昔から国民精神の基盤をなしていた先祖供養・・1
穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」(1891年)の中で「日本は祖先教の国なり、家制の郷なり」といいましたが、確かに祖先崇拝・先祖供養は日本人の年間行事の骨格でした。
・「耶蘇会士日本通信(16世紀イエズス会士による書簡)」には「両親・妻子・兄弟の葬祭は各人殆ど一生涯これを行ひ、死後三日・七日・三十日及び毎年三年・十二年・三十年及び毎月死亡の日に祭りを行う、俗人は皆父母・妻子・親戚あるが故に絶えず儀式を行ひ・・・」とあります。
・ラフカデオハーン「神国日本・家庭の宗教」です、「・・死者は死んでいるとは考えられていない。すなわち依然として生前愛した人たちの間に立ちまじっていると考えられているのである。姿こそ見えないが死者はその一家を守り、その中にいる人たちが幸福であるように見守り、夜になれば燈明の明かりの中をひらひらと舞う。そして炎がゆらめくのは死者の動きなのである。たいがい死者は位牌の中に住居している。時によっては位牌が生きたものにもなる。・・彼ら死者はその祭られている場所から一家に起こるすべてをじっと目で見、耳で聞いている。彼らは家族とともに悦び、ともに悲しんでいる。彼らは家人の声をきいて喜び、家人の生活の暖かみを観じては喜んでいる。彼らは愛情を求める、しかし家人の朝夕の挨拶だけでもけっこう嬉しいのである。彼ら死者はまた食物を求める、しかしその食物から立ち上がる精気だけでもけっこう満足なのである。ただ日々の勤行をきちんとはたしてもらうことでは厳格なのである。彼らは生命の授与者であり今日という現在をつくってくれた上にその指導者になってもいる。いまの存命者が所有している一切はすべて死者からの授かりものなのである。しかしその代償に死者の求めるところの些少なのは驚くばかり。驚嘆にあたいする。死者はその家の創始者としてまた守護霊として簡素な次のような感謝の言葉を求めているだけのことである。すなわち「尊い御霊たちよ、畏れかしこんで申し上げますが、日夜お授け下さったご加護に対して私共の恭しい感謝をお受けくださるように」・・不徳な行いをして死者を辱めたり、悪行を働いて死者の名を汚したりすることは重罪なのである。彼らは民族の道徳的経験を代表している。そこでその経験を否定するものは何人にしろ死者を否定することになってそういうものは畜生と同列にあるいはそれ以下い落ちることになる。彼ら死者はまた不文の法律を社会の慣習を万人が万人への義務を代表してもいる。それでそれを犯すものは死者に対して罪を犯すこといなってくる。そして最後に死者は目に見えない世界の神秘を代表している。それで神道の信仰ではとにかく死者はすくなくとも神であることになる。・・古い神道のおしえによると死者は天地の支配者になる。死者たちは自然界の一切の出来事―風、雨、潮の流れ、発芽や成熟また生成や凋落など、およそ好ましいことや恐るべきことの一切の原因なのである。・・そして民族存亡のときに際会すれば死者は祈願を受けて一団となり外敵に当たるために援助する・・・こんなわけで信仰者の目から見れば各家庭の亡霊の背後には数知れぬ神々のはかりしれない霊妙な影のような力がひろがっているのである。・・・大宇宙には亡霊が充満しているということになる。・・家族それ自体がもうすでに一つの宗教的な塊である。・・家族の一人一人がそれぞれ永久に亡霊の監視下にあると思っている。亡霊の眼が行動を一々見ている、亡霊の耳が一語残らず聞いている。思っていることもその行為同様、死者の眼にはみんな映ってしまう。こうなると霊のおいでになるところでは心情も純潔になり心意も抑制されるにちがいない。おそらくこうした信仰の影響が何千年もの間、不断に人の行為に作用して日本人の行為の美しい面を作り上げるにあずかって力があったことだろう。・・」
穂積八束は「民法出でて忠孝亡ぶ」(1891年)の中で「日本は祖先教の国なり、家制の郷なり」といいましたが、確かに祖先崇拝・先祖供養は日本人の年間行事の骨格でした。
・「耶蘇会士日本通信(16世紀イエズス会士による書簡)」には「両親・妻子・兄弟の葬祭は各人殆ど一生涯これを行ひ、死後三日・七日・三十日及び毎年三年・十二年・三十年及び毎月死亡の日に祭りを行う、俗人は皆父母・妻子・親戚あるが故に絶えず儀式を行ひ・・・」とあります。
・ラフカデオハーン「神国日本・家庭の宗教」です、「・・死者は死んでいるとは考えられていない。すなわち依然として生前愛した人たちの間に立ちまじっていると考えられているのである。姿こそ見えないが死者はその一家を守り、その中にいる人たちが幸福であるように見守り、夜になれば燈明の明かりの中をひらひらと舞う。そして炎がゆらめくのは死者の動きなのである。たいがい死者は位牌の中に住居している。時によっては位牌が生きたものにもなる。・・彼ら死者はその祭られている場所から一家に起こるすべてをじっと目で見、耳で聞いている。彼らは家族とともに悦び、ともに悲しんでいる。彼らは家人の声をきいて喜び、家人の生活の暖かみを観じては喜んでいる。彼らは愛情を求める、しかし家人の朝夕の挨拶だけでもけっこう嬉しいのである。彼ら死者はまた食物を求める、しかしその食物から立ち上がる精気だけでもけっこう満足なのである。ただ日々の勤行をきちんとはたしてもらうことでは厳格なのである。彼らは生命の授与者であり今日という現在をつくってくれた上にその指導者になってもいる。いまの存命者が所有している一切はすべて死者からの授かりものなのである。しかしその代償に死者の求めるところの些少なのは驚くばかり。驚嘆にあたいする。死者はその家の創始者としてまた守護霊として簡素な次のような感謝の言葉を求めているだけのことである。すなわち「尊い御霊たちよ、畏れかしこんで申し上げますが、日夜お授け下さったご加護に対して私共の恭しい感謝をお受けくださるように」・・不徳な行いをして死者を辱めたり、悪行を働いて死者の名を汚したりすることは重罪なのである。彼らは民族の道徳的経験を代表している。そこでその経験を否定するものは何人にしろ死者を否定することになってそういうものは畜生と同列にあるいはそれ以下い落ちることになる。彼ら死者はまた不文の法律を社会の慣習を万人が万人への義務を代表してもいる。それでそれを犯すものは死者に対して罪を犯すこといなってくる。そして最後に死者は目に見えない世界の神秘を代表している。それで神道の信仰ではとにかく死者はすくなくとも神であることになる。・・古い神道のおしえによると死者は天地の支配者になる。死者たちは自然界の一切の出来事―風、雨、潮の流れ、発芽や成熟また生成や凋落など、およそ好ましいことや恐るべきことの一切の原因なのである。・・そして民族存亡のときに際会すれば死者は祈願を受けて一団となり外敵に当たるために援助する・・・こんなわけで信仰者の目から見れば各家庭の亡霊の背後には数知れぬ神々のはかりしれない霊妙な影のような力がひろがっているのである。・・・大宇宙には亡霊が充満しているということになる。・・家族それ自体がもうすでに一つの宗教的な塊である。・・家族の一人一人がそれぞれ永久に亡霊の監視下にあると思っている。亡霊の眼が行動を一々見ている、亡霊の耳が一語残らず聞いている。思っていることもその行為同様、死者の眼にはみんな映ってしまう。こうなると霊のおいでになるところでは心情も純潔になり心意も抑制されるにちがいない。おそらくこうした信仰の影響が何千年もの間、不断に人の行為に作用して日本人の行為の美しい面を作り上げるにあずかって力があったことだろう。・・」