福聚講

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あの世・霊魂の存在は古今東西の歴史的常識でした

2018-05-14 | 先祖供養

あの世・霊魂の存在は古今東西の歴史的常識でした。

とりあえず思いつくままに霊魂の存在が古今東西の歴史的常識であったことの例示をメモをしておきます。

古事記では伊弉諾が黄泉の国の伊邪那美を訪ねた件がありますが、あの世の存在は古代日本でも常識でした。縄文墓の周辺にも葬送儀式を伺わせる土器類が多く発見されています。その後各地につくられた古墳と銅鏡などの副葬品も『あの世』を前提にしたものです。

またギリシャローマ神話でも霊界は常識ですし、プラトン(『パイドン』で「魂は不死であることに加えて、不滅である。」「もし魂が不死であるなら、われわれが人生と呼ぶこの期間だけでなく、全時間にわたっても、魂の世話をしなければならぬ。」「死は魂の消滅ではなく,人間のうちにある神的な霊魂の肉体の牢獄からの解放である。」『国家』で「そのむかし,エルは戦争で最期をとげた。一〇日ののち,数々の屍体が埋葬のために収容されたとき,他の屍体はすでに腐敗していたが,エルの屍体だけは腐らずにあった。そこで彼は家まで運んで連れ帰られ,死んでから一二日目に,まさにこれから葬られようとして,野辺送りの火の薪の上に横たえられていたとき,エルは生きかえった。そして生きかえってから,彼はあの世で見てきたさまざまの事柄を語ったのである。」)も霊界を前提にしていますし、
後でも述べますが、ローマやパリは遺体の集合の上に築かれています。

・ダンテ『神曲』では地獄・煉獄・天国を描写、
・シェイクスピア「ハムレット」では父親の霊が現れることからはじまり「マクベス」でも殺された王の亡霊が現れます。
・ゲーテは「水の上の霊らの歌」で「人間の魂は 水に似ている―― 天より来 天に登り また下っては 地に帰る 永遠に変転しながら。・・」と歌い、エッカーマンの「ゲーテとの対話集」では「われわれの精神は、絶対に滅びることのない存在であり、永遠から永遠にむかってたえず活動していくものだとかたく確信しているからだ。それは、太陽と似ており、太陽も、地上にいるわれわれの目には、沈んでいくように見えても、実はけっして沈むことなく、いつも輝きつづけているのだから」という。
・合理主義者トーマス・マンも「魔の山」で死者の霊を呼び出す心霊実験の場面を描写。

・古代中国でも霊魂の存在が常識であったことは種々の古典に明かです。『礼記』(郊特性)には「魂気は天に帰し、形魄は地に帰す」とあり、孟子離婁には「不孝に三あり、・・子なくして娶らず父祖の祀を絶やす、三の中これより大なるはなし・・」等とあります。
論語八佾第三にも 「祭ること在すが如ごとくし、神を祭まつること神在すが如くす。子曰わく、吾祭に與らざれば、祭が如ごとし。」 (先祖の霊を祀るときは生きているときのようにすべし・・先祖供養の祭祀に自分が出席できないということはやらなかったと同じことである。先祖供養で代理出席は意味がない。)と孔子でさえ霊魂を認め先祖供養を説いていますし、日本霊異記のモデルとなった唐の「冥報記」も、当然霊魂の存在を前提として因果応報を説いています。

・「『チベットの死者の書』から学ぶもの(三浦順子(翻訳家))」(大法輪、20,11)では「・・・チベット密教の説くところによれば死と、中有のひとときこそ輪廻の苦から脱出できる貴重このうえない機会である。・・死によって・・心の根源にして最も微細なこころ「本源なる光明の心」が立ち上ってくるからだ。この瞬間になされることはよかれあしかれその後に決定的な影響をもたらす。・・ここで死者を導くための大切な枕経とされているのが「バルド・トウ―ドウル(中有における聴聞による大解脱)」である・・・。」としています。
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