(日本三大実録・貞観九年867五月)「廿六日、八幅の四天王像五鋪を造り各一鋪、伯耆・出雲・石見・隠岐・長門等の国に下す。国司に下知して曰く、彼の国西極堺に在り新羅に近し。警備の謀、當に他国に異なる。宜しく尊像に帰命し勤精修法し賊心を調伏し灾変を消却せしむべし。仍て須らく地勢高敞、賊境瞼瞰の道場を點択すべし。若し素道无ければ新たに善地を択し仁祠を建立し尊像を安置すべし。国分寺及び部内練行精進の僧を請ひ、各々當に像前に最勝王経四天王護国品に依り、昼は経巻を転じ、夜は神呪を誦し、春秋二時別一七日清浄堅固にして法に依りて薫修すべし。」
(天皇は清和天皇。この二年後に「貞観の入寇」がおこり、貞観十一年(869年)6月、新羅の海賊が艦二艘に乗り四天王像を安置してなかった筑前国那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げています。
金光明最勝王経四天王護国品はここにあります。