1、関東三十六不動霊場十六番札所(阿姿羅庭童子),竹園山 最勝寺 教学院、目青不動尊。御本尊 阿弥陀如来・不動明王。
永満元年(1165)天台僧義周が源頼政の命で創建、慈覚大師自刻の不動明王を本尊としたのが目青不動とされる。
華厳経にいう、天上界と地上界の間にたなびく青い雲の色に基づく不動尊である事から、天と地の連絡をして下さる不動尊というので、いつしか「縁結びの不動」とも云われ、若い男女、特に女性の尊崇を集めてきた。
平直方の「夏山雑談」(寛保元年)によれば、慈眼大師天海が江戸城鎮護のために不動明王像を造立し、王城鎮護の四神にならい江戸城の四方に配置したのが目黒・目白・目赤・目青の四不動であろうとしている。
これを後になって徳川将軍家光が、四不動に目黄不動尊を加えた五つの不動尊を「五目不動」としてまとめたため、以後は江戸五色不動の一つとして知られるようになった。
即ちこの五色とは「目」にあるのではなく、中央(黄麟)黄、 東(青龍)青、 南(朱雀)朱、 西(白虎)白、 北(玄武)黒であらわしたものである。
教学院の創立は、応長元年(1311)で、江戸城内の紅葉山の位置にあったものを太田道灌の江戸城築城により麹町貝塚に移しさらに慶長九年(1604)に青山南町にある3千坪以上の土地を拝領し、ここに3度目の移転。五世・岸能(中興開山)の代、寛永九年(1632)に移転を完了し、この時に寺門を構えた。
当初は赤坂日枝神社別当寺である山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となるに及び、東叡山寛永寺末となった。
目青不動尊を安置する不動堂には座高1メートル余りの青銅製で寛永十九年(1642)正月十一日の銘がある御前立像がある。
2、関東三十六不動霊場十七番(持堅姿童子)札所、瀧轟山 明王院 満願寺別院等々力不動尊、御本尊 大聖不動明王(秘仏)
当山の不動尊は役の行者の御作になる。
役の行者は修験道の開祖で、大和を中心に山岳修験の行を極めていたが、その行の中で不動明王を刻まれた。
以来、大和にあって大きな霊験で尊崇を集めていた。
平安時代の末、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人の夢にこのお不動様のお告げがあり「武蔵野國、調布の陵に結縁の地がおる。永くその地に留まり衆生を済度せん。」とおしゃった。上人が武蔵野國に入ると、夢に見たのと同じ渓谷があり、錫杖で岩を穿つと、そこから清らかな滝が溢れ、その水しぶきの中に金色に輝く三十六童子が現れた。
上人はその中央に、捧持していたお不動様を安置され、それ以来千年間、等々力の滝、不動尊利剣の滝として修行者に大利益をもたらしつつ今日に受け継がれている。
本寺の満願寺は真言宗智山派で致航山感応院満願寺と称す。文明二年(1470年)定栄和上の開山。本尊は弘法大師御作の大日如来。境内の一言地蔵は日本三体地蔵の一つ。
3、関東三十六不動霊場十八番(利車毘童子)札所、泰叡山 瀧泉寺目黒不動尊、御本尊 不動明王
開基は、天台座主第三祖・慈覚大師円仁。
大同3年(808)大師十五歳の時、師の広智阿闍梨に伴われて比叡山へ登る途中、目黒の地に立ち寄り、その夜に不動明王の霊夢を感じ、自らその尊像を彫刻して安置したのにはじまる。
大師は比叡山へ登って伝教大師最澄の弟子となり天台の教義を研究されていたが、承和五年(838)唐に渡り求法の旅を続ける事十年。或る日、長安の青龍寺に詣でて本尊の不動明王の尊像を拝すると、かって目黒の霊夢に現れた御姿に酷似しているのに驚き、不思議な奇瑞に感涙咽んだといわれる。
帰朝して伝灯大法師位を授けられ、天台座主第三祖となったが、その後再び目黒の地に下り、堂宇を建設した。大師が「大聖不動明王心身安楽呪願成就滝泉長久」と棟札に書かれたことを以って滝泉寺となずけた。
永満元年(1165)天台僧義周が源頼政の命で創建、慈覚大師自刻の不動明王を本尊としたのが目青不動とされる。
華厳経にいう、天上界と地上界の間にたなびく青い雲の色に基づく不動尊である事から、天と地の連絡をして下さる不動尊というので、いつしか「縁結びの不動」とも云われ、若い男女、特に女性の尊崇を集めてきた。
平直方の「夏山雑談」(寛保元年)によれば、慈眼大師天海が江戸城鎮護のために不動明王像を造立し、王城鎮護の四神にならい江戸城の四方に配置したのが目黒・目白・目赤・目青の四不動であろうとしている。
これを後になって徳川将軍家光が、四不動に目黄不動尊を加えた五つの不動尊を「五目不動」としてまとめたため、以後は江戸五色不動の一つとして知られるようになった。
即ちこの五色とは「目」にあるのではなく、中央(黄麟)黄、 東(青龍)青、 南(朱雀)朱、 西(白虎)白、 北(玄武)黒であらわしたものである。
教学院の創立は、応長元年(1311)で、江戸城内の紅葉山の位置にあったものを太田道灌の江戸城築城により麹町貝塚に移しさらに慶長九年(1604)に青山南町にある3千坪以上の土地を拝領し、ここに3度目の移転。五世・岸能(中興開山)の代、寛永九年(1632)に移転を完了し、この時に寺門を構えた。
当初は赤坂日枝神社別当寺である山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となるに及び、東叡山寛永寺末となった。
目青不動尊を安置する不動堂には座高1メートル余りの青銅製で寛永十九年(1642)正月十一日の銘がある御前立像がある。
2、関東三十六不動霊場十七番(持堅姿童子)札所、瀧轟山 明王院 満願寺別院等々力不動尊、御本尊 大聖不動明王(秘仏)
当山の不動尊は役の行者の御作になる。
役の行者は修験道の開祖で、大和を中心に山岳修験の行を極めていたが、その行の中で不動明王を刻まれた。
以来、大和にあって大きな霊験で尊崇を集めていた。
平安時代の末、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人の夢にこのお不動様のお告げがあり「武蔵野國、調布の陵に結縁の地がおる。永くその地に留まり衆生を済度せん。」とおしゃった。上人が武蔵野國に入ると、夢に見たのと同じ渓谷があり、錫杖で岩を穿つと、そこから清らかな滝が溢れ、その水しぶきの中に金色に輝く三十六童子が現れた。
上人はその中央に、捧持していたお不動様を安置され、それ以来千年間、等々力の滝、不動尊利剣の滝として修行者に大利益をもたらしつつ今日に受け継がれている。
本寺の満願寺は真言宗智山派で致航山感応院満願寺と称す。文明二年(1470年)定栄和上の開山。本尊は弘法大師御作の大日如来。境内の一言地蔵は日本三体地蔵の一つ。
3、関東三十六不動霊場十八番(利車毘童子)札所、泰叡山 瀧泉寺目黒不動尊、御本尊 不動明王
開基は、天台座主第三祖・慈覚大師円仁。
大同3年(808)大師十五歳の時、師の広智阿闍梨に伴われて比叡山へ登る途中、目黒の地に立ち寄り、その夜に不動明王の霊夢を感じ、自らその尊像を彫刻して安置したのにはじまる。
大師は比叡山へ登って伝教大師最澄の弟子となり天台の教義を研究されていたが、承和五年(838)唐に渡り求法の旅を続ける事十年。或る日、長安の青龍寺に詣でて本尊の不動明王の尊像を拝すると、かって目黒の霊夢に現れた御姿に酷似しているのに驚き、不思議な奇瑞に感涙咽んだといわれる。
帰朝して伝灯大法師位を授けられ、天台座主第三祖となったが、その後再び目黒の地に下り、堂宇を建設した。大師が「大聖不動明王心身安楽呪願成就滝泉長久」と棟札に書かれたことを以って滝泉寺となずけた。