いろいろ見てみると悪人が世にはばかれるのは一瞬の間だけと仏典に書いてあることが分かりました。
紹介します。
◇ ◇ ◇
舎利仏阿毘曇論に「云何が過去業なる、もし業の生じてすでに滅せるこれを過去業となずく。
云何が未来業なる、もし業の生ぜざる、いまだ出でざるこれを未来業となずく。云何が現在業なる、もし業の生じていまだ滅せざるこれを現在業となずく。」
(業をつくっておいていまだその報いをうけてないものはいつまでたっても現在業としてその業は残っているということ。)とあります。
◇ ◇ ◇
大智度論二十四に「悪を行ずる人の好処に生じ、善を行ずる人の悪処に生ず、阿難いわく「如何」と、仏のたまわく「悪人は今世の罪業いまだ熟せず、宿世の善行すでに熟す、この因縁を以っての故に今悪をなすといえどもしかも好処に生ず。善を行ずる人の悪処に生ずとは今世の熟いまだ熟せざるに過去の悪己に熟す、この因縁をもっての故にいま善をなすといえども悪処に生ず。」とあります。(佛告阿難。行惡人好處生。行善人惡處生。阿難言。是事云何。佛言。惡人今世罪業未熟。宿世善業已熟。以是因緣故。今雖為惡而生好處。或臨死時善心心數法生。是因緣故亦生好處。行善人生惡處者。今世善未熟。過世惡已熟。以是因緣故。今雖為善而生惡處。或臨死時不善心心數法生。是因緣故亦生惡處。)
すなわちたまたま悪人が栄えているように見えてもそれは過去の善行によるものであり今世の悪業の報いはいずれにせよ受けることになるというものです。中国の天台智者大師は「法華玄義」の中で「冥界で受ける結果とこの世で受ける結果がある」といっています。
いずれにせよ悪いことをしてよくなることはないということがはっきり分かり安心しました.
涅槃経獅子吼菩薩品には「聖人が正道を歩むのは重い悪業を消して軽い報いにしたいためである。」とあります。このほかにも羅漢(覚った人)は因果の連鎖を免れるかとおいうことを論じた経典もあるようです。まだよく見ていませんが・・。
無門関の「百丈野狐」という公案に
『「悟った人でも因果に落ちるのか」と問われた僧侶が、「不落因果(因果に落ちず)」と答えた。すると、500回生まれ変わっても狐のままになってしまった。
助けを求められた別の僧侶が、「不昧因果(因果を昧まさず)」と答えた。すると、たちまち悟りを開いて野狐の身を脱した』というのがあります。覚った人でも因果を自分の外の物としてとらわれてはいけない、因果そのものになり切れとのべているのです。深い内容です。
ましてや迷いの底で得意げにうごめいているものにとって因果はより強烈に襲ってくることは必定です。(百丈和尚。凡參次有一老人。常隨眾聽法。眾人退老人亦退。忽一日不退。師遂問。面前立者復是何人。老人云。諾某甲也。於過去迦葉佛時。曾住此山。因學人問。大修行底人還落因果。也無。某甲對云。不落因果。五百生墮野狐身。今請和尚。代一轉語貴。脫野狐遂問。大修行底人還落因果。也無。師云。不昧因果。老人於言下大悟。作禮云。某甲已脫野狐身。住在山後。敢告和尚。乞依亡僧事例。師令無維那白槌告眾。食後送亡僧。大眾言議。一眾皆安涅槃堂。又無人病。何故如是。食後只見師領眾。至山後巖下。以杖挑出一死野狐。乃依火葬。師至晚上堂。舉前因緣。黃蘗便問。古人錯祇對一轉語。墮五百生野狐身。轉轉不錯。合作箇甚麼。師云。近前來與伊道。黃蘗遂近前。與師一掌。師拍手笑云。將謂。胡鬚赤更有赤鬚胡。無門曰。不落因果。為甚墮野狐。不昧因果。為甚脫野狐。若向者裏著得一隻眼。便知得。前百丈贏得。風流五百生。)
こういう理論上でみるといろいろありますが実際に因果の連鎖で人生に苦悩している真っ最中の者、生の因果を生きているものにとってはどうやって因果の苦悩から脱出できるかは大問題です。
紹介します。
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舎利仏阿毘曇論に「云何が過去業なる、もし業の生じてすでに滅せるこれを過去業となずく。
云何が未来業なる、もし業の生ぜざる、いまだ出でざるこれを未来業となずく。云何が現在業なる、もし業の生じていまだ滅せざるこれを現在業となずく。」
(業をつくっておいていまだその報いをうけてないものはいつまでたっても現在業としてその業は残っているということ。)とあります。
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大智度論二十四に「悪を行ずる人の好処に生じ、善を行ずる人の悪処に生ず、阿難いわく「如何」と、仏のたまわく「悪人は今世の罪業いまだ熟せず、宿世の善行すでに熟す、この因縁を以っての故に今悪をなすといえどもしかも好処に生ず。善を行ずる人の悪処に生ずとは今世の熟いまだ熟せざるに過去の悪己に熟す、この因縁をもっての故にいま善をなすといえども悪処に生ず。」とあります。(佛告阿難。行惡人好處生。行善人惡處生。阿難言。是事云何。佛言。惡人今世罪業未熟。宿世善業已熟。以是因緣故。今雖為惡而生好處。或臨死時善心心數法生。是因緣故亦生好處。行善人生惡處者。今世善未熟。過世惡已熟。以是因緣故。今雖為善而生惡處。或臨死時不善心心數法生。是因緣故亦生惡處。)
すなわちたまたま悪人が栄えているように見えてもそれは過去の善行によるものであり今世の悪業の報いはいずれにせよ受けることになるというものです。中国の天台智者大師は「法華玄義」の中で「冥界で受ける結果とこの世で受ける結果がある」といっています。
いずれにせよ悪いことをしてよくなることはないということがはっきり分かり安心しました.
涅槃経獅子吼菩薩品には「聖人が正道を歩むのは重い悪業を消して軽い報いにしたいためである。」とあります。このほかにも羅漢(覚った人)は因果の連鎖を免れるかとおいうことを論じた経典もあるようです。まだよく見ていませんが・・。
無門関の「百丈野狐」という公案に
『「悟った人でも因果に落ちるのか」と問われた僧侶が、「不落因果(因果に落ちず)」と答えた。すると、500回生まれ変わっても狐のままになってしまった。
助けを求められた別の僧侶が、「不昧因果(因果を昧まさず)」と答えた。すると、たちまち悟りを開いて野狐の身を脱した』というのがあります。覚った人でも因果を自分の外の物としてとらわれてはいけない、因果そのものになり切れとのべているのです。深い内容です。
ましてや迷いの底で得意げにうごめいているものにとって因果はより強烈に襲ってくることは必定です。(百丈和尚。凡參次有一老人。常隨眾聽法。眾人退老人亦退。忽一日不退。師遂問。面前立者復是何人。老人云。諾某甲也。於過去迦葉佛時。曾住此山。因學人問。大修行底人還落因果。也無。某甲對云。不落因果。五百生墮野狐身。今請和尚。代一轉語貴。脫野狐遂問。大修行底人還落因果。也無。師云。不昧因果。老人於言下大悟。作禮云。某甲已脫野狐身。住在山後。敢告和尚。乞依亡僧事例。師令無維那白槌告眾。食後送亡僧。大眾言議。一眾皆安涅槃堂。又無人病。何故如是。食後只見師領眾。至山後巖下。以杖挑出一死野狐。乃依火葬。師至晚上堂。舉前因緣。黃蘗便問。古人錯祇對一轉語。墮五百生野狐身。轉轉不錯。合作箇甚麼。師云。近前來與伊道。黃蘗遂近前。與師一掌。師拍手笑云。將謂。胡鬚赤更有赤鬚胡。無門曰。不落因果。為甚墮野狐。不昧因果。為甚脫野狐。若向者裏著得一隻眼。便知得。前百丈贏得。風流五百生。)
こういう理論上でみるといろいろありますが実際に因果の連鎖で人生に苦悩している真っ最中の者、生の因果を生きているものにとってはどうやって因果の苦悩から脱出できるかは大問題です。