・10月1日・・・木食応其入定の日。(もくじきおうご、天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧。字は深覚。近江国の出身。
もともとは近江の武士であったが天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の政遍から受戒している(逆に政遍を受戒したという説もあり、未だ詳細は不明、京都は新京極にある誓願寺の勧進聖であったという説も有力)。また高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。しかしあくまでも客僧という立場であり、正式な高野山の僧とはならなかった。その後仁和寺で阿闍梨位を受けるなど業績を重ねる一方で連歌の名手でもあり、里村紹巴と親交をもった。天正13年(1585年)豊臣秀吉が根来寺に攻め込んだ際(紀州征伐)には、客僧でありながら秀吉との和議に臨んだ。その結果、高野山の復興援助を得、秀吉は高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興にあたった。その一方で応其も秀吉の方広寺造営に際しては協力している。天正15年(1587年)、秀吉と島津氏との和睦交渉での力を尽くした。また高野山内に興山寺と秀吉の母大政所の菩提所、剃髪寺(青巌寺)を開基した。この両寺は現在の総本山金剛峯寺となっている。また応其は全国を行脚し寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺や塔は97にのぼるとされる。文禄4年(1595年)には秀次事件により、青巌寺で豊臣秀次の切腹を行なわさせる(仏教五戒のうちの殺生を行う)ことを認めざるを得ない苦しい立場に追いやられた。
関ヶ原の戦いでは豊臣家との縁の深さから、伊勢の安濃津城(守将:富田信高、分部光嘉)や近江の大津城(守将:京極高次)における開城交渉にあたった。しかし西軍に通じたと疑われ、戦後は近江国飯道寺に隠棲した。その後は1603年に連歌の規則や作法を記した『無言抄』を出版した後、1608年に入定した。入定については「飯道山観光協会」のホームページに「木食上人は、応其上人、別の名を興山上人といいます。天文6年に近江に生まれ天正元年3月5日、仏門に入り高野山で修学し、天正13年、豊臣秀吉が高野山を攻めんとした時、上人は単身秀吉を説いて、高野一山の危急を救われた。また全国90余に至る伽藍堂塔の改修もされ、高野山の中興の聖人と仰がれる傑僧でありました。その後、高野山を下り郷里の近江に帰り、飯道山山頂の飯道寺に余生を養い、各地に巡行托鉢として、人心の浄化に努められました。晩年自らの死を予感されて、石棺を作り、其入定窟で3日間鈴を振って仏念三昧され遷化されました。滋賀県の生んだ木食上人の入定掘とお墓は、今なお飯道山山頂に残っています。」とある。
高野山奥の院に程近い場所に廟所があり解説板がついています。山上の修行僧はみなここで拝むことになっています。
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