福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・その46

2014-03-24 | 講員の活動等ご紹介

第四六課 他愛


 他を愛することばかりが美挙の全部だと思っている人があります。他を愛する気持ちにばかり酔っている人があります。
 なるほど、他を愛し、他よりよろこばれ、他のためになって自分の心の満足を味わうということは実に美しいよろこびです。
 しかし、それがため、自分をすっかり失くす人があります。失くすだけならまだ好い、失くして今度は他人にねだらなければならないとしたら、だらしがないではありませんか。
 他によくすると同じように自分にもよくするのが本当だと思います。人間には利己主義の本能があるので、そこへおちいらないブレーキのために「無我の愛」などという言葉が設けられてありますが、それは覚者(仏陀にも等しい人)が自分を全部他の者の中に生かすというような宗教的行業ぎょうごうにおいて特別な場合もありますが、普通世上に生存する人達が、いちいち生活上の軌道においてそういうことは不可能なことです。前にもいったように「強い我」を持つ人間として「無我」くらいな覚悟はあってほしいのですが、いざ実行の場合においては、それこそ仏智の方面を余計はたらかしてほしいのです。たとえば布教にしても、自己をまずある程度まで完了してから人にひろめよと仏教の方ではいってあります。このいわれはまあ、他人のために骨を折るとか、他人にものをやるとか、普通の生活の場合にあてはめるには少し適切でないかもしれませんが、祈って自分に在る仏智を喚び起せば、おのずから自分と他人との間に分布する好意の平均はとれるわけです。
 自分の生命とてあながち自分一個のものではない。宇宙の大切な一分派、つまりつくり主から預った一つの生命です。粗末にはなりません。他人の生命が大切と同じように大切なものです。その自分のものをみんな奪って他人に与えてしまうのは出過ぎたはなしです。そして他人から感謝をうけて好い気持ちになるなどと贅沢すぎる話です。二つ持っていたら一つ与えるが好いのです。他人に一つ入用なものなら自分にも一つ入用であるべきはずです。他人に二つやってしまって自分に一つもなくなり、結局またほかの他人のところへどうしても入用になって一つのものを自分のために貰いに行く、それでは何にもなりはしません。
 もっとも、これは原則ですが、場合によっては本当に全部投げ出して他人に与え、他人を救わねばならない時が誰にもあります。そういう場合とそうでない場合の鑑別もまた、仏を仰いで仏智に依るより正確なことはありません。
(東日本大震災で住民・社員を避難させる為に消防団員や役場の職員、会社の社長さん等多くの方が身を挺され犠牲になられました。法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図は有名です。菩薩本生鬘論等に出てくるお話でお釈迦様は前世で薩埵王子だったとき、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げ与えて虎の命を救った、というおはなしです。これは自己犠牲の精神を説いたものと思っていましたが最近、これはとんでもないことを説いている図であると思うようになりました。
つまりそれは一見「弱肉強食」と見えるこの世界を真理の目で見たら逆になるということを説いているのではないかということです。われわれは生物の命を日々奪って生きながらえています。すべての生物がそうです。食物連鎖は厳然として宇宙の始まり以来続いていますがこれをどう考えていくかです。食べる側は「弱肉強食」ですが食べられる側は「捨身飼虎」です。食べる人間は「虎」で、食べられる動植物たちは「薩埵王子」です。
菩薩本生鬘論によればお釈迦様はこの薩埵王子で、当時の父親が今の淨飯王、后が摩耶夫人、兄が弥勒と文殊菩薩、虎が「姨母」、七匹の虎子は「大目乾連、舍利弗、五比丘是也」とあります。即ち願心をもった「捨身飼虎」という行為により関係者を「出離」せしめているのです。われ東日本大震災で生き残ったもの全員は犠牲になった方々の『願心』を受け止めていままでと同じレベルでのうのうと生きていくのではなく一段高い生き方をする義務があるとおもいます。)
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