福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は後宇多天皇が叡尊上人より受戒された日

2024-04-21 | 法話

弘安7年の今日、4月21日、後宇多天皇が叡尊上人より受戒されました。(後宇多法皇年譜)
後宇多天皇は後に密教僧となられていますが、叡尊には特に私淑されこの後も10月には叡尊より梵網経古述談義を受け十重禁戒を受けられたり、弘安9年8月には叡尊が参朝して菩薩戒宗要の法義をし、同9月には叡尊が京極院御国忌をし、正安2年7月3日には叡尊に(後伏見天皇より)興正菩薩號を宣下されています。

密教大辞典には「後宇多法王・・人王第九十一代。御名世仁。法諱金剛性。世に大覚寺法皇と号す。亀山天皇第二皇子。

弘安四年1281蒙古入寇するや亀山天皇とともに宸襟を悩ましたまふこと深く、閏七月伊勢大廟へ御使いを立て、御身を以て国難に代らむことを祈らせたまふ(弘安の御願https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwipiJ_7gY7wAhWHPpQKHVp3DjgQFjAAegQIAhAD&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2Fbaf2c5dbdf4bfacd5c3b3271eb92b592&usg=AOvVaw1PoJcjS1GrS7-pxatS8EDK)。この頃、東寺長者道賢・勝信等禁裏の夜居に参殿す。法皇就きて十八契印・両部大法・深密の印言等を受学し給ひ、弘安四年八月禅助に従って受戒、七年四月西大寺叡尊に重ねて戒を受け給ふ。爾来叡尊に従って梵網経古述記・菩薩戒宗要等を聴聞したまひ、弘安十年1287十一月伏見院に位を譲りたまふ。時に寶算二十一。・・・・・東寺・大覚寺・高雄山・高野山等の興隆に力を尽くしたまひ、東寺には徳治元年1306七月七祖像修復、同三年二月東寺興隆深深事の啓白、同月益信に本覚大師号追贈。

徳治二年1307七月二十六日嵯峨寿量院に於て仁和寺禅助を戒師として御落飾、法諱を金剛性と称し奉る。徳治三年1308正月五日東寺西院少子坊に入り四度加行を勤修され、同二十六日東寺灌頂院に於て禅助より廣澤流の伝法灌頂を受け、次いで四月十四日万里小路殿にて醍醐憲淳より小野流の伝法灌頂を受け給ふ。

正和二年1313十二月荘園敷地施入、同年御宸翰談義本尊施入、二季伝法会・勧学会談義・五日十座談義・毎月鎮守講等の学会再興などに努め給ひ、延慶元年三月・正和二年十二月には高雄山神護寺に行幸参篭し給ひ、八幡大菩薩像一鋪、大師真筆高雄灌頂記一巻を施入、高雄曼荼羅を修復したまふ。・・高野山には嘉元三年九月御父亀山院の仙骨を納め、徳治二年七月皇后遊義門院の分骨を納め、正和二年五月高祖大師の御夢想に依りて宸翰経巻を納めたまひ、同年1313八月八日慈尊院より徒歩にて御登山、高祖廟前に法楽を捧げ給へり。・・文保元年1317十一月大塔修理料を賜ひ、また高祖の御真筆御遺告を奉納したまへり。その御遺告第三条には「一、 真俗同運興隆に励むべき縁起第三。夫れ以、我大日本国は法爾の称号、秘教相応、法身の土也。故に我後の血脈を継ぐ法資は天祚を伝ふるの君主、盛衰を同じくすべし。興替を伴にすべし。我が法断廃せば皇統ともに廃ぶ。吾寺を興復せば皇業安泰ならん。努々吾此の意に背き悔ゆること莫れ耳。」と宣へり。https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/cc704856d449c6208f6fbf1f9b3c6c88

正中元年1324六月二十五日大覚寺にて崩御されたまふ。寶算五十八。御遺骸を蓮華峯寺傍山に奉葬、遺詔に依りて後宇多院と称したてまつる。・・」

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