福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

江戸前期の禅僧案山吉道、久円が富士山に入定した日。

2022-08-15 | 法話

案山吉道、久円の入定。
案山吉道は江戸前期の僧。慶長13年甲斐国生まれ。曹洞宗保福寺の建州隣道のもとで出家,万安英種,鉄心道印に師事。黄檗宗の即非如一や木庵性瑫にも師事。各地を遍歴。富士山の岩あなで座禅をくみ延宝5年8月15日入定。70歳。弟子久円は元盗賊、師を慕って一緒に入定。
「日本洞上聯灯録」「案山吉道禅師は藤本氏。甲州都留郡藤崎郷の人也。八歳にして上野原の保福寺建州禅師に依って薙髪、一日傳燈を読む。次いで洞山傳に向ふ。「世間甚麼ものか最も苦なる、僧曰く地獄最も苦なり。山曰く「然らず、衣緑下大事を明らめざる、始めて是最も苦なり」と云う處に至って警嘆す。仍って願を発して曰く、「誓って一生を尽くし大事を了畢せん」と。首め、萬安和尚に武州舟田山に謁し、于信大昌参全久鉄心に参ず。従来十余年、天慧内に発して・・。悟る所有り。復た保福寺に帰る。時に建州の順世に値ふ。衆、住寺を薦む。師堅辞して受けず。即ち郡の犬目山に入り、柴を縛りて菴と為す。風穿ち、日炙る。冬夏一衲、日に果核を採りて息を延ぶ。是に於いて緇素競ひ来たり瞻禮して供を送る。唯後るを恐る。師蒲団を移し、増々深に入れば追い来たって蟻附す。山中地を易ること数所、然れども菴小にして容れ難し。師、煩只を難じ炬を執りて之を焼去る。適ま木曽の山中を過ぐ、遽に革賊有りて出つ。師、内外の衣を解きて之にあたへ去る。わずかに行くこと数十歩、更に嚢中の金を出して之に度して曰く「向に之を遺せり。汝持ちされ」。賊之を熟視し忽ち感泣し作禮して曰く「某甲、愚昧にして報応の理を知らず。多年劫賊を以て活業となす。今何の幸ぞ佛日を覩るを得る。即ち薙髪して僧となりて侍従し復家に帰らず。
慶安の初め、萬安轝聖に住す。師再び参じ、留て二夏を過ぐ。即ち豊の広壽在に非ず。乃ち往きて謁す。非、之を奇とし、留めて蔵を掌らしむ。一日、諸執事、立の次で、
非問ふ、「蔵司、年多少ぞ」。師曰く「六十」。非曰く「主人公年多少ぞ」。師曰く「識らず」。非曰く「恁麼ならば則ち渠と同條に生ぜざりし也」。師曰く「類じて斉しからず」。非曰く「知ぬ。子は是れ曹洞の児孫なるを」。是において一衆、観を改む。尋で木菴黄檗に謁す。菴喜ぶこと甚し。送るに偈を以てす。曰く「案山は高き也。主山は低し。賓主歴然、径蹊没し、漫天千尺の浪を坐断す。清平世界活生涯」。厥後、武陵の深山に菴居す。自ら大限将に尽るを知り、潜かに遁れて富士山に登り、遂に巌窟に入定す。其の徒、久圓なる者あり、曾て師に木曽に於いて遭ふ賊なり。師に蹟ひて此に届れば則ち師既に瞑目す。便ち礼拝し座に近きて跏趺して逝す。時に延宝丁己五年八月十五日なり。師の壽七十.臘五十三.弟子輩遂に師の所生の處に従って塔を建つ。」


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