福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本、(岡本かの子)より・・その32

2014-03-10 | 法話

第三二課 恋愛


 子供は大抵中性です。中性というのは男性的なところも、女性的なところもあるものです。
 それが年を経るに従って、男性、女性を発揮して参ります。男性には剛健の肉体、鬱勃たる勇気、不撓不屈の精神、鋭敏な決裁能力などが盛り上って来ます。女性には柔軟な優しみ、惻々たる慈悲心、風雅な淑かさ、繊細な可憐いじらしさなどの情緒が蓄積されて来ます。
 この両方の特長を兼ね備えるということは人格が完成された完人に望まれることで、中途半端な私たちにはなかなかの難事であります。そこで男女はおのおのその特長を持って助け合い、両性の協調で人格完成に近づこうとします。
 普通これは結婚した夫婦の形式において協調して行くのですが、男女はもとからおのおの一方の特長を持っている人間ですから、物心がついて性の相違を意識する時期には、本能的に自分に欠けたものを補おうとして異性が互いに慕い合い、近づきたがります。その熱烈なのが恋愛であります。
 恋愛は人間の本能でありますから善いも悪いもありません。ただ自然の事実です。そして各人各様、遺伝も違い性質教養も違うのですから、この発作がある人もあれば、ない人もあります。これもまた、自然の事実でいずれが善いとか悪いとかするわけのものではありません。ただ恋愛については、次のごとき注意が要ります。恋愛をする人は大概年が若いのですから、それに溺れやすいのです。溺れてしまえば一所停滞であって、宇宙生命の根本原則である人格完成へ向っての進化発展の道に叛きますから、人間としては堕落です。故に恋愛に陥ったら、この根本原則に鑑み、結婚に入って早く協調助力に便利な境遇を作ることです。また、真の恋愛は、終世結び合って憾みのない、男女互いの人格を信頼し合える極めて清貞純真なものでありますが、これが一歩誤まると、性欲のためにそそのかされたり、あるいは一時の感激に駆られたり、また恋愛のための恋愛などという浮気なものがありますから、強いて好んで近寄るべきものではありません。因縁のある人が避け難き運命の下に、恋愛に遭遇して、止むを得ず取り上げるようにしてはじめて必然性が見出されます。また恋愛なくとも、結婚してから充分心使いによって、愛ということは生み出され味わえるものですから、恋愛のなかった生涯だといって寂しがることもありません。すべては人間人格完成を目標にして考えれば間違いはありません。
 釈尊のように人格が完成された人になると偉大な中性であって、男性のよいところも女性のよいところも、みな持つようになります。
(若い時に恋愛感情に陥るのも前世からの因縁としか思えません。自分のケースでいえば、恋愛から結婚後まで継母との間で何十年にもわたり大変な困難を伴いましたが苦労した結果は無駄ではなかったと思います。今では抑々の出会いから先祖が設定してくれていたのではないかと思っています。かの子は「すべては人格完成を目標にして」といっていますが恋愛の渦中にあるときはなかなかそんなことは考えられません。しかしこのことばは真実であることも後から考えるとわかります。人間、年を取らなければ分らないことが多いのです。)
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