この顕密の諸仏に随逐してその佛のしめし給へる法を修行する諸の菩薩等は和合の僧なれば今身命を擲って顕密の諸仏と顕密の縁起の法と性徳の顕密の諸菩薩とをば帰依し敬礼する。これを三帰戒といふなり。この三帰は信心を発して始めて仏道にはいるときの制戒なり。ここにおいて衆中に虚心合掌して三帰と三竟とを三遍宛佐須くべし。
次の座よりは最初に授くべし。帰依佛とは、帰依は梵音には「なむ」といふ。三宝に帰依して身命を擲つの義なり。これ稽首して敬礼する義なり。・・意は己が貴ぶところの頭をば大地にいたらしめ、已成の諸仏の御足と伝法の諸の菩薩等を敬礼する義なり。これは身業の礼なり。口に三帰を唱ふるは語業の礼なり。内心に深く三宝を信ずるは意業の礼なり。宝とは一切衆生皆成仏道の我身中の菩提心の珍宝なり。世間の財宝は一世の身命を助くる有為の宝。いまこの三宝は三世常住浄妙法身の恵命を荘る無為の宝なり。一切の仏の説き給ひし三宝を誹謗するは邪見外道にて阿鼻獄に堕する重罪なれば顕教と密教との一切の如来と諸の菩薩とは一同に声聞七乗の律義戒と菩薩の三聚浄戒と真言の発菩提心三昧耶戒とをさずけたまふはじめにこの三帰戒を授けたまふなり。三竟とは決定の信心に三帰戒をうけおわれば未来際を尽くして一念にも永く犯せずと申す誓ひなり。それ顕教の中の諸仏諸菩薩と諸法とは真如縁起の三宝なり。密教の仏と法と僧との三宝は性徳本有の三宝なり。顕教の至極は一心真如の空理なり・・真言宗の至極は人法歴然なり、本来有なるがゆえに。三密の法とは、一仁は身密、いわく行者の手に手に結ぶ諸の如来と諸の菩薩と所の明王との印なり。二には語密、いわく行者の口に唱ふる諸尊の陀羅尼なり。三には意密、いわく行者の意に諸尊の各々の本誓願の意楽と印と真言との功能を観察するなり。密とはこの印と真言と観念との三に各々無辺の義を含じて輙く知れずといふ義なり。この三密の法は離れずして本不生際の法なれば善無意三蔵は身は語に等しく、語は心に等しいとのべたまうなり。・・・
次の座よりは最初に授くべし。帰依佛とは、帰依は梵音には「なむ」といふ。三宝に帰依して身命を擲つの義なり。これ稽首して敬礼する義なり。・・意は己が貴ぶところの頭をば大地にいたらしめ、已成の諸仏の御足と伝法の諸の菩薩等を敬礼する義なり。これは身業の礼なり。口に三帰を唱ふるは語業の礼なり。内心に深く三宝を信ずるは意業の礼なり。宝とは一切衆生皆成仏道の我身中の菩提心の珍宝なり。世間の財宝は一世の身命を助くる有為の宝。いまこの三宝は三世常住浄妙法身の恵命を荘る無為の宝なり。一切の仏の説き給ひし三宝を誹謗するは邪見外道にて阿鼻獄に堕する重罪なれば顕教と密教との一切の如来と諸の菩薩とは一同に声聞七乗の律義戒と菩薩の三聚浄戒と真言の発菩提心三昧耶戒とをさずけたまふはじめにこの三帰戒を授けたまふなり。三竟とは決定の信心に三帰戒をうけおわれば未来際を尽くして一念にも永く犯せずと申す誓ひなり。それ顕教の中の諸仏諸菩薩と諸法とは真如縁起の三宝なり。密教の仏と法と僧との三宝は性徳本有の三宝なり。顕教の至極は一心真如の空理なり・・真言宗の至極は人法歴然なり、本来有なるがゆえに。三密の法とは、一仁は身密、いわく行者の手に手に結ぶ諸の如来と諸の菩薩と所の明王との印なり。二には語密、いわく行者の口に唱ふる諸尊の陀羅尼なり。三には意密、いわく行者の意に諸尊の各々の本誓願の意楽と印と真言との功能を観察するなり。密とはこの印と真言と観念との三に各々無辺の義を含じて輙く知れずといふ義なり。この三密の法は離れずして本不生際の法なれば善無意三蔵は身は語に等しく、語は心に等しいとのべたまうなり。・・・