福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

蒙古襲来時の温故知新・・その5

2013-12-08 | 法話

能く振る舞いて死ぬ(もの)をば腹を開いて肝を取て是を飲む。もとより牛馬を美食にするものなれば,射殺されたる馬をば喰らひて飽満せり。甲は軽し馬には能く乗る,力は強し命はたばわず、強勢勇猛にして自在無窮に馳せゆく。大将軍は高きところに居り上がりて、引くべきには逃げ鼓を打ち、懸べきには責め鼓を叩くに随って振る舞い、逃げるときは鉄放を飛ばして暗くなし、鳴る音闇高ければ心を迷わし肝をつぶし、目眩み耳鳴りて、茫然として東西を弁えず。
日本の戦の如く、相互名乗あって高名不覚は一人宛ての勝負と思うところ、この合戦は大勢一度に寄せ合いて,足手の動くところ我も我もと取りついて押し殺し虜りけり。このゆえ懸り入る程の日本人漏らすものこそなかりけり。誠なるかな「教えず、民を戦むる、是を棄という」とある本文、いまこそ思い知らされケル。その中に松浦党多く討たれぬ。原田が一類は深田に追い入れられて失せにけり。肥田・阿保谷、二、三百騎にてひかえたり。阿保谷がのりたる馬の口強くして、自然に敵の陣へとひかれける。主人入りしかば彼の手の者ども付いてぞ懸かりける。ひしひしと巻籠めて残り少なく討ちなさる。主引き入れし馬此方へ走出にこそ、阿保谷は討ち取られぬと知れにけり。山田の若者五人、蒙古に追い立てられて赤坂を下りに逃げるところに、異族三人、揉揉んでぞ追いかけたり。されども早逃げて一町ばかりになりにしかば、蒙古無力にて責めてものことにや,尻を掻き上て踊りけり。そのとき山田の武者ども「口惜しきことかな、下奴原に角せらつつ事よ」とて、その中の精兵を勝って「彼が尻,射よ」といいければ、射中べき力なけれども余りの悪さに射てみんとて『南無八幡大菩薩、願わくは此の矢的に当らせ玉へ』とて何くを矢坪となく、くりやりけるほどにあやまたず射殺しにけり。日本人は一度にどっと笑えども蒙古は音せず、手負い掻き供して逃げ去りぬ。大菩薩のお計らいに非ざるより他はいかにしてか
射中べきと嬉しさ貴さかぎりなし。
蒙古は次第に健り、勝ちに乗って直やぶりに責め入って、赤坂の松原の中に陣を取りていたりける。軍たち思に違って面を向うべき様ぞなき。手ごわしなど深量なく、御方引きのいて寄せあうものもなかりけり。ここに菊池次郎その勢百三十騎、侘磨の別当太郎百騎、都合二百三十騎にて推寄せて散々に蹴散らし、上に成り、下に成り執重り打ち合うほどに、家子郎党残り少なく討たれ、菊池ばかりは打ち漏らされて死人の中より起き上がり、頸共数多もたせて城内にはいりければ、名を後代にとどめけり。これ偏に大菩薩に祈念をいたす効なり。「勧奨を蒙る一番に賜りたらんものをば八幡へ進ぜん」と云う願いを立てし故、関東に参って下賜はる甲冑を子孫に伝えんとおもえども神恩報謝に当社(石清水八幡)に持せて奉る。
少弐入道が子三郎右衛門景資、ならびに其の手の者平四郎入道・手光太郎右衛門尉等をはじめとして寄せ合わせて戦う。景資を蒙古の大将軍とおぼしき者七尺ばかりの大男、鬚は臍のあたりに生い下がり鎧に葦毛なる馬に乗り、十四,五騎うち連れ、陸走七,八十人がほど具して叫んで懸りたり。その時景資が旗の上に鳩かけり舞しかば、八幡大菩薩の御影向とぞたのもしく覚えけり。究竟の馬乗り、弓の上手なりしかば逸物の馬に乗りたり。一鞭打って馳せ延び見かえって放つ矢に、一番に懸ける大男の真ん中を射て馬より逆さまに落としけり。党類どもこれを抱えて周章しける紛れに、景資こなたへ引き帰る。葦毛の馬に金覆輪の鞍おきたるが走り廻りしを捕えてのちにたずねれば、蒙古の一方の大将軍流将公の馬なりと。生捕共申しけり。鳩翔って大将軍をば討ちてけり。八幡の降伏目出度貴きことなれば,信心を致し、心に意を励まして合戦すべきところに戦いは巳の時よりはじまって日も暮れ方になりしかば彼方此方私語始まりし。何事ならんとあやしむに武力及びがたく水木の城に引きこもり支え見んとの逃げ支度を構えけり。是を聞いて我先にと落ちいしかば一人も留まるもの無し。水木城とは前は深田にして後ろは野原広く継いて水木多く、豊かなり。馬蹄の飼場よく兵糧の潤宿あり。左右の山間に三十余町を通じて高く急についたてたり。城の口には磐石の門を立てたり。・・むかし神功皇后、土与国の大人を禦がせたまうとて一夜のうちに拵たまいし城なれば神力の致す所、凡夫の態とはみえざりけり。たとい穆天子の驊騮騄駬(周の穆王の有していた駿馬達)の蹄も、かってこれをば越える事、たとえ勝将軍の名将勇士の猛きも、いかでかこれをば破るべき。誠にゆかしき城なれども、博多筥崎を打ち捨て多くの大勢一日の戦いに堪えかねて、落ちぬることをいかんせん。なんとなるべきことぞと、賤の民にいたるまで泣き歎かぬはなかりけり。時間も惜しき習いの命とて,妻子を引く具して老いたるを扶けて幼を懐にていずこともなく落ちゆくは中有の旅もかくやと覚えて悲し。
筥崎宮には留守を始めとして僧俗社官固めたりしかども、たのむ所の軍兵落ちぬる上は角ても如何あるべからんと、たとい身を遁れたりとも神体を捨て奉り、敵に蹴散らかされんことこそ口惜しければいずくへもかかげ仰ぎ奉らんととて、朱塗りの御唐櫃に三所の御体を遷したてまつり、泣く泣く御出にけり。
あまりに火急のことなれば神輿にだにも載奉らざるこそ悲しけれ。おともには留守左衛門尉定重、平左衛門尉景親・同景康・図書充佐秀以下,社官共参りけり。宇美宮へと急ぐところに、彼にははや一人も無く、先立ち落ちて戸ぼそを閉ず。立ち入るべき様なくて、上の山、極楽寺へぞ入れ奉る。折節雨降り涙に添えて衣手はぬれぬところぞなかりける。逃つる方を顧みれば在在所所猛火おびただしく燃え上がりしかば、是偏に敵の態とおぼえて怖く、ここかしこの谷峯に隠れ居る者ども、夜明けなば押し寄せてさがされなんず、いずかたへか今一間なりとも逃げるべきとぞ悲しみける。哀れなりけるあり様なり。
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