此の世では、拝んでも「祈りは叶わない」ことが殆んどです。このよには神仏を恨む怨嗟の声に満ち満ちています。「神はいないが悪魔はいる」「神は鼠をなぶる猫のようにわしらをからかっているのじゃ。そうしておいてわしらにまだ感謝しろという・・・」(アンドレ・ジッド「贋金つかい」)などという言葉もあります。
しかし時には願いが叶う時も有ります。それは自分が変わる時です。
角田さんの投稿
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/db98f9db4124eac171e36c4699bb7a72
や松田さんの体験談
にもあるように、所願成就の秘訣は「自分が変わること」にあります。
しかし苦悩のどん底にいる時に「自分が変わる事が大切」と言ってみてもそんな余裕は出ません。しかしどうせ叶わないでどん底にいるならダメ元です。騙されたと思って変わったふりでもしてみることです。
では変わるとはなにか?それは、今までは自己の苦しみだけの解決を祈願していたのを、「自分と同じ苦しみを背負っている他者の幸せも祈る」ことにすればよいだけです。
華厳経にいうように、すべては重々帝網であらゆる物事が時空を超えて繋がっています。御大師様も「それ釈教は浩汗にして際なく涯なし、一言にしてこれを蔽へばただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり、苦空の因を救ふは利他なり・・・」(「御請来目録」)とおっしゃり、
「利他行動は、たとえ耐え難い苦しみでさえも、否定的な事柄を肯定的な活力および慈悲に転じることができる」(カトリーヌ・A・ブレホニー(1999))という言葉もあるようです。
また、東南アジアの開発僧は「自己の救いは社会全体の救いなしには実現できない」として社会福祉活動を活発化させていることは有名ですし、
宮沢賢治も「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)といっています。
理論的にも自己の幸せのみを祈っても叶わないことは明白です。逆に他者の幸せを祈れば事態は必ず好転します。自分もこのようにして何度も救われています。いまも救われつつあります。