藥師琉璃光如來本願功徳經大唐三藏法師玄奘奉詔譯 (薬師如来を至心に供養すれば十二の横死を免れる。その中には疫病死も含まれる、として薬師如来大呪「のうぼう ばぎゃばてい ばいせいじゃ くろ ばいせいじゃや はらば あらんじゃや たたぎゃたや あらかてい さんみゃくさんぼだや たにゃた おん ばいせいぜい ばいせいぜい ばいせいじゃ さんぼりぎゃてい そわか」を説く)如是我聞。一時薄伽梵、諸國に遊化し . . . 本文を読む
養老令に皇女と臣下の婚姻が禁止されて以後、皇女は貞潔が称えられてきました。
「養老令・継嗣令 第四条 王娶親王条」
「凡そ王は親王を娶(めと)り、臣は五世王を娶ることを聴(ゆる)せ。唯し、五世王は、親王を娶ることを得ず。(王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可する。ただし、五世の王(天皇の玄孫の子)は、親王を娶ることはできない。)」
「日本後紀・弘仁三年812八月辛卯(6日)」「無品 . . . 本文を読む
古来皇女の御出家は通例のことでした。そして皇女方は皆その御心映えから御出家以前から庶民の尊敬をあつめてこられています。以下はその一例です。
今昔物語集巻十九「村上天皇の御子、大斎院出家の語」 第十七
今昔、大斎院(選子内親王
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今日は内裏において七仏薬師法を修された日百錬抄 / 寛元三年1245十月一日壬戌条「十月一日壬戌 今日より内裏において七仏薬師法を始行せらる。天変による御祈也。 天台座主慈源を大阿闍梨と為す。」・天皇は後嵯峨天皇、執権は北条経時。寛元四年(1246年)には宮騒動(北条(名越)光時の反乱未遂事件)あり。実権は鎌倉幕府に握られていても天皇はやはり国の事、民の事を心配されていたことが分かります。 . . . 本文を読む
・10月1日・・・木食応其入定の日。(もくじきおうご、天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧。字は深覚。近江国の出身。もともとは近江の武士であったが天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の政遍から受戒している(逆に政遍を受戒したという説もあり、未だ詳細は不明、京都は新京極にある誓願寺の勧進聖であったという説も有力) . . . 本文を読む
百練抄・長徳三年(997年)「十月一日、旬、南殿に出御の間、大宰府飛驛到来す。高麗人 鎮西を虜掠のよし申す。仍って音楽庭立を止め事を之を諸卿に定申せしむ。」(虜掠とは、人を生け捕りにして、財物や土地を掠奪すること。百練抄・長徳四年二月にやっと「大宰府、高麗國人を追伐す」とあります。相当手こずったと思われます。) . . . 本文を読む
「金剛佛子叡尊感身学正記」に(正嘉二年1258戊牛(叡尊)五十八歳)「十月一日誉田社(注1)において法施の為般若心経を講じ天下泰平を祈る。當年炎旱の故(注2)、人氏飢饉を哀んで、此の行の如きを企つ。」(注3)(注1)誉田社とは誉田八幡宮のことで、571 年、欽明天皇の勅命で応神陵の前に設けられた日本最古といわれる八幡宮であろうと思われます。(注2)この頃は旱が続いていたようです。 史料綜覧 巻五 . . . 本文を読む