公事根源「石清水放生会 (八月)十五日
内裏には異なること無し。上卿、宰相、辨、衛府など男山にむかふ。宣命、内蔵寮の使にたまふ。抑々八幡大菩薩と申し奉るは人王第十六代の帝、應神天皇の御事なり。仲哀天皇の第四の皇子。御母は神功皇后なり。胎中天皇とも又は譽田天皇とも名け奉る。天下をしろしめすこと四十一年、百十一歳の寶算をたもたせたまふ。欽明天皇の御代に始めて神と顕れて筑紫の肥後の國、菱形の池といふ所に跡を垂れたまふ。人王十六代譽田の八幡丸なりと託宣ありき。譽田は元の御名、八幡は垂迹の號、後は豊前の國宇佐の宮に鎮まり給ひしかば、聖武天皇、東大寺建立の後、巡礼し給ふべき由託宣あり。仍て威儀をととのへて迎へ申さる。又、神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼の寺に勧進申さる。されど勅使などは猶宇佐に参りき。清和の御時は大安寺の僧、行教、宇佐に詣でたりしに霊告ありて今の男山石清水に遣り住ませ給ふ。然ありし後は行幸も奉幣も石清水に在り、一代一度宇佐にも勅使を奉らる。二所の宗廟と申すは天照大神に八幡大菩薩の御事なり。八幡大菩薩と申す御名は御託宣に「道を得てよりこのかた法性を動かさず八正道を示し、権迹を垂る。皆苦しむ衆生を解脱せしむるを得るが故に八幡大菩薩と號す、とあり。正八とは、内典に正見、正帷、正語、正業、正命、正精進、正定、正念、これを八正道といふ。大よそ心正しければ心口はおのずから清まる。三業に邪くして内外真正なるを諸仏出世の本源となす。神明の垂迹も皆これが為なり。又は八方に八色の幡を立つる事あり。密教の習に西方阿弥陀の三昧耶形なり。其の故にや。行教和尚には弥陀三尊の形にて見えさせ給ひけり。光明袈裟の上にうつらせましましけるを頂戴して男山には安置申されけるとぞ(注1)。神明の本地を云ふ事正しからぬこと多く侍れど大菩薩の垂跡は昔より明らかなる證拠おはしますにや。或は又昔霊鷲山にして妙法花経を説くとも或は弥勒なりとも大自在菩薩なりとも託宣したまふ(注2)。八方の衆生を済度したまふ本誓、よくよく思ひ入りて崇敬し奉るべきなり。
さて放生会の起りは、元正天皇の御年養老四年九月、異国襲来の時、大菩薩の神力に因りてたやすく異敵を退け侍りて後、大菩薩の託宣に合戦の間、多くの人を殺しぬ、放生会を行なふべきなりとありしによりて毎年に諸国にて此の事あり。放生のいみじき事、最勝王経の長者流水品の池魚の事より興れる(注4)。誠に生けるを放つ御誓のほど深かるべし。延久二年より行幸に準ぜられて六府以下供奉する事にはなれり。早旦に猪の鼻を神輿下らせ給ふ時は行幸の儀式にて音楽の聲、雲をとどめ衣冠の装、日に輝く。それに引きかへて還幸のありさまは神人法師ばらにいたるまで白杖をひきて還らぬ道に送り奉る正念、儀式なり。朝には紅顔ありて世路にほこれども夕には白骨と成りて郊原に朽ちぬと申す(注3)。世の有様を示し給ふ。神慮のほど量り難く尊きことどもなり。」
(注1)
・「八幡大菩薩託宣集」「光仁天皇八年。宝亀八年丁巳 777五月十八日託宣。」
「明日辰時を以て沙門と成る、三皈五戒を受くべし。自今以後は禁断殺生・放生すべし。但し国家の為に巨害之徒出来たる時は此の限にあらず。疑念なかるべし。
古仏垂迹大悲菩薩の御身なり。仏位にして説き給はば経教と仰ぎ奉り、神道を以て宣るをば、託宣と称す。真実者也。不虚妄者。不誑語者也。御誓願に任す之旨、天皇や奉り守り給ふ。
」
・「本朝高僧傳」「釈行教。世姓紀氏。備後州人、山城守兼弼の子、孝元天皇二十一世の裔。仁和寺益信の俗兄也。和の大安寺に居し三論及び密教を學す。道骨堅強、勤修撓ず。徳業を上聞、傳燈阿闍梨に任ず。常に寺の鎮守八幡を持念す。貞観元年859、豊前宇佐八幡神祠に詣ず。一夏九旬、昼に諸大乗経を読み、夜に密呪を誦す。夏満、帰らんとす。其の夜、夢に神曰く、『我亦随行し王城側に居り、當に皇祚を護らむ』。教、中秋を以て山崎県に著く。其の夜、神又告げて曰く『師、當に我が所居の処を観ずべし』と。夢覚めて起き、東南男山を見るに神光一道、鴿峰上(鳩は八幡神の使鳥ゆえに「鴿ノ峰」というか)に現る。凌晨、その處に至るに実に霊區、勝境也。教、始めて茅社を構へ、敬して法味を獻じ、事を録して表奏す。橘工部詔。宇佐之祠に準じ新に神廟を建つ。祭礼相続、実に貞観元年859九月十九日也。其の後、朝廷、国家安寧の為、豊前の国に於て一切経を写し宇佐祠に納む。教に命じて其の事を検せしむ。世傳に、教、嘗って神の本身を見んと祈るに、俄かに彌陀・観音・勢至、袈裟の上に現ず。是に因り殿内に三像を安じて云、
賛に曰く、神は霊鍳不昧、清浄の地に居す。感ありて而も之に通ぜざること無し。夫れ一心法界は清浄の基也。故に十方諸神、佛會に来りて誓ひて正法を護る。此の方の神、仏子を崇ぶは此の義に依る也。宇佐八幡神、教の清修に感じ男山に影降し遂に閟宮を定む。義亦茲に在り。神道を論ずるは或いは応化合一の説あり。理に於て周せず焉。」
(注2)八幡宇佐神宮御託宣集・元亀元年に「大分宮神託す、『我日本国を持んが為に大明神と示現す。本体はこれ釈迦如来の変身にして自在王菩薩是也。法体に名く。女体と申すは我が母阿弥陀如来の変身なり。俗体と申すは観音菩薩の変身にして我が弟なり・・・』」
(注3)和漢朗詠集 「朝有紅顔誇世路、暮為白骨朽郊原」
(注4)