきた。しかし、これではペット以下の扱いで、B子さんはいわば「モンスターペット」と化していた。 押川剛氏