福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんより「蝸牛歩御詠歌修得奮闘記(3)」を頂きました。

2019-01-01 | 講員の活動等ご紹介
蝸牛歩御詠歌修得奮闘記(3)

明けましておめでとうございます。新しい年を迎えました。ただ、カレンダーの日にちが、一日、変わっただけなのに、普段の生活の日とは、趣が変わった、少し緊張気味で、気も張っていて、「今年こそ、やるぞ」というような、厳かな決意が、体中に、こみ上げてくるようです。

元日の佛行は、本職の僧侶の方だと、日頃の勤行とは、違った、仕来りがあるのでしょうが、私の場合は、別に気張ったことはなく、普段と変わったところはありません。ただ、昨年より、今年は、お釈迦様の仏道を、一層、本物にしてゆきたいことと、御詠歌の習得を、今までにも増して、もっと真剣に取り組まねばならないと、本当?誓いを、胸に刻みました。

というのも、昨年までの御詠歌の習得は、メロデイを覚えるのが中心で、詠歌の歌詞を暗記して、空で唱えることが出来ず、どの曲を唱えても、教本の歌詞を見なければ、お唱え出来ないという有様なのです。この、イージーゴーイングな修得の仕方では、本当に御詠歌をマスターしたことにならない。と改めて、自戒をした訳です。教本なしでも、きちんと、詠唱出来るようにならねば駄目だという,ちいさな反省が、今年の、最大の目標です。

やり始めてみると、御詠歌の歌詞を暗記すること、また、鈴鉦記号を暗記して、鈴鉦を打ち鳴らす事は、なお、一層難 しいことが、解かりました。が、ともあれ、歌詞の暗記から始めます。悲しい現実でしょうか。例えば、比較的覚えやすい、「同行和讃」もう、百篇以上は、お唱えしたはずなのです。が、暗記が、出来ていません。たった、一行の和讃の単語が、脳裏に、浮かばないのです。脳みそに、固定するように、教本を見て、何回も、口ずさみます。やっと覚えたか。と思いきや、翌日には、もう、消えてしまっている。という塩梅です。そしてまた
暗記を繰り返す。これが、「老年の悲嘆」というのでしょうか。心身の疲労も、並のものではありません。やけくそになっても、埒はあきません。ここは、じっと、忍耐するのみです。
私は、子供のころと言っても、小学一年生のころ、母親から、謡曲の観世流「鶴亀」「船弁慶」などを、教え込まれたことがありました。
今では、全曲、謡い込むことはできませんが、それでも、曲の歌詞、メロデイは、ちゃんと覚えているのです。今更ながら、子供のころの、記憶というものは、凄いものだと、感心せざるを得ません。
それに比べ、今の私は、何としたことか?情けなくなります。が、どうにもなりません。

こんな愚痴をこぼしていても、つまらないですね。そこで、これは、考え方を、変えてみようと、この、暗記の努力を、日日、仏さまに、お唱えする、御詠歌の奉詠の修行にしようとしたところです。奉詠時間が、これまでの15分が、30分になり、一時間にもなるところです。毎日、おなじ曲を、暗記できてしまうまで、選び、お唱えします。考えてみると、光明真言を、百編ほどお唱えしているようなものなのですね。

話題を変えてみます。10年ほど前、東北大学の脳科学の先生で、加齢医学研究所長の川島隆太教授  
が、熊本と仙台の老齢者の施設で生活している認知症の老齢者を対象に、脳の活性化の実験結果を報告していました。その結果報告で、脳の劣化を防ぐためには、本を声を出して読む。絵本を、大声をあげて朗読する。声をあげて、読むことが、脳みその活性化に効果があるという見解を発表され、当時、脳活性化の朗読本が、飛ぶように売れていたことを思い出します。この、例に倣うと、御詠歌詠唱の、記憶の努力も、脳みその、活性化に、ひと役買って居るかも知れません。
私の場合、結果は分かりませんが、実験的にも、つずけて見ようと思います。この、健気な、努力が、仏さまから、ご覧いただいて、記憶力が、増進されるといいのですが。

ところで、私は、仏さま=お釈迦様(小乗)を、強く信奉しています。お釈迦様の弟子で、お釈迦様の、説法がなかなか理解できず、嘆いていたところ、お釈迦さまは、その弟子に、嘆いてばかりおらずに、毎日、庭掃除に専念しなさい。と説教され、庭掃除に徹して解悟した。という逸話があります。そう、私の御詠歌も、この逸話のとうりにならないものかと、思っています。
御詠歌は、仏の心を詠んだものが多数あり、ひるんだ、心を慰め、力ずけてくれます。

 如来(ほとけ)のみ手に導かれ 人とし生けるありがたさ
 尊き身には曼荼羅の 相互生命に合掌を
        (相互合掌和讃)

吾等覚りの行者(ひと)として 朝な夕なのかたときも
仏の教え身につけて たつきの日々にいそしまん
        (同行和讃)

易しい文章の中に、深い、蘊蓄が込められた信仰があり、難解なお経を読むのと同じような、心が、込められていることが、解かります。

昨年83歳でご遷化された、密厳流遍照講 元詠監 佐藤龍牙先生は、「分からなくてもいい。とにかく聴いていれば音がつかめる」「自分の道は、自分で切り開く、個性を出してみんなと同じ指導でなく、自分の指導を大切に自信をもって」と力強い言葉で,歌の指導に当たる、人たちに、激励されていたそうです。
そして、佐藤先生の御詠歌「八ケ条」があります。

1・あせらず、急がず、休まず。
2・人の心を動かすものは人の心である。
3・顔に皺が寄っても、心に皺は寄らない。なぜなら心は感動するか
 ら。
4・音符を歌うのではなく、言葉を唱え歌詞を分かりやすくお話しす
 るようにお唱えする。
5・符にあらず、節にあらず、声にもあらず、詠歌の道は、その奥の
 奥。
6・百聞は一見にあらず。百聞は体験にあらず。
7・御詠歌は、口で唱えて、心で感謝。
8・あわてるな、もてる力を出せばいい。
       (平成30年3月30日発行・遍照講々報 109号より)

そして、御詠歌は、体で、覚え、覚えこませること、と言われます。確かに、お唱えすることと、信心を深めることとは、おなじ事だと思います。

仏教に御詠歌があることを、もっと、もっと知ってほしいものです。巡礼や、一部の好事家のたしなみで歌われるのではなく、口笛を吹くような、心地で、唱えるように、したいものです。

もう一つ、御詠歌を暗記せねばならないのは、立式(りっしき
)という所作をするときです。立式というのは、立って、歩きながら、御詠歌を詠唱し、鈴を鳴らすことなのです。多くは、例えば、高尾山薬王院では、春と秋の二回、例大祭が催され、稚児行列などが、行われます。この大祭には、大勢の人が集まり、賑やかに、祭典を繰り広げます。山上を行列を作って、練り歩きます。この行列の一団に、私たち、御詠歌講のメンバーが参加して、御詠歌を詠唱しながら、行進するのです。その時の御詠歌は、教典を見ることが出来ません。両手には、立式の所作で、鈴と、撞木を両方の手で持たなければならないからです。こうした、立式の御詠歌詠唱の時は、曲目を暗記しておかねばなりません。こうした、実務の要求からでもあるのです。

ちなみに、寺社巡礼の時の御詠歌の所作は、立式の所作です。したがって、所作も、座式と立式と二通りあり、それぞれ、鈴と撞木の使い方が違うのです。そして、立式では、鉦は、使いません。その代わり、鈴を撞木で打って、鳴らします。ですから、鈴のなり方に、違いがあり、それぞれは、趣があり、美しい情趣に酔いしれます。

光明真言和讃
金剛不壊のよりどころ 大悲大日廬遮那尊
あふるる五智の光明は 遍く照らす法(のり)の色

光明真言唱うれば 迷いも罪もぬぐわれて
この世もあの世もへだてなく 生きぬく力さずからん

ひたすらに 唱うる功徳 あまねきて
  闇夜を照らす 五智の光明
  闇夜を照らす 五智の光明
  
 

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