Q,善根を施すことに囚われていると世が乱れるのではないか?
A, 梁の武帝は仏教に凝って侯景に世を奪われたというが、それを悔やんではいないであろう。お釈迦様も王子の位を棄てて出家されて我らを導いてくださっているがこれを間違いとは言わないであろう。ただ今の人は世間を棄てるということはできないであろうから聖徳太子のように俗世の生活を通じて仏法興隆に努めるべきである。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・17
問、あまりに善根に心を傾けたるゆえに世もおさまりやらぬ由を申す人あり。
答、聖教の中に痴福(つまらぬ福)は三生の怨(あだ)と申すことあり(大慧普覺禪師語録) 。その故は愚痴にして有漏の善をのみ作して一生をすごすほどに心地を明むることあたわず。これ一生の怨なり。この有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生じて富貴の果報を得るゆえに世間の愛着もいよいよ深く罪業の薫力も亦重し。たとひ罪業をばさしも作らぬ人なれども政務に心を乱したり。嬉戯に暇のなきゆえに正法を行ずることはなし。これ二生の怨なり。前世の有漏の善根は今生に受け尽しぬ。曠劫の無明の薫力はいよいよ重なれる故に、また次生には悪趣に堕す。この故に痴福は三生の怨と申すなり。しかれども提謂経等のなかに五戒、十善等の有漏の善根を修すべきことを説きたまへり。(十善戒は、阿含経・生経・非華経・佛本行集経・大般若波羅密多経・仁王護国般若波羅蜜多経・華厳経・涅槃経・大日経・守護国界主陀羅尼経等にあり)。これを人天教(五戒を持せば人間に生まれ,十善を行えば天に生まれるという教え)と名ずく。宿善の拙きゆえに正法を行ぜよと如来すすめ給ふとも、かなふまじき人をば先ず彼が願ふところの人天の果報を得しめて漸らく引導して正法に入らしめむためにしばらく有漏の善根を修すべきことを教へたまへり。しかれば末代のありさま今生の祈り、来世の福のためとて善を修したまふもありがたきことなればあながちに制止もなすべきにあらねども、同じくは三生の怨となさぬやうに勤行せられればこれ如来の本意なり。
いまだ心地を悟らざる人はたとひ種々の善をなせども皆有漏の善となるなり。教-禪の宗師、同じく先ず心地を明めて後に諸善をば修せよとすすめたまへるはこの意なり。天台大師六即の位を立て(魔訶止観摩巻一に「若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。
此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。」とある。
①理即とは、理の上で一切衆生は悉ことごとく仏性を具しているが、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位。
②名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位。
③観行即とは、名字を知り、その教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位。
④相似即とは、見思けんじ・塵沙じんじゃの二惑を断じ、悟りに相似する六根清浄の位。
⑤分真即とは、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明だけを残してすべての迷いを滅し、仏性を分々にあらわしていく位。
⑥究竟即とは、元品の無明を断尽した円教究竟の極位。)
修証の品を判じたまへる中に、妙解開けて後、観行即の初品の位に到るまでも、他人の為に法を説き,自行の為に経呪を読誦するをも道の障りとてこれを制す。(第二即の「名字即」において妙道が開けて後も第三即の観行即に到りて己心に佛性をかんじてもその初品に至るまでは法を説いたり経呪を読誦することを制限された。)第二品の位に到りて初めて読経誦呪を許し、第三品に到りてすこしき説法利生の分を許せり。(観行即の第三品の位にいたりて初めて説法をゆるした)。第四品に到りて始めて六度を兼行し(観行即の第四品の位にいたりてはじめて六波羅蜜を兼ねて修行して衆生の悟りをたすけ)、第五品に到りて正しく六度を行じて衆生を利益すべしと見えたり(観行即の第五品の位にいたりてはじめて六波羅蜜を行じて衆生を利益せよといっている)円悟禪師の心要に悟性勧善の文とて載せられたるも、まず心性をさとりてしかる後に善根をば修せよとの由なり。心地を悟らざる人は所作の善根、ただ有為の果報なるがゆえに出離の要道とはならず。たまたま法を説き、人を度すれども愛見の大悲(衆生に対する愛着の情によって生じる慈悲の心をいい,維摩経問疾品ではこれは煩悩を断っていないものであるから捨離すべきであるとされる.)に堕するがゆえに真実の化導にはあらず。之を以て有漏の善根をば制して正法を行ずることをすすむるなり。・・・人界に生を受くる人、貴賤異なりと云ふとも皆是前世の五戒十善戒の薫力なり。その中に福分も人に勝れ、威勢も世に超え給へる人は前世に五戒十善戒をよくたもちてその上に諸々の善根を作し給へる故哉。・・昔より国王大臣として天下を統領しまします人、仏法を信敬し給へること、異国本朝少なからず。その中に或ひは仏法を成就せむがために仏法をあがめ給へる人あり、あるひは仏法を興隆せむがために世法をつかさどりたまへる人もあり。世法の為に仏法を信じ給ふ人も悪玉悪臣となりてすべて仏法を信ぜざる人よりはまさり給へりといえども、一身を保ちて夢中の栄華に誇り、万民を撫でて暫時の飢寒を免れしめたるばかりにて、上下遂に輪廻を免れず。されば三皇五帝(三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神をさし、五帝とは、司馬遷の『史記』の挙げる、黄帝・顓頊(せんぎょく)(暦法の発明)・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)の天子をさすとされる)のときも仏法流布の世ならねば羨むべきことにあらず。しからば則ち仏法の為に世法を興行し万民を引導して同じく仏法に入らしめ給ふはすなわち是れ在家の菩薩哉。・・本朝の聖徳太子十七条の憲法の初めに上下和睦帰敬三宝と載せ給へるも政道をおこなふことは仏法のためなるよしなり。さればにや御在生の時、一天四海政化になびきしのみにあらず、七百年の今に至るまで誰か彼の遺躅を仰がざる。・・・異朝の梁の武帝、侯景がために世を奪はれ給へることは余りに善根に心を傾けて政道を忘れ給ひしゆえなりとそしれる人あり。釈迦如来は浄飯王の太子として王位を継ぎ給ふべかりしを遁れ出でて雪山に入りて飢寒の苦を受け給ひしをば仏事に心を傾けて王位の栄華を失ひたまへりとそしりたてまつらむや。梁の武帝も王位に居せじとてたびたび遁れ出で給ひしを臣下どもの追い返し奉る。‥かの御意をさぐりたてまつるに何ぞ侯景に世を奪われ給ふことをあさましと思ひ給はむや。・・今の世のありさまを見奉るに、釈迦如来、梁の武帝のごとく一向に世間を捨てたまふことはかなふべからず。ただ聖徳太子のごとく仏法の為に世法を起されしことは,殊勝のおんことなるべし。・・
A, 梁の武帝は仏教に凝って侯景に世を奪われたというが、それを悔やんではいないであろう。お釈迦様も王子の位を棄てて出家されて我らを導いてくださっているがこれを間違いとは言わないであろう。ただ今の人は世間を棄てるということはできないであろうから聖徳太子のように俗世の生活を通じて仏法興隆に努めるべきである。
夢中問答集(無窓疎石)より・・・17
問、あまりに善根に心を傾けたるゆえに世もおさまりやらぬ由を申す人あり。
答、聖教の中に痴福(つまらぬ福)は三生の怨(あだ)と申すことあり(大慧普覺禪師語録) 。その故は愚痴にして有漏の善をのみ作して一生をすごすほどに心地を明むることあたわず。これ一生の怨なり。この有漏の善によりて次の生に欲界の人天に生じて富貴の果報を得るゆえに世間の愛着もいよいよ深く罪業の薫力も亦重し。たとひ罪業をばさしも作らぬ人なれども政務に心を乱したり。嬉戯に暇のなきゆえに正法を行ずることはなし。これ二生の怨なり。前世の有漏の善根は今生に受け尽しぬ。曠劫の無明の薫力はいよいよ重なれる故に、また次生には悪趣に堕す。この故に痴福は三生の怨と申すなり。しかれども提謂経等のなかに五戒、十善等の有漏の善根を修すべきことを説きたまへり。(十善戒は、阿含経・生経・非華経・佛本行集経・大般若波羅密多経・仁王護国般若波羅蜜多経・華厳経・涅槃経・大日経・守護国界主陀羅尼経等にあり)。これを人天教(五戒を持せば人間に生まれ,十善を行えば天に生まれるという教え)と名ずく。宿善の拙きゆえに正法を行ぜよと如来すすめ給ふとも、かなふまじき人をば先ず彼が願ふところの人天の果報を得しめて漸らく引導して正法に入らしめむためにしばらく有漏の善根を修すべきことを教へたまへり。しかれば末代のありさま今生の祈り、来世の福のためとて善を修したまふもありがたきことなればあながちに制止もなすべきにあらねども、同じくは三生の怨となさぬやうに勤行せられればこれ如来の本意なり。
いまだ心地を悟らざる人はたとひ種々の善をなせども皆有漏の善となるなり。教-禪の宗師、同じく先ず心地を明めて後に諸善をば修せよとすすめたまへるはこの意なり。天台大師六即の位を立て(魔訶止観摩巻一に「若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。
此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。」とある。
①理即とは、理の上で一切衆生は悉ことごとく仏性を具しているが、未だ正法を聞かず、全く修行の徳がない位。
②名字即とは、初めて仏法の名字を見聞し、一切の法は皆仏法であると知る位。
③観行即とは、名字を知り、その教えのままに修行して、己心に仏性を観ずる位。
④相似即とは、見思けんじ・塵沙じんじゃの二惑を断じ、悟りに相似する六根清浄の位。
⑤分真即とは、四十二品ある無明惑のうち、最後の元品の無明だけを残してすべての迷いを滅し、仏性を分々にあらわしていく位。
⑥究竟即とは、元品の無明を断尽した円教究竟の極位。)
修証の品を判じたまへる中に、妙解開けて後、観行即の初品の位に到るまでも、他人の為に法を説き,自行の為に経呪を読誦するをも道の障りとてこれを制す。(第二即の「名字即」において妙道が開けて後も第三即の観行即に到りて己心に佛性をかんじてもその初品に至るまでは法を説いたり経呪を読誦することを制限された。)第二品の位に到りて初めて読経誦呪を許し、第三品に到りてすこしき説法利生の分を許せり。(観行即の第三品の位にいたりて初めて説法をゆるした)。第四品に到りて始めて六度を兼行し(観行即の第四品の位にいたりてはじめて六波羅蜜を兼ねて修行して衆生の悟りをたすけ)、第五品に到りて正しく六度を行じて衆生を利益すべしと見えたり(観行即の第五品の位にいたりてはじめて六波羅蜜を行じて衆生を利益せよといっている)円悟禪師の心要に悟性勧善の文とて載せられたるも、まず心性をさとりてしかる後に善根をば修せよとの由なり。心地を悟らざる人は所作の善根、ただ有為の果報なるがゆえに出離の要道とはならず。たまたま法を説き、人を度すれども愛見の大悲(衆生に対する愛着の情によって生じる慈悲の心をいい,維摩経問疾品ではこれは煩悩を断っていないものであるから捨離すべきであるとされる.)に堕するがゆえに真実の化導にはあらず。之を以て有漏の善根をば制して正法を行ずることをすすむるなり。・・・人界に生を受くる人、貴賤異なりと云ふとも皆是前世の五戒十善戒の薫力なり。その中に福分も人に勝れ、威勢も世に超え給へる人は前世に五戒十善戒をよくたもちてその上に諸々の善根を作し給へる故哉。・・昔より国王大臣として天下を統領しまします人、仏法を信敬し給へること、異国本朝少なからず。その中に或ひは仏法を成就せむがために仏法をあがめ給へる人あり、あるひは仏法を興隆せむがために世法をつかさどりたまへる人もあり。世法の為に仏法を信じ給ふ人も悪玉悪臣となりてすべて仏法を信ぜざる人よりはまさり給へりといえども、一身を保ちて夢中の栄華に誇り、万民を撫でて暫時の飢寒を免れしめたるばかりにて、上下遂に輪廻を免れず。されば三皇五帝(三皇とは、伏羲(ふくぎ、狩猟を始めた)・神農(しんのう、農耕を始めた)・燧人(すいじん、火食を始めた)の三神をさし、五帝とは、司馬遷の『史記』の挙げる、黄帝・顓頊(せんぎょく)(暦法の発明)・帝嚳(こく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)の天子をさすとされる)のときも仏法流布の世ならねば羨むべきことにあらず。しからば則ち仏法の為に世法を興行し万民を引導して同じく仏法に入らしめ給ふはすなわち是れ在家の菩薩哉。・・本朝の聖徳太子十七条の憲法の初めに上下和睦帰敬三宝と載せ給へるも政道をおこなふことは仏法のためなるよしなり。さればにや御在生の時、一天四海政化になびきしのみにあらず、七百年の今に至るまで誰か彼の遺躅を仰がざる。・・・異朝の梁の武帝、侯景がために世を奪はれ給へることは余りに善根に心を傾けて政道を忘れ給ひしゆえなりとそしれる人あり。釈迦如来は浄飯王の太子として王位を継ぎ給ふべかりしを遁れ出でて雪山に入りて飢寒の苦を受け給ひしをば仏事に心を傾けて王位の栄華を失ひたまへりとそしりたてまつらむや。梁の武帝も王位に居せじとてたびたび遁れ出で給ひしを臣下どもの追い返し奉る。‥かの御意をさぐりたてまつるに何ぞ侯景に世を奪われ給ふことをあさましと思ひ給はむや。・・今の世のありさまを見奉るに、釈迦如来、梁の武帝のごとく一向に世間を捨てたまふことはかなふべからず。ただ聖徳太子のごとく仏法の為に世法を起されしことは,殊勝のおんことなるべし。・・