福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

やはり祈りは叶わないのか?

2021-12-20 | 法話

此の世では、拝んでも「祈りは叶わない」ことが殆んどです。このよには神仏を恨む怨嗟の声に満ち満ちています。「神はいないが悪魔はいる」「神は鼠をなぶる猫のようにわしらをからかっているのじゃ。そうしておいてわしらにまだ感謝しろという・・・」(アンドレ・ジッド「贋金つかい」)などという言葉もあります。

しかし時には願いが叶う時も有ります。それは自分が変わる時です。

角田さんの投稿

https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/db98f9db4124eac171e36c4699bb7a72

や松田さんの体験談

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiE97jXlOf0AhVKFqYKHYAwAd4QFnoECAUQAQ&url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ffukujukai%2Fe%2F3c55005d8d27fa941899ec14f55de869&usg=AOvVaw3qYeQKtkf_Gl6WaIZtQbkf

にもあるように、所願成就の秘訣は「自分が変わること」にあります。

しかし苦悩のどん底にいる時に「自分が変わる事が大切」と言ってみてもそんな余裕は出ません。しかしどうせ叶わないでどん底にいるならダメ元です。騙されたと思って変わったふりでもしてみることです。

では変わるとはなにか?それは、今までは自己の苦しみだけの解決を祈願していたのを、「自分と同じ苦しみを背負っている他者の幸せも祈る」ことにすればよいだけです。

華厳経にいうように、すべては重々帝網であらゆる物事が時空を超えて繋がっています。御大師様も「それ釈教は浩汗にして際なく涯なし、一言にしてこれを蔽へばただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり、苦空の因を救ふは利他なり・・・」(「御請来目録」)とおっしゃり、

「利他行動は、たとえ耐え難い苦しみでさえも、否定的な事柄を肯定的な活力および慈悲に転じることができる」(カトリーヌ・A・ブレホニー(1999))という言葉もあるようです。

また、東南アジアの開発僧は「自己の救いは社会全体の救いなしには実現できない」として社会福祉活動を活発化させていることは有名ですし、

宮沢賢治も「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)といっています。

理論的にも自己の幸せのみを祈っても叶わないことは明白です。逆に他者の幸せを祈れば事態は必ず好転します。自分もこのようにして何度も救われています。いまも救われつつあります。

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