徒歩遍路は大体一泊目は6番安楽寺です。1番から6番までは楽に誰でも歩けます。
1番霊山寺から5番地蔵寺まで、お蔭の数々
第1回目のスタートは、17年9月21日、お大師様の日でした。本当は20日の予定でしたが岡山の実家に帰っているとき叔母が急病になり病院に連れて行ったため1日おくれ、気がつくと21日のお大師様の日の打ちはじめになっていたのです。
初日は、電車で坂東駅に着き、一番目を指して歩き始めました。20年前にも同じ道を歩いているのですぐわかると思ったのですが、遍路らしき人も歩いておらず人通りもなく、心細くなりました。それでも商店街の人に聞いて無事1番に着きました。
1番霊山寺は今迄も数回訪れたことがありますが中に入るといつも多くのお遍路さんでにぎわっています。本堂の中でおまいりも納経もできます。納経は靴を脱いで座敷に上がります。納経帖は20数年前に歩いたときに作ったので掛け軸だけを求めました。遍路の直前に偶然東京の高野山別院で歩き遍路を終えたばかりという若者に出会い運動靴が大切なこととか懐中電灯は必須であることとか2番と3番の間に発心堂という良心的な店があり安こととか聞いていたのですがやはり道順どおり回ろうとすると高めですが1番で買ってしまいます。
お詣りは本堂の端の方にビニールを敷いて座して理趣経・心経をあげました。88所すべて土下座してお参りするときめていたので寺の人が見ていましたが気になりませんでした。
ここは天平年間(729~748)に、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基した寺とされます。
弘法大師は、ここで人々がもつ八十八の煩悩が滅却される事を願い、二十一日間の厳しい修法をされました。その時、釈迦如来が天竺の霊鷲山で説法している様子を感得され、日本にある天竺 霊鷲山の意を込め、竺和山霊山寺とされたといいます。本堂に安置された本尊釈迦如来は大師自刻とされます。
1639年の「法性親王四国霊場御巡行記」では伊予、讃岐を巡拝した後、阿波の国に至ると記してあります。「阿波の国にもなりぬれば、耳に轟く鳴門の浦よく見んものと、四夜五夜撫育の浦畔に、多度りて来る冥ありて、一葦の舟に掉さして波間を遠く漕ぎいけば、浦風立荒れて冨士の高嶺眼の前に絵画ける如く視る波の又引き代わる琴の音や、・・」と書いておりそのあと、霊山寺の代わりに「大麻彦の宮詣で、・・・」と書かれています。第一番札所霊山寺が阿波一宮大麻比古神社の神宮寺であったとされているので神仏習合だった昔は一緒にお参りしたことになっているのでしょう。
澄禅「四国遍路日記」(1653)にはここは「寺は南向き、本尊釈迦如来、寺には僧在り」と書かれています。いまも本堂は南向きでご本尊はお釈迦様です。江戸時代から変わってないことがわかります。
「四国霊験記 (江戸時代、繁田空山法眼著)」には癩病になった和歌山の若者が一番の大師堂で通夜をしているとお大師様の夢をみて癩病が治った、そしてお礼に二十一回遍路をしたとでてきます。「文政四(1807)年辛巳二月に紀州若山本町に定丸と申す米仲買の人あり、行年三十八才なり。然るにおよそ十ヶ年以前より癩病にて苦しむ事限りなし。いかなる名医も是を治する事あたわず、依って親兄弟のなげき大方ならず、終に致し方も是なく最早これ以上は真言の高祖大師様にこの業病を一度なりとも助ける事を願わんと自一心を定めける。元来この人は一向宗門なれども親兄弟一家一門に暇乞をいたし、それより木食の大願を発して日に光明真言一万辺ツヽ唱えて四国八十八ヶ所を一心に遍拝する事はや三度に当たる。
此第一番の御札所霊山寺へと参りける。其の夜は大師堂に通夜いたし一心不乱にさんげを願い三世の業罪みな消滅と光明真言陀羅尼を唱えてトロトロと居眠りける。然る所に不思議や尊き御声にて、「定丸、汝真の修行を致せしゆへに三世の業病救いえさす」と霊夢の仰せに目を覚しうも愚あたりを見れば誰も居ず、只名香のかほり斗り。夜はほのぼのと明けにける。定丸つくづく五体を見れば、面体手足総身まで血色変りて今迄の腐し身体元の如く忽ち難病平癒す。不思議といかなり。定丸あまりのうれしさに声もいださず伏し拝みこの霊験を当山の上人へつつ語り剃髪染衣を願いける。上人考えたまい終に御弟子となし給う。この六恩の報謝のために二十一度の大願立て、大道心を発しける。然る所定丸も自ら思案の相定め一度国に立ち帰り家内中にこの姿を一目見せたらビックリ仰天致すであろ。思えば昨年四国へ出る時親兄弟の詞(ことば)といヽ親類迄が我を見捨て、業病平癒せぬ時は再び国へ帰るなとの悪口はかれし我が身。然るに今又御大師様の御霊験の御かげにて今このように結構なる身体となりし事を皆々見せたうえ猶又我信心の通ぜし事と御霊夢の御奇瑞を親兄弟に談しなば、皆の悦び吾も大慶よろこばしやと。」
2番極楽寺は1番から1.5kmです。絢爛たる山門が新築されていました。ここも澄禅「四国遍路日記」では「寺は退転しており、小庵に堂守の禅門あり」としています。昔は荒れていた時期もあったのでしょう。 行基菩薩の開基、本尊阿弥陀如来はお大師が秘法を修せられた結願の十七日目に示現され、これを刻んで安置したといわれます。顔容が麗しく、発せられる光が遠の沖まで達して漁の妨げになるので、人工の山を作り光をさえぎったといわれる故事から、日照寺と号するようになったといわれています。
ここは団体遍路の納経は別の受付になっており工夫を感じさせました。お遍路に来てまで納経の待ち時間にイライラしても仕方ないのですがそこは業の底知れぬ深さのなせるわざです。仕方ないのでしょう。ここではいつも入り口に近いところにあるお大師様のところで荷物を置かせていただき後は身一つで身軽になってお参りすることにしています。
さきの霊験記はここの霊験も書いています。それによれば9歳になる子供が高熱になる業病で遍路にでていたがここ極楽寺で老僧から霊水をあたえられ快癒したので親子で出家し21度遍路をした後、ここに庵をつくって報恩行に努めた、とあります。
「頃は天保十三年(1843)壬寅の四月八日に播州姫路本町に灰屋弁七と申す者、九才なる亀槌という忰を連れて四国八十八ヶ所を順拝ありしがこの子供は大業人にて五体の焼ける事火の如くなりかようなる難病ゆえに如何なる名医も是を治する事能はず、猶又加持祈祷も色々に致せどもその験しなき故最早この上は御大師様に」祈念のなしてこの業病を救い助けて貰わんと一心堅固にさんげをいたして廻りめぐりて阿波の国第二番の御札所極楽寺へと参りける。親子諸とも本堂の仏の御前に合掌して南無大師遍照尊恐れながらこの亀槌の難病業罪喩え一時の間なりとも大慈大悲のおなさけにて助け給えと一心不乱に弥陀の名号唱えけるに不思議や一人の老僧が現われ給いて申されけるは、汝はやくこの霊水を呑むべし、と亀槌に与え給えば、亀槌その御霊水を押し頂きて呑みければ、忽ち五体の大熱さめて無間地獄の苦患を助かる。勿体なや直ぐにこの場で寺号のごとく身は極楽寺と相成りける。弥陀の誓願勿体なや、今拝見し上人はかげも形も見え申さず、不思議の中のふしぎなりと皆人々も呆れ果て御霊験を感じ入る。数多の同行来拝して弥陀の名号を唱えける。親の弁七も合奏し有りがた涙にむせび泣き、この御利生の恩謝のため親子諸とも剃髪し道心坊とはなりました。四国の御霊地一心に廿一度御謝をなして阿波の国に草庵をかまえ大師の大恩報ずる謝礼と一生この地で大師を念じ極楽庵とは名附けたり。これぞ阿弥陀の大利益尊とむべし信ずべし。
六字丸ただ信心の霊水を呑めば諸病も平癒する」
12番焼山寺は二日目になり大体11番すぐ横の遍路宿「ふじや本家」に泊まります。しかし20年の逆打ちのとき13番から12番へ歩いていると、錦の納札をもったお爺さんが軽四に乗せてくださり、12番をお参りした後に11番まで来て、少し離れた真新しい遍路宿に泊めていただいたことがありました。ここでは、ごみも捨てていただくしお弁当も持たせてくださりいたれり尽くせりで感激したことを思い出します。
17年の遍路で随一の不思議は12番焼山寺でした。ここはいままでも数限りない霊験談がある霊場です。
17年9月23日のことです。さきの「ふじや」をまだ暗いうちに出て、11番を通り抜け、焼山寺への遍路道を無数の遍路墓を片拝みしつつ登りました。高浜虚子は「みちのべに阿波の遍路の墓あわれ」と詠んでいます。
寺伝によると、大師が登山されようとしたとき火の海だったが大師がこれを鎮火され、九合目の岩窟からは毒蛇が飛びかかったがこの時虚空蔵菩薩が毒蛇を岩窟に封じこめたので大師は虚空蔵菩薩を刻んで本尊とされ、寺号を「摩盧山焼山寺」とされたといいます。
参道途中には四国遍路の元祖といわれる衛門三郎が二十一回目に逆打ちして大師と出会い看取られて息を引き取ったところとされる杖杉庵があります。「空性法新王四国霊場御巡行記」では「登る山路も険阻にて難行苦行も焼山寺、山の半に迸る柳の水の糸永く、大師の加持の力ぞと、末の世までも流れ来し、渇せる喉を潤はせ、麓に立てる杖杉は、右衛門三郎悪心を翻しぬる其のあとに、巡りめぐりて、暫らくに此所で大師に物語り、未来の誓ひ結びえて、往生遂げし印石なり」とあります。
先の「四国霊験記」には焼山寺の霊験として山賊に殺されそうになった遍路がお大師様の霊験で逃げ出すことができたが山賊たちは追いかけるとき道が燃えてそれぞれ焼け死んだとありました。
ここでは私にも本当に不思議なことが二回も起こりました。
一つ目の不思議は、17年の遍路のとき、山道の深い叢の中に落とした腕時計を安楽寺で会った一橋の学生があとからきて見つけ、さらに山頂の焼山寺山門で行違いに渡してくれたことです。背丈以上の叢から腕時計を見つける事すら奇跡なのに、それを私の物と確信して、拾い、さらにそれをもって12番まで来た時偶然にも山門を出ようとする私と出会ったのです。山門を出ると直ぐに13番への分れ道がありますから少しタイミングがずれただけでもう会えないところでした。二重三重の奇跡が重なって腕時計が戻ってきたのです。いまでも思い出すと背筋がぞくぞくします。このとき急いでいたのと、気が動転していたのが重なって、ついその学生さんの氏名等の書いてある納札を頂くことができませんでした。いまでは立派な社会人として活躍中でしょうがなんとかしてお礼をいいたいものと9年後の今でも思っています。そしてその御恩返しにもなりませんが近くにある一橋大学の周りのごみ掃除をいつもやらせていただいています。
二つ目の不思議は次19年の遍路の時ですが、道に迷って遍路道を大きくそれてずっと麓近くまでおりてしまい進むことも退くこともできず、途方にくれている時、人など通るはずのない細い道に突然山林作業員らしき人が現れ、もとの道まで作業車の荷台に乗せて送ってくれたことです。おまけにお接待といってお金まで渡されました。地獄に仏とはこのことでした。
どちらも本当に不思議で高群逸枝の言葉でいえば「お助けを頂いた」のです。私の場合お遍路で数え切れないお助けをいただきましたがこの2件は不思議中の不思議です。その他は追って書きます。
1番霊山寺から5番地蔵寺まで、お蔭の数々
第1回目のスタートは、17年9月21日、お大師様の日でした。本当は20日の予定でしたが岡山の実家に帰っているとき叔母が急病になり病院に連れて行ったため1日おくれ、気がつくと21日のお大師様の日の打ちはじめになっていたのです。
初日は、電車で坂東駅に着き、一番目を指して歩き始めました。20年前にも同じ道を歩いているのですぐわかると思ったのですが、遍路らしき人も歩いておらず人通りもなく、心細くなりました。それでも商店街の人に聞いて無事1番に着きました。
1番霊山寺は今迄も数回訪れたことがありますが中に入るといつも多くのお遍路さんでにぎわっています。本堂の中でおまいりも納経もできます。納経は靴を脱いで座敷に上がります。納経帖は20数年前に歩いたときに作ったので掛け軸だけを求めました。遍路の直前に偶然東京の高野山別院で歩き遍路を終えたばかりという若者に出会い運動靴が大切なこととか懐中電灯は必須であることとか2番と3番の間に発心堂という良心的な店があり安こととか聞いていたのですがやはり道順どおり回ろうとすると高めですが1番で買ってしまいます。
お詣りは本堂の端の方にビニールを敷いて座して理趣経・心経をあげました。88所すべて土下座してお参りするときめていたので寺の人が見ていましたが気になりませんでした。
ここは天平年間(729~748)に、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基した寺とされます。
弘法大師は、ここで人々がもつ八十八の煩悩が滅却される事を願い、二十一日間の厳しい修法をされました。その時、釈迦如来が天竺の霊鷲山で説法している様子を感得され、日本にある天竺 霊鷲山の意を込め、竺和山霊山寺とされたといいます。本堂に安置された本尊釈迦如来は大師自刻とされます。
1639年の「法性親王四国霊場御巡行記」では伊予、讃岐を巡拝した後、阿波の国に至ると記してあります。「阿波の国にもなりぬれば、耳に轟く鳴門の浦よく見んものと、四夜五夜撫育の浦畔に、多度りて来る冥ありて、一葦の舟に掉さして波間を遠く漕ぎいけば、浦風立荒れて冨士の高嶺眼の前に絵画ける如く視る波の又引き代わる琴の音や、・・」と書いておりそのあと、霊山寺の代わりに「大麻彦の宮詣で、・・・」と書かれています。第一番札所霊山寺が阿波一宮大麻比古神社の神宮寺であったとされているので神仏習合だった昔は一緒にお参りしたことになっているのでしょう。
澄禅「四国遍路日記」(1653)にはここは「寺は南向き、本尊釈迦如来、寺には僧在り」と書かれています。いまも本堂は南向きでご本尊はお釈迦様です。江戸時代から変わってないことがわかります。
「四国霊験記 (江戸時代、繁田空山法眼著)」には癩病になった和歌山の若者が一番の大師堂で通夜をしているとお大師様の夢をみて癩病が治った、そしてお礼に二十一回遍路をしたとでてきます。「文政四(1807)年辛巳二月に紀州若山本町に定丸と申す米仲買の人あり、行年三十八才なり。然るにおよそ十ヶ年以前より癩病にて苦しむ事限りなし。いかなる名医も是を治する事あたわず、依って親兄弟のなげき大方ならず、終に致し方も是なく最早これ以上は真言の高祖大師様にこの業病を一度なりとも助ける事を願わんと自一心を定めける。元来この人は一向宗門なれども親兄弟一家一門に暇乞をいたし、それより木食の大願を発して日に光明真言一万辺ツヽ唱えて四国八十八ヶ所を一心に遍拝する事はや三度に当たる。
此第一番の御札所霊山寺へと参りける。其の夜は大師堂に通夜いたし一心不乱にさんげを願い三世の業罪みな消滅と光明真言陀羅尼を唱えてトロトロと居眠りける。然る所に不思議や尊き御声にて、「定丸、汝真の修行を致せしゆへに三世の業病救いえさす」と霊夢の仰せに目を覚しうも愚あたりを見れば誰も居ず、只名香のかほり斗り。夜はほのぼのと明けにける。定丸つくづく五体を見れば、面体手足総身まで血色変りて今迄の腐し身体元の如く忽ち難病平癒す。不思議といかなり。定丸あまりのうれしさに声もいださず伏し拝みこの霊験を当山の上人へつつ語り剃髪染衣を願いける。上人考えたまい終に御弟子となし給う。この六恩の報謝のために二十一度の大願立て、大道心を発しける。然る所定丸も自ら思案の相定め一度国に立ち帰り家内中にこの姿を一目見せたらビックリ仰天致すであろ。思えば昨年四国へ出る時親兄弟の詞(ことば)といヽ親類迄が我を見捨て、業病平癒せぬ時は再び国へ帰るなとの悪口はかれし我が身。然るに今又御大師様の御霊験の御かげにて今このように結構なる身体となりし事を皆々見せたうえ猶又我信心の通ぜし事と御霊夢の御奇瑞を親兄弟に談しなば、皆の悦び吾も大慶よろこばしやと。」
2番極楽寺は1番から1.5kmです。絢爛たる山門が新築されていました。ここも澄禅「四国遍路日記」では「寺は退転しており、小庵に堂守の禅門あり」としています。昔は荒れていた時期もあったのでしょう。 行基菩薩の開基、本尊阿弥陀如来はお大師が秘法を修せられた結願の十七日目に示現され、これを刻んで安置したといわれます。顔容が麗しく、発せられる光が遠の沖まで達して漁の妨げになるので、人工の山を作り光をさえぎったといわれる故事から、日照寺と号するようになったといわれています。
ここは団体遍路の納経は別の受付になっており工夫を感じさせました。お遍路に来てまで納経の待ち時間にイライラしても仕方ないのですがそこは業の底知れぬ深さのなせるわざです。仕方ないのでしょう。ここではいつも入り口に近いところにあるお大師様のところで荷物を置かせていただき後は身一つで身軽になってお参りすることにしています。
さきの霊験記はここの霊験も書いています。それによれば9歳になる子供が高熱になる業病で遍路にでていたがここ極楽寺で老僧から霊水をあたえられ快癒したので親子で出家し21度遍路をした後、ここに庵をつくって報恩行に努めた、とあります。
「頃は天保十三年(1843)壬寅の四月八日に播州姫路本町に灰屋弁七と申す者、九才なる亀槌という忰を連れて四国八十八ヶ所を順拝ありしがこの子供は大業人にて五体の焼ける事火の如くなりかようなる難病ゆえに如何なる名医も是を治する事能はず、猶又加持祈祷も色々に致せどもその験しなき故最早この上は御大師様に」祈念のなしてこの業病を救い助けて貰わんと一心堅固にさんげをいたして廻りめぐりて阿波の国第二番の御札所極楽寺へと参りける。親子諸とも本堂の仏の御前に合掌して南無大師遍照尊恐れながらこの亀槌の難病業罪喩え一時の間なりとも大慈大悲のおなさけにて助け給えと一心不乱に弥陀の名号唱えけるに不思議や一人の老僧が現われ給いて申されけるは、汝はやくこの霊水を呑むべし、と亀槌に与え給えば、亀槌その御霊水を押し頂きて呑みければ、忽ち五体の大熱さめて無間地獄の苦患を助かる。勿体なや直ぐにこの場で寺号のごとく身は極楽寺と相成りける。弥陀の誓願勿体なや、今拝見し上人はかげも形も見え申さず、不思議の中のふしぎなりと皆人々も呆れ果て御霊験を感じ入る。数多の同行来拝して弥陀の名号を唱えける。親の弁七も合奏し有りがた涙にむせび泣き、この御利生の恩謝のため親子諸とも剃髪し道心坊とはなりました。四国の御霊地一心に廿一度御謝をなして阿波の国に草庵をかまえ大師の大恩報ずる謝礼と一生この地で大師を念じ極楽庵とは名附けたり。これぞ阿弥陀の大利益尊とむべし信ずべし。
六字丸ただ信心の霊水を呑めば諸病も平癒する」
12番焼山寺は二日目になり大体11番すぐ横の遍路宿「ふじや本家」に泊まります。しかし20年の逆打ちのとき13番から12番へ歩いていると、錦の納札をもったお爺さんが軽四に乗せてくださり、12番をお参りした後に11番まで来て、少し離れた真新しい遍路宿に泊めていただいたことがありました。ここでは、ごみも捨てていただくしお弁当も持たせてくださりいたれり尽くせりで感激したことを思い出します。
17年の遍路で随一の不思議は12番焼山寺でした。ここはいままでも数限りない霊験談がある霊場です。
17年9月23日のことです。さきの「ふじや」をまだ暗いうちに出て、11番を通り抜け、焼山寺への遍路道を無数の遍路墓を片拝みしつつ登りました。高浜虚子は「みちのべに阿波の遍路の墓あわれ」と詠んでいます。
寺伝によると、大師が登山されようとしたとき火の海だったが大師がこれを鎮火され、九合目の岩窟からは毒蛇が飛びかかったがこの時虚空蔵菩薩が毒蛇を岩窟に封じこめたので大師は虚空蔵菩薩を刻んで本尊とされ、寺号を「摩盧山焼山寺」とされたといいます。
参道途中には四国遍路の元祖といわれる衛門三郎が二十一回目に逆打ちして大師と出会い看取られて息を引き取ったところとされる杖杉庵があります。「空性法新王四国霊場御巡行記」では「登る山路も険阻にて難行苦行も焼山寺、山の半に迸る柳の水の糸永く、大師の加持の力ぞと、末の世までも流れ来し、渇せる喉を潤はせ、麓に立てる杖杉は、右衛門三郎悪心を翻しぬる其のあとに、巡りめぐりて、暫らくに此所で大師に物語り、未来の誓ひ結びえて、往生遂げし印石なり」とあります。
先の「四国霊験記」には焼山寺の霊験として山賊に殺されそうになった遍路がお大師様の霊験で逃げ出すことができたが山賊たちは追いかけるとき道が燃えてそれぞれ焼け死んだとありました。
ここでは私にも本当に不思議なことが二回も起こりました。
一つ目の不思議は、17年の遍路のとき、山道の深い叢の中に落とした腕時計を安楽寺で会った一橋の学生があとからきて見つけ、さらに山頂の焼山寺山門で行違いに渡してくれたことです。背丈以上の叢から腕時計を見つける事すら奇跡なのに、それを私の物と確信して、拾い、さらにそれをもって12番まで来た時偶然にも山門を出ようとする私と出会ったのです。山門を出ると直ぐに13番への分れ道がありますから少しタイミングがずれただけでもう会えないところでした。二重三重の奇跡が重なって腕時計が戻ってきたのです。いまでも思い出すと背筋がぞくぞくします。このとき急いでいたのと、気が動転していたのが重なって、ついその学生さんの氏名等の書いてある納札を頂くことができませんでした。いまでは立派な社会人として活躍中でしょうがなんとかしてお礼をいいたいものと9年後の今でも思っています。そしてその御恩返しにもなりませんが近くにある一橋大学の周りのごみ掃除をいつもやらせていただいています。
二つ目の不思議は次19年の遍路の時ですが、道に迷って遍路道を大きくそれてずっと麓近くまでおりてしまい進むことも退くこともできず、途方にくれている時、人など通るはずのない細い道に突然山林作業員らしき人が現れ、もとの道まで作業車の荷台に乗せて送ってくれたことです。おまけにお接待といってお金まで渡されました。地獄に仏とはこのことでした。
どちらも本当に不思議で高群逸枝の言葉でいえば「お助けを頂いた」のです。私の場合お遍路で数え切れないお助けをいただきましたがこの2件は不思議中の不思議です。その他は追って書きます。