(三)福建着港
大使の一行は他の友船と離れて、海上に在ること卅四日にして、八月十日に、唐の福州長溪縣赤岸鎭の海口に到着した。長溪縣は大體に於て今の福建省霞浦縣の地に當る。赤岸鎭とは今の霞浦縣の西郊に近く赤岸溪といふ河がある。その河畔に在つたものと想はれる。その附近の海口を赤岸港といふ。赤岸とはこの附近一帶赤土にて樹木少なき故に、かく名付けたのであらう。この方面は福建地方でも尤も海中に突出して居り、從つて明の嘉靖時代にも、倭冦が頻繁に出沒した所である。
一體唐時代に、日本船は多く揚子江沿岸に出入した。江蘇の揚州(今の淮揚道江都縣)とか、蘇州(今の蘇常道呉縣)とかが、日本船出入の要津であつた。大師の作られた、「福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」の中に、
建中(西暦七八〇―七八三)以往ノ入朝ノ使ノ船ハ、直ニ楊蘇ニ着ヒテ漂蕩ノ苦シミ無シ。とある通りであつた。錢塘江口の明州や越州(今の浙江省會稽道紹興縣)へも、隨分日本船が出入した。宋時代になると、この浙江沿岸の方が、支那と日本朝鮮との交通の門戸と確定した。
然るに福建方面は、從來餘り日本と交渉がない。長溪縣へ日本船の入港したるは、恐らく今囘が最初であらう。大師の便乘した第一船も、勿論揚子江口か、錢塘江口を目的としたのであらうが、風波の爲に、この南邊に到着した譯である。この長溪縣は邊鄙の小縣とて不便多く、更に地方長官(福州觀察使)所在地の福州へ廻航を命ぜられ、我が遣唐大使の一行は赤岸鎭を後に、福州に到着したのは、その年の十月三日のことである。
支那來航の外國船に貢舶と市舶との區別がある。貢舶とは外國の入貢船のことで、之に對しては支那官憲の取扱も鄭重で、その舶載せる貨物には關税を徴收せぬ。市舶とは貿易を目的にする外國船で、その貨物に對しては、所定の關税を徴收する。貢舶市舶の區別は、主として明代の記録に見えて居るが、事實としては唐・宋時代から、この區別が行はれて居つた。我が遣唐大使が、從來何等縁故のない地方へ入港した爲め、福建の官憲から種々煩細なる取調べを受け、殊に市舶同樣の取扱を受けんとした。「福州ノ観察使ニ与フル為ノ書」の中に、今囘の待遇が從前に比して苛酷なる點を述べて、不平の意を漏らしてあるが、かかる行違ひの結果で、誠に已を得ざる次第と申さねばならぬ。
我が大使一行の福建滯留は意外に長引いた。赤岸鎭到着後約三月に及ぶも、入國上京の許可に接せぬ。これには地方官憲から、事件を中央政府に報告して、その指揮を仰ぐ爲めに要する日數もあり、殊に當時生憎福建の觀察使が更迭中で、自然事務が遲滯する事情もあつた。大師はこの空しき滯留を非常に煩悶せられ、その「福建州觀察使に与えて入京する啓」に、
「居諸とどまらず、歳とし我われと与ならず。。何ぞ厚く国家の憑あつらえを荷なって空しく矢の如くなるの序を擲げうつことを得んや。このゆえにこの留滯をなげいて早く京に達せんことを貪る(『性靈集』卷五)」。
と申述べて、熱心に入京求法の許可を催促されて居る。かくて十一月の三日に、始めて入京の許可を得、遣唐大使以下我が大師を加へて二十三人だけ、福州から長安に發向いたし、その以外のものは、當分福州に滯在して、明年の三四月に、大使一行が長安から明州に到着する頃に、明州へ廻航することとなつた。
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