「メディアとは自ら能動的に取材し、ファクトを提示するべきものだが、今回はほとんどのメディアがその役割を放棄し、野党によるショーアップされた内閣追及に加担し続けた。場合によっては、自民党以上に信頼を失ったのはメディアだったということになるかもしれない」こう指摘した国際ジャーナリストモーリー・ロバートソン氏ですが、日本のメディアの問題点を指摘している。視聴者もぬるい本質を離れた報道になれてしまい、何が問題なのか、論点が定まりません。このような報道をメディアがし続け、視聴者は小田原評定を続け、国際的にも報道の仕方が異常しされている限り、国際間での日本の地位低下は避けられないでしょう。
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先日、テレビ番組で森友・加計(かけ)問題をめぐるメディアの報道姿勢についてコメントしました。やや補足も加えながら紹介しますと、以下のような内容です。
「メディアとは自ら能動的に取材し、ファクトを提示するべきものだが、今回はほとんどのメディアがその役割を放棄し、野党によるショーアップされた内閣追及に加担し続けた。場合によっては、自民党以上に信頼を失ったのはメディアだったということになるかもしれない」
このコメントは思いのほか、多くの賛同をいただいたようですが、メディア(ここでは最も典型的なテレビを取り上げます)側とユーザー(情報の受け手)側の両視点から、もう少し掘り下げてみましょう。
よく言われることですが、日本のテレビの異常さは、(1)電波割り当てや記者クラブといった仕組みに守られていること、(2)そのため表向きは「不偏不党」をうたいながら、実際にはそれを都合よく解釈し、大衆がニュースから受ける印象の“操縦桿(かん)”を握っていること、にあります。はっきり言えば「守られすぎ」で、さまざまなごまかしがあるのに、視聴者もそのヌルさに慣れきって何も感じなくなっているのです。
一方、例えばアメリカではCNNやFOXから独立系放送局に至るまで、イデオロギーを特化させたりニッチを狙ったりと、市場でユーザーを取り合っています。そしてアグレッシブにネットでも発信し、新しいビジネスにつなげる。その進化の過程でフェイクニュースのような“魔物”が生まれることもありますが、いまだに報道番組の動画をネットに出し渋ることが多く、高齢者をメインターゲットにすることで延命している日本とは大きく違います。
こうした日本のメディアが生み出したのは、どこまでも受け身で、情報に踊らされる人々。その危険性を戦前のファシズムに重ね合わせる声もありますが、平均年齢の若い国民が限られた情報のなかで熱狂に走ったかつてのドイツと、高齢化もあって活力を失った人々が過剰にあふれる情報を「好きか嫌いか」で偏食し続ける現代日本とは全然違う。それはファシズム前夜というより、映画『ライフ・オブ・ブライアン』の世界のようだと僕は感じます。
イギリスのコメディグループ、モンティ・パイソンが製作し、1979年に公開されたこの超問題作の舞台は、西暦33年のエルサレム。イエス・キリストの隣の厩(うまや)で同日に生まれたユダヤ人青年ブライアンは、ひょんなことから救世主と間違えられ、どれだけ否定しても信者が増え続け、最後はローマ帝国に目をつけられ磔(はりつけ)の刑に……。そんな悲劇を、徹底したコメディタッチで描いています。
そこにあるのは、ヒトラーのファシズムを支えたような熱狂や興奮ではありません。何も考えられない、考えたくない人たちが、ウソでもなんでも簡単に信じ込み、当惑する本人をよそに「この人についていきたい、任せよう」と雪崩を打つ群集心理の恐ろしさ、くだらなさです。
今の日本は、どちらかというとこのような社会。「あいつが救世主だ」とか「あいつを引きずりおろせ」というインスタントな“情報の流動食”を人々が食べ続ける限り、“脳の生活習慣病”はなおらず、同じことが繰り返されていくのかもしれません。
●Morley Robertson(モーリー・ロバートソン)