福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その93

2019-01-01 | 四国八十八所の霊験
五剣山と屋島の作る立体パノラマの間を五剣山中腹の85番八栗寺まで歴史に彩られた古い遍路道が結びます。瓦礫を何層にも枯葉が覆って続く急坂です。ここでも風化した遍路墓が多く立っています。
遍路道のうえで源平の合戦が繰り広げられ、またその上に遍路墓がたてられています。死者は何層にもわたって葬られています。相応部経典では自分の墓のため人の骨の埋まってないところをさがしあてたというバラモンにお釈迦様は「無始以来輪廻を続けている有情の骨は地上のあらゆるところにある。(バラモンが見つけた土地も)過去に500回もあなたが埋められていたところだ」といいます。 大智度論二十八にも「一人の一劫の中に畜生となる時は・・その手首を切られその身を切られるにこの如き等の血はこの水よりも多し。此の如くにして無辺の大劫の中に身を受け血を流すことはあげて数ふべからず。啼哭の流涙及び母乳を飲むもまたこの如し。一劫の中の一人の積骨を計るにビフラ山よりも過ぎたり・・」とあります。


我々もお墓を作るとき新鮮な土地のほうがいいと思います。我が家の墓もそうおもって新鮮な土地に作ったつもりです。しかしこの相応部経典や大智度論を見ると過去に骨が埋まってない土地などないということです。もっともです。何十億年も前から地球はあるのですから必ずなんらかの骨は埋まっているはずです。どんな生き物でもわれわれの先祖には違いないのです。

屋島からの道を降りきったあたりに安徳天皇社がありました。

平家物語には「先帝身投」として「二位殿(清盛の妻)は神璽をわきにはさみ、宝剣を腰にさし、主上をいただき奉って、・・・先世の十善戒行の御力(さきに述べた十善戒を守ると帝にうまれることができるといわれていました。)によっていま万乗の主と生まれさせたまへども、悪縁にひかれて御運すでにつきさせたまひぬ。・・・極楽浄土とてめでたきところへ具し参らせさぶらふぞ・・・浪の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入りたまふ。」と出てきます。安徳天皇社の 写真を撮ろうとしたのですがどうしてもシャッターがおりませんでした。私の先祖は四国の出身であることや、姓から類推しても平氏のような気がしていたのですが、もしそうなら家来のくせに無礼なということだったのかもしれません。 19年にはよく拝んだあと撮らせていただきました。 ここには平家墓もあります。般若心経を唱えました(神社には般若心経を唱えることになっています)。この少し先には「佐藤継信の碑」というのがあります。 平家方の猛将能登守の矢から主君義経を守り殉死した佐藤継信を初代高松藩主松平頼重が顕彰して建てたものです。

◇ ◇ ◇


また遍路道の途中にある州崎寺は大同年間にお大師様の創建といわれていますがこの寺の戸板に佐藤継信の亡骸をのせて運んだとされており源平旧跡という旗が建っています。
この近くにはこの継信の首を取ろうとして討ち死にした若武者菊王丸の墓もあります。  平家物語によれば菊王丸の主君能登守も源氏の武将を両脇に挟み 「「さらばおのれら死途の山のともせよ」とて生年二十六にて海へつっとぞいりたまふ」とあります。
またこのあと「新中納言(平知盛)「見るべき程のことは見つ。いまは自害せん」とて・・海へと入りにける。」と書かれています。 古典の世界ですが凄惨です。歩きながら光明真言をとなえ源平の死者の霊をともらいました。
しかし時の流れは凄惨な光景を風化させ「船弁慶」「敦盛」などの多くの謡曲や歌舞伎にまでなっています。能舞台の「橋掛り」はあの世とこの世を結ぶところとされています。
しかし遍路にとって遍路道は橋掛りよりはるかに生々しく千年など昨日のようにあの世とこの世をつなぎます。

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