蓮の花について・・6
密教の曼荼羅上のシンボルとしての蓮の花もあります。
密教辞典では「密教では(蓮華を)「理」の表徴として胎蔵界を意味して「智」の金剛界を表現する「月輪」に対する。・・・(胎蔵曼荼羅の蓮華部院について)如来の大悲の徳で三部のうち蓮華部に当たる。四智では妙観察智で衆生の心性は蓮華のように泥にも染まず本来清浄である意を覚らせるのが目的。」としてあります。
胎蔵曼荼羅の観音院について栂野祥雲は「観音院は三部(佛部、金剛部、蓮華部)の中では蓮華部に当たるが故に秘蔵記ではこれを蓮華部院ともいふ。・・中央の観自在菩薩は妙観察智の解脱道を表したので恰も汚泥中にありてその汚泥に染まない蓮華のような清浄の本心が衆生の
心中にあることを観察してその心蓮を開かしめんとの本誓に住する尊であるから左手に合蓮を持ち右手を以てこれを開く姿勢をしておられる・・」としています。
曼荼羅の諸尊が蓮華に坐しておられる根拠は大日経に出てきます。大日経第五秘密曼荼羅品に「一切如来の座と及び諸仏の智子(菩薩)とには悦意の妙蓮華なり。世間に吉祥なりと称す。縁覚と諸の声聞とは所謂辺智なれば當に知るべし、敷くところの座は芰荷(きか、ひし・はす)と青蓮の葉なり。世界の諸天神は梵衆を以て初となす。赤色の鉢曇(パドマ)華なり。彼を称して座の王となす。此れより降るには所応の如く念じてその地分に居らしめよ」とあり、これを大日経疏第十五巻で解説して「世人が蓮華を以て吉祥清浄と為し、能く衆心を悦可するがごとく、今秘蔵の中にも亦、大悲胎蔵妙法蓮華を以て最深秘吉祥となす。一切加持の法門の身、この蓮台に坐するなり。然れども世間の蓮に亦無量の差降あり。所謂大小開合色相浅深各々不同なり。この如く心地の華台にも亦権実開合等の差あり、乃至もし佛ならば謂く當に八葉の芬陀梨に作すべし、白蓮華なり。その華開敷して四方に布せしむ。若し菩薩ならばまたこの華座(芬陀梨、白蓮華)になせ。而して華をして半敷ならしめ、極めて開かしむることなかれ。その華、あるいは白、あるいは黄、あるいは宝蓮華になすこと皆得。ただし赤色なるは世間の花にして下にあるなり。もし縁覚声聞ならば當に華葉の上に坐せしむるべし、或は俱勿頭(Kumuda)華の上に坐せしめよ。浅識の伝にはもって一辺の智となすなり。これはこれ青蓮華なり、これはただし青色の蓮にしてしかもさらに別に青蓮華種あり、この類に非ざるなり。ないしもし浄居の諸天ないし初禅の梵天等はみな赤蓮華の中に坐す、その色純赤なり、世称して座王となすなり。もし欲界の天および地居等は各々その位に随って用いてこれを表す。帝釈の像のごときはすなわち須弥山王を描き、山神は山上に坐し、水神は水上に坐し、城神は城の上に坐す。この如く甚だ多し、意をもって待つべし」。このように佛菩薩の覚りの程度に依り座る蓮の花の種類を指定しています。
密教の曼荼羅上のシンボルとしての蓮の花もあります。
密教辞典では「密教では(蓮華を)「理」の表徴として胎蔵界を意味して「智」の金剛界を表現する「月輪」に対する。・・・(胎蔵曼荼羅の蓮華部院について)如来の大悲の徳で三部のうち蓮華部に当たる。四智では妙観察智で衆生の心性は蓮華のように泥にも染まず本来清浄である意を覚らせるのが目的。」としてあります。
胎蔵曼荼羅の観音院について栂野祥雲は「観音院は三部(佛部、金剛部、蓮華部)の中では蓮華部に当たるが故に秘蔵記ではこれを蓮華部院ともいふ。・・中央の観自在菩薩は妙観察智の解脱道を表したので恰も汚泥中にありてその汚泥に染まない蓮華のような清浄の本心が衆生の
心中にあることを観察してその心蓮を開かしめんとの本誓に住する尊であるから左手に合蓮を持ち右手を以てこれを開く姿勢をしておられる・・」としています。
曼荼羅の諸尊が蓮華に坐しておられる根拠は大日経に出てきます。大日経第五秘密曼荼羅品に「一切如来の座と及び諸仏の智子(菩薩)とには悦意の妙蓮華なり。世間に吉祥なりと称す。縁覚と諸の声聞とは所謂辺智なれば當に知るべし、敷くところの座は芰荷(きか、ひし・はす)と青蓮の葉なり。世界の諸天神は梵衆を以て初となす。赤色の鉢曇(パドマ)華なり。彼を称して座の王となす。此れより降るには所応の如く念じてその地分に居らしめよ」とあり、これを大日経疏第十五巻で解説して「世人が蓮華を以て吉祥清浄と為し、能く衆心を悦可するがごとく、今秘蔵の中にも亦、大悲胎蔵妙法蓮華を以て最深秘吉祥となす。一切加持の法門の身、この蓮台に坐するなり。然れども世間の蓮に亦無量の差降あり。所謂大小開合色相浅深各々不同なり。この如く心地の華台にも亦権実開合等の差あり、乃至もし佛ならば謂く當に八葉の芬陀梨に作すべし、白蓮華なり。その華開敷して四方に布せしむ。若し菩薩ならばまたこの華座(芬陀梨、白蓮華)になせ。而して華をして半敷ならしめ、極めて開かしむることなかれ。その華、あるいは白、あるいは黄、あるいは宝蓮華になすこと皆得。ただし赤色なるは世間の花にして下にあるなり。もし縁覚声聞ならば當に華葉の上に坐せしむるべし、或は俱勿頭(Kumuda)華の上に坐せしめよ。浅識の伝にはもって一辺の智となすなり。これはこれ青蓮華なり、これはただし青色の蓮にしてしかもさらに別に青蓮華種あり、この類に非ざるなり。ないしもし浄居の諸天ないし初禅の梵天等はみな赤蓮華の中に坐す、その色純赤なり、世称して座王となすなり。もし欲界の天および地居等は各々その位に随って用いてこれを表す。帝釈の像のごときはすなわち須弥山王を描き、山神は山上に坐し、水神は水上に坐し、城神は城の上に坐す。この如く甚だ多し、意をもって待つべし」。このように佛菩薩の覚りの程度に依り座る蓮の花の種類を指定しています。