中論・觀苦品第十二 (十偈)
(苦しみは絶対的な存在ではない。従って苦しみは永遠に存在するものにあらず、苦しみから解放される時がかならずくる。)
有人説て曰く、
「自作及他作、共作・無因作、如是に諸苦を説くも 果においては則ち然ず」(第一偈)
有人言、苦惱は自作なりと。或が言く他作なりと。或が言く亦自作亦他作なりと。或が言く無因作なりと。果において皆な然らず。果に於いて皆な然らずとは衆生は衆縁を以て苦を致し、苦を厭ひて滅を求めんと欲す。苦惱の實因縁を知らずして四種の謬あり(自作・他作・共作・無因作の四つの誤り)。是の故に果に於いて皆な然らずと説く。何以故。
「苦若し自作ならば 則ち縁より生ぜず。 此陰(今死ぬ間際の五陰の身)有るに因りての故に而かも彼の陰生(次生に得んとする五陰の身)あればなり。」(第二偈)
若し苦が自作ならば則ち衆縁より生ぜず。自とは自性より生ずるに名く。是の事然らず。何以故。前の五陰に因りて後の五陰生有ればなり。是の故に苦は自作なることを得ず。問曰、若し此の五陰は彼の五陰を作ると言はば則ち是れ他作なり。答曰、是の事然らず。何以故。
「若し此の五陰、 彼の五陰に異なると謂はば如是は則ち應に他より苦を作すと言ふべし」(第三偈)
若し此の五陰は彼の五陰と異なり。彼の五陰は此の五陰と異なるならば應に他より作すべし。縷と布と異なるならば應に縷を離れて布有るがごとし。若し縷を離れて布無くば則ち布は縷に異ならず。如是に彼の五陰は此の五陰に異なれば則ち應に此の五陰を離れて彼の五陰無くば則ち此の五陰は
彼の五陰に異ならず。是の故に應に苦は他より作らると言ふべからず。問曰、自作ならば是の人人は自ら苦を作し自ら苦を受く。答曰
「若し人、自ら苦を作さば 苦を離れて何ぞ人有りて而して彼の人に於いて 而かも能く自ら苦を作すと言はん」(第四偈)
若し人、自ら苦を作すと謂はば、五陰苦を離れて何處にか別に人有りて而も能く自ら苦を作さん。應さに是の人説くべくして而も不可説なり。是故に苦は人の自ら作すに非ず。若し人自ら苦を作らず、他人が苦を作して此人に與ふと謂はば、是れ亦た然らず。何以故
「若し苦は他人の作にして 而も此人に與ふれば、若し當さに苦を離れたるに 何ぞ此の人の受くること有るべきや」(第五偈)
若し他人が苦を作し此の人に與ふといはば五陰を離れて此の人の受くること有ること無し。復次に、
「苦を若し彼の人が作りて持ちて此の人に與ふれば、苦を離れたるに何ぞ人ありて而も能く此に授けん」(第六偈)
若し彼の人、苦を作りて此の人に授與すと謂はば、五陰の苦を離れて何ぞ彼の人、苦を作りて此の人に持與することあらん。若し有らば應に其の相を説くべし。復次に
「自作が若し成ぜずんば 云何んが彼れ苦を作さん。若し彼の人が苦を作さば 即ち亦た自作と名く」(第七偈)
種種の因縁によりて彼の自作の苦は成ぜず。而して他作の苦を言はむも是れ亦た然らず。何以故。此と彼と相待するが故なり。若し彼が苦を作さば彼に於いて亦た自作の苦と名く。自作の苦は先に已に破したり。汝が受くる自作の苦は成ぜざるが故なり。他作も亦た成ぜず。復次に
「苦は自作と名けず。 法は自作の法ならず。彼れは自體有ること無し。 何ぞ彼が作せし苦あらんや」(第八偈)
自作の苦といふは然らず。何以故。刀は自ら割く能はざるが如し。如是に法は自ら法を作る能はず。是故に自ら作すこと能はず。他作も亦た然らず。何以故。苦を離れて彼の自性なし。若し苦を離れて彼の自性有らば、應に彼作の苦と言ふべし。彼も亦た即ち是れ苦なり。云何んが苦自ら
苦を作るや。問曰、若し自作他作然らずば應に共作あるべし。答曰、
「若し此彼の苦が成ぜば 應に共作の苦有るべし。 此彼すら尚ほ無作し、 何ぞ況んや無因作をや。(若し個々によりて作られた苦があるならば自他両者によりて作られたる苦もあるべし、しかし自・他によりて作られたる苦はないのだから無因の苦もない)」(第九偈)
自作他作すら猶尚ほ過有り。何ぞ況んや無因作をや。無因は過多し。破作作者品(第八偈)中に説けるが如し。復次に
「但だ苦を説くに、 四種の義、成ぜざるのみに非ず、一切外の萬物に 四義亦た成ぜず。」(第十偈)
佛法中に五受陰を説きて苦と為すと雖も、外道人ありて苦受を苦と為すと謂ふ。是の故に説く、但だ苦を説くに四種の義、成ぜざるのみにあらず、外の萬物、地水山木等、一切法も皆な亦た成ぜず。(終わり)