相應の義というは、謂く心と念法と異なり、染淨の差別によって而も知相と縁相と同じきが故に。不相應の義とは、謂く心に即する不覺は常に別異なし。知相と縁相と同じなるが故に(先の六種の汚れた心の説明にあった『相応』という言葉の意味は、心とその念は性質が異なっており、浄いとか汚れているとかの差別に応じつつ刹那毎に生滅する主観客観の相を同じくする故である。不相応という意味は、心に密着した迷いは常に心と別となっておらず従って刹那毎にあらわれる主観客観の相と生滅をおなじくするものではないからである。)
又た染心の義とは、名ずけて煩惱礙となす、能く眞如根本智を障ふるが故に。無明の義とは、名ずけて智礙となす。能く世間の自然業智を障ふる故に。此の義云何。染心によって能見能現あり、妄りに境界を取って平等性に違するが故に。一切の法は常に靜にして起相あることなし。無明の不覺、妄りに法と異するを以ての故に、世間一切の境界に隨順することを得て、種種に智こと能わざるが故に(また汚れた心とは煩悩障(煩悩に依る障害)と同じ意味である。これは心の真実の在り方を知る根本的な智慧をさまたげているからである。無明とは智に対する妨げと呼ばれるものである。それは世間にあって自然に働いている如来の智慧を妨げるからである。どういう意味かというと汚れた心によって主観と客観が生じ、みだりに外の世界を対象として取り、種々の相を生ずるので真理の平等性に反するから、根本的な智を妨げることになるのである。他方一切の現象は本来静寂で動かないものであるのに衆生は根源的無知の為に真理を覚らず法に外れるので世間の一切の対象をありのままに素直にみるところの種々の智慧を獲得できないから、根源的無知を一切の対象を知る智のはたらきをさまたげるものと呼ぶ。)
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