Q、お経はお釈迦さまのお説きになったものではないという説がありますが、これは仏教の根底がひっくりかえる説では?
A,現在、大乗非仏説論を学問的意味を有するとして主張する学者はほとんど無いようです。現在の仏教学で大乗非仏説論を云々しないのは、学問的には論ずるのが無意味だからです。江戸時代に冨永仲基が大乗非佛説をとなえたときは各宗派に衝撃を与えたといわれますが、それはほとんどの経典が歴史上の『お釈迦様』ひとりのおとなえになったものによるという前提に立っていたためです。
大乗仏教では、『法』を覚したはすべて仏陀であり、釈尊は仏陀の一人であるとします。お釈迦様御自身も「法灯明」といわれています。「『法』をよりどころとせよ」と最初からおっしゃっています。更に大乗起信論では大乗(覚り)とは衆生の心であるとまで主張しています。密教では金剛界曼荼羅の成身会に賢劫の千仏が描かれていますが、これは過去現在未来の三世にわたる無数の佛を現わしています。つまり仏様は過去だけでなく現在も未来も無数にいらっしゃり「法」も過去現在未来永劫に説かれ続けているということを表わしているのです。また、大日経や金剛頂經などははじめから大日如来の所説とされ、さらに法身としての大日如来は時間を超えて過去現在未来、常に説法されているとされます。最初からお釈迦様の所説が密教経典であるとはしてないのです。
このように見ていくと経典を歴史上のお釈迦様おひとりがお説きなったものかどうかということは意味がありません。「法」が修行者の上にあらわれてその都度、経典になっていったということが大切なことなのです。
因みに、「パーリ仏典」がお釈迦様のお言葉を伝えていると主張されることがあるようですが、お釈様の言語は中部インドの「中期マガダ語」であったと推定され、西インド系統のパーリ語ではないようです。また成立時期も紀元前後といわれ漢訳よりも新しいものもあるようです。従って文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているとは言えないとされているようです。
要は宗教を文献学で論じても無意味だということです。無数の人々が営々として大小乗経典を伝えてきたその求道心・衆生済度の燃えるような願いが貴重だということです。
A,現在、大乗非仏説論を学問的意味を有するとして主張する学者はほとんど無いようです。現在の仏教学で大乗非仏説論を云々しないのは、学問的には論ずるのが無意味だからです。江戸時代に冨永仲基が大乗非佛説をとなえたときは各宗派に衝撃を与えたといわれますが、それはほとんどの経典が歴史上の『お釈迦様』ひとりのおとなえになったものによるという前提に立っていたためです。
大乗仏教では、『法』を覚したはすべて仏陀であり、釈尊は仏陀の一人であるとします。お釈迦様御自身も「法灯明」といわれています。「『法』をよりどころとせよ」と最初からおっしゃっています。更に大乗起信論では大乗(覚り)とは衆生の心であるとまで主張しています。密教では金剛界曼荼羅の成身会に賢劫の千仏が描かれていますが、これは過去現在未来の三世にわたる無数の佛を現わしています。つまり仏様は過去だけでなく現在も未来も無数にいらっしゃり「法」も過去現在未来永劫に説かれ続けているということを表わしているのです。また、大日経や金剛頂經などははじめから大日如来の所説とされ、さらに法身としての大日如来は時間を超えて過去現在未来、常に説法されているとされます。最初からお釈迦様の所説が密教経典であるとはしてないのです。
このように見ていくと経典を歴史上のお釈迦様おひとりがお説きなったものかどうかということは意味がありません。「法」が修行者の上にあらわれてその都度、経典になっていったということが大切なことなのです。
因みに、「パーリ仏典」がお釈迦様のお言葉を伝えていると主張されることがあるようですが、お釈様の言語は中部インドの「中期マガダ語」であったと推定され、西インド系統のパーリ語ではないようです。また成立時期も紀元前後といわれ漢訳よりも新しいものもあるようです。従って文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているとは言えないとされているようです。
要は宗教を文献学で論じても無意味だということです。無数の人々が営々として大小乗経典を伝えてきたその求道心・衆生済度の燃えるような願いが貴重だということです。