大師の時代(榊亮三郎)その10
然らば、いつの時代から、密教が佛教の中に入ることになつたかと云ふと、若し佛教が、其の名目に於ても、實質に於ても、果して、迦毘羅城の一王子の出現以前に於て皆無であり、又其の出現を待つて、始めて出來たものならば、密教が佛教の中に入つたは釋迦佛の出現以後即ち西暦紀元前第六世紀乃至第五世紀の時代より、後であると云はねばならぬが、それは、各自の見方如何によることで、吾輩は、佛教を以て、單に、或る時代、或る方處に於ける印度思想の存在の一形式と見做たものであるから、若し佛教と云ふ名稱だけの起源なら、密教と云ふ名稱とは、文字が異同あるから、名稱の異同を立つるも、不賛成ではないが、實質内容の詮議となると、共に均しく、印度思想と云ふ、大潮流の中にあるので其の潮流が、平風恬波洋々として流るときを、假に小乘佛教と名づくれば、風に煽られ、岩に激して、波浪澎湃としてゐる部分を、大乘佛教と名づけ、瀑布となり廻瀾となつた部分を、假に密教とすると云ふ風に、印度思想の變遷を觀察するが、吾輩の見方で、密教が、佛教に入つたとか、婆羅門教が佛教に入つたとか云ふやうな見方は、私の賛成出來ぬ見方である、若し夫れ、西洋の一派學者の云ふごとく、婆羅門教が佛教に入つて、佛教が墮落したのが密教であるなど云ふは、一顧の價値だになき論で、かゝる論者は、先づ婆羅門教とは如何なる教か、佛教とは、如何なる教かと云ふことの定義を下して見るがよいと思ふ、同時に、南方所傳の佛典には、果して、論者の信ずるごとく、比較的原始佛教の俤を傳へたものであつて、毫も密教的信仰が、其の中に發見出來ぬか否やを、研究したら、かゝる議論は出來ぬ筈であると、私は信じます、今日日本に傳つて居る密教には、瑜伽の哲理と修行は、基礎になつて居る然るに、瑜伽の行と見るべきものは、昔から佛教の中に存在して、其の大乘たると、小乘たるとに論なくこれによりて、神變自在を得んとするのである、かの地想觀水想觀などの、觀行は、即ち、是れで、地想觀ならば、土塊が、小さい堆積を作り、地大即ち、土地と云ふ、元素の形状を、己の心に思ひ浮べ、又一心をこれに集中する爲め、其の名を念誦する、同時に、己の身體は、これと同一體であると觀じる、かくの如くして、久しきに亘ると、觀行圓熟して、目を閉づるも、目を開くも、地大の、形色が、心目に浮び來るが、かく見えるものを、相即ち(Nimittaニミツタ)と云ふのである、かゝる状態に立ち來ると、天に翔り、地に入りても、水に沒しても、一向差支へなく、所謂自在を得たものとなるのである、水想觀でも、風想觀でも同一である、其の他、佛教に通じて、瑜伽の修行や理論が基礎となつて居る點が多い、密教の行者が、自己の對して居る本尊と、自己と同一體であると見るは是れ、瑜伽の理論に基づいたもので、瑜伽の哲學の目的は、能觀と所境相分と見分との區分を沒却するに外ないのである、しかし、密教の理論的方面には、必ずしも、瑜伽の哲學のあるばかりでなく、もと/\、密教は、前にも云つたごとく印度思想の一大潮流が、或る時代に於て密教となつて現はれたものであるから、種々の哲學が其の中にある、聲字實相論などは、毘陀の常住不滅を唱導する彌曼差ミーマーンサ哲學と、其の歸趣を一にするものと吾輩は信ずる、又、即事而眞の説と、吠檀多哲學の最後の安心である、余は梵天なりと云ふ論と、如何なる差違があるか又密教の中には數論的分子もある、この分子の多く入つた密教は、今日もなほ、印度に殘つて居る、自性と神我との關係を、男女の關係に見て、象徴的の解釋をすれば、ともかく、文字通り解釋すると、淫猥極まる宗教となりて居る、所謂怛土羅タントラ派の左行派ヴァーマ、チヤーリンである、これに反するものは右行派ダクシナーチヤーリンである、其の他布字ニヤーサの法にしても、種字ビーヂヤにしても、曼拏羅マンダラにしても、陀羅尼ダラニーにしても、今日日本に存在して居る密教の中に於て、發見するごときものは、印度の「タントラ」文學中には、發見出來ぬが、其の大體の歸趣は、相似て居る。
密教の始祖は、印度に於て、龍樹菩薩となつて居るが、これに師事して、密教を、七百有餘年間一人で、護持し、金剛智三藏に傳へたのは、龍智阿闍梨耶と云ふことになつて居る、一體、龍樹菩薩は、密教のみならず、種々の、佛教の教義の始祖となつて居らるゝ、又哲學宗教以外の藝術で、例へば、錬金術とか、醫學とかの始祖又は中興者となつて居らるゝ事は、諸君も、御存知のことゝ思ふが、吾輩は、以上の外に、龍樹菩薩は、Rati-※(セディラ付きC小文字)※(マクロン付きA小文字)straラテイ、シヤーストラ と云つて、男女愛染の規則を載せた文學の書を大自在天の啓示によりて、書かれたことを、先年、或る書物を見たときに發見したことがある、佛教者から云ふと、龍樹菩薩は、自分等ばかりの教祖であるやうに思はるゝが、實は、古代印度の諸學術の研究者が、仰いで以て、祖師とする所で是れ又、密教の教祖として、最も適當な資格を具して居られた方である、其の生存の時代は、義淨三藏の南海寄歸傳に據れば、婆多婆漢那シヤータヴァハナ王朝の王で、市演得迦と云ふ名の王の時代に居られたことが、明白であるが、其の市演得迦と云ふは宋の求那跋摩の譯した龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈とある中の、禪陀迦と同名であるが、如何なる音を寫したものであるか判然しない、今まで、種々、其の音譯を原語に還源しやうとした人があるが、一として、根據のある結果を得ない、從つて、其の王の名から、龍樹の年代を定むることは、不可能であるが、龍樹の弟子の龍智は、七百年生存し、大師在唐の時、醴泉寺で、般若三藏や牟尼室利三藏に此の事につきて問はれたとき、今猶生存せらるゝとの解答を得たことから、推すと、龍智の師であつた龍樹は、大師在唐の當時、即ち西暦紀元八百五年より以前、七百有餘年前、即ち、第二世紀以前の人と云はねばならぬ、龍樹の時代から、佛教には、密教的思想が、多く、加はつたに相違なからうが、密教の理論、并に形式に關する部分で今日梵文が存在して居るものを見ると其の用語が、非常に典雅で格調の正しく、到底紀元後二世紀以前のものとも見えぬから、其の以後次第に出來たもので、完成せられた時代は、隋唐の時代に先つこと、あまり遠くはないと云ふのは、吾輩の意見である、其の後、印度の方では、密教は、ます/\流布し西藏の佛教史家「ダーラナトハ」に據れば、西暦紀元八百四十年の頃、恰も弘法大師が歸朝後四十年後に、今の孟加拉ベンゴール地方に王朝を建てた「パーラ」王朝などの時代には、非常の隆盛を極はめたと云ふことである、たゞに唐代ばかりでない、宋の時代でも、印度では、密教の流布が盛んであつたと見えて、印度から支那へ來た譯師は、大抵、密教の高僧で、西暦一千〇一年から一千〇三十年鶴悉那グワズニの「マームード」が、疾風の如く、印度の西北部を荒らして廻はるときなどは、支那の方へ印度から、逃れて來た密教の高僧が甚だ多かつた、つまり、印度から支那へ打寄せた密教の波は、隋唐以前からもあつたが、其の最高潮に達した時代は、唐の玄宗皇帝の時代から始まり、武宗皇帝の會昌年間に及ぶ間で、密教の教徒は、善無畏三藏や、金剛智三藏、不空三藏の功を多とせねばならぬ、此の密教が、最高潮に達し、事實上、大唐天子の宗教となつた時代に大師が入唐せられたのである、惠果阿闍梨が、大師を見て、我先知汝來、相待久矣と云つて笑を含んで喜ばれたと、大師が、請來目録の序に書かれてあるが、惠果の云はれた意味は種々に解釋出來る、例へば、大師が徳宗皇帝の貞元二十年の臘月に長安城に入られて、惠果に見えられたは、翌年の春であるから、惠果が、大師の入城のことを、前から傳聞して知つて居つたと云はれたつもりか、それとも、大師が日本に居つた時から、入唐の志があつて、其の志は交通不便の時代とは云へ兩國の高僧名僧が、互に其の名聲を傳聞し得た時代であるから、或は、惠果が大師の入唐すべきを豫め知つて居つて、心待ちに居られたとも解釋出來るが、又何事も支那の弟子分の國の一である日本からは、從來、法相宗を學びに來た、律宗をとりに來た、三論も、華嚴も、持つて往つたに、三論や華嚴の極致とも云ふべき、密教が、現に大唐天子の歸依する所となり、支那に隆盛を極めて居るに、日本からは、一向これを學びに來ないとは、如何した譯であらうと、不審を抱かれて、誰か來さうなものと思つて、心待ちに待つて居られたときに、大師が、來られたから、我先知汝來、相待久矣と云はれたとも解釋が出來る、此の解釋によると惠果の所謂汝とは必ずしも、大師自身に限らない、何人でも、密教の修行者と、云ふ意味になるから、或は眞言宗の方々には、曲解であると思はるゝことであらうが、私は、大師の時代から推して、寧ろ、最後の意味に解釋したいのである大師が惠果の會下につきて、始めて灌頂壇に上つたのは長安に入つてから、僅に六ヶ月後である、して見ると、六ヶ月間に、會話などは、すこしも差支なかつたと見える、今日の日本に於ける英語獨逸語の學者は、日本で充分の素養のある人でも、其の國に留學六ヶ月間にして、會話に差支へなくなるには、非常の努力を要する、中には、一年もかゝつて、まだ滿足に出來ぬ人が多い、大師當時の日本の大學では、支那語の教授法は甚だ有効であつたやうに思はれる。
然らば、いつの時代から、密教が佛教の中に入ることになつたかと云ふと、若し佛教が、其の名目に於ても、實質に於ても、果して、迦毘羅城の一王子の出現以前に於て皆無であり、又其の出現を待つて、始めて出來たものならば、密教が佛教の中に入つたは釋迦佛の出現以後即ち西暦紀元前第六世紀乃至第五世紀の時代より、後であると云はねばならぬが、それは、各自の見方如何によることで、吾輩は、佛教を以て、單に、或る時代、或る方處に於ける印度思想の存在の一形式と見做たものであるから、若し佛教と云ふ名稱だけの起源なら、密教と云ふ名稱とは、文字が異同あるから、名稱の異同を立つるも、不賛成ではないが、實質内容の詮議となると、共に均しく、印度思想と云ふ、大潮流の中にあるので其の潮流が、平風恬波洋々として流るときを、假に小乘佛教と名づくれば、風に煽られ、岩に激して、波浪澎湃としてゐる部分を、大乘佛教と名づけ、瀑布となり廻瀾となつた部分を、假に密教とすると云ふ風に、印度思想の變遷を觀察するが、吾輩の見方で、密教が、佛教に入つたとか、婆羅門教が佛教に入つたとか云ふやうな見方は、私の賛成出來ぬ見方である、若し夫れ、西洋の一派學者の云ふごとく、婆羅門教が佛教に入つて、佛教が墮落したのが密教であるなど云ふは、一顧の價値だになき論で、かゝる論者は、先づ婆羅門教とは如何なる教か、佛教とは、如何なる教かと云ふことの定義を下して見るがよいと思ふ、同時に、南方所傳の佛典には、果して、論者の信ずるごとく、比較的原始佛教の俤を傳へたものであつて、毫も密教的信仰が、其の中に發見出來ぬか否やを、研究したら、かゝる議論は出來ぬ筈であると、私は信じます、今日日本に傳つて居る密教には、瑜伽の哲理と修行は、基礎になつて居る然るに、瑜伽の行と見るべきものは、昔から佛教の中に存在して、其の大乘たると、小乘たるとに論なくこれによりて、神變自在を得んとするのである、かの地想觀水想觀などの、觀行は、即ち、是れで、地想觀ならば、土塊が、小さい堆積を作り、地大即ち、土地と云ふ、元素の形状を、己の心に思ひ浮べ、又一心をこれに集中する爲め、其の名を念誦する、同時に、己の身體は、これと同一體であると觀じる、かくの如くして、久しきに亘ると、觀行圓熟して、目を閉づるも、目を開くも、地大の、形色が、心目に浮び來るが、かく見えるものを、相即ち(Nimittaニミツタ)と云ふのである、かゝる状態に立ち來ると、天に翔り、地に入りても、水に沒しても、一向差支へなく、所謂自在を得たものとなるのである、水想觀でも、風想觀でも同一である、其の他、佛教に通じて、瑜伽の修行や理論が基礎となつて居る點が多い、密教の行者が、自己の對して居る本尊と、自己と同一體であると見るは是れ、瑜伽の理論に基づいたもので、瑜伽の哲學の目的は、能觀と所境相分と見分との區分を沒却するに外ないのである、しかし、密教の理論的方面には、必ずしも、瑜伽の哲學のあるばかりでなく、もと/\、密教は、前にも云つたごとく印度思想の一大潮流が、或る時代に於て密教となつて現はれたものであるから、種々の哲學が其の中にある、聲字實相論などは、毘陀の常住不滅を唱導する彌曼差ミーマーンサ哲學と、其の歸趣を一にするものと吾輩は信ずる、又、即事而眞の説と、吠檀多哲學の最後の安心である、余は梵天なりと云ふ論と、如何なる差違があるか又密教の中には數論的分子もある、この分子の多く入つた密教は、今日もなほ、印度に殘つて居る、自性と神我との關係を、男女の關係に見て、象徴的の解釋をすれば、ともかく、文字通り解釋すると、淫猥極まる宗教となりて居る、所謂怛土羅タントラ派の左行派ヴァーマ、チヤーリンである、これに反するものは右行派ダクシナーチヤーリンである、其の他布字ニヤーサの法にしても、種字ビーヂヤにしても、曼拏羅マンダラにしても、陀羅尼ダラニーにしても、今日日本に存在して居る密教の中に於て、發見するごときものは、印度の「タントラ」文學中には、發見出來ぬが、其の大體の歸趣は、相似て居る。
密教の始祖は、印度に於て、龍樹菩薩となつて居るが、これに師事して、密教を、七百有餘年間一人で、護持し、金剛智三藏に傳へたのは、龍智阿闍梨耶と云ふことになつて居る、一體、龍樹菩薩は、密教のみならず、種々の、佛教の教義の始祖となつて居らるゝ、又哲學宗教以外の藝術で、例へば、錬金術とか、醫學とかの始祖又は中興者となつて居らるゝ事は、諸君も、御存知のことゝ思ふが、吾輩は、以上の外に、龍樹菩薩は、Rati-※(セディラ付きC小文字)※(マクロン付きA小文字)straラテイ、シヤーストラ と云つて、男女愛染の規則を載せた文學の書を大自在天の啓示によりて、書かれたことを、先年、或る書物を見たときに發見したことがある、佛教者から云ふと、龍樹菩薩は、自分等ばかりの教祖であるやうに思はるゝが、實は、古代印度の諸學術の研究者が、仰いで以て、祖師とする所で是れ又、密教の教祖として、最も適當な資格を具して居られた方である、其の生存の時代は、義淨三藏の南海寄歸傳に據れば、婆多婆漢那シヤータヴァハナ王朝の王で、市演得迦と云ふ名の王の時代に居られたことが、明白であるが、其の市演得迦と云ふは宋の求那跋摩の譯した龍樹菩薩爲禪陀迦王説法要偈とある中の、禪陀迦と同名であるが、如何なる音を寫したものであるか判然しない、今まで、種々、其の音譯を原語に還源しやうとした人があるが、一として、根據のある結果を得ない、從つて、其の王の名から、龍樹の年代を定むることは、不可能であるが、龍樹の弟子の龍智は、七百年生存し、大師在唐の時、醴泉寺で、般若三藏や牟尼室利三藏に此の事につきて問はれたとき、今猶生存せらるゝとの解答を得たことから、推すと、龍智の師であつた龍樹は、大師在唐の當時、即ち西暦紀元八百五年より以前、七百有餘年前、即ち、第二世紀以前の人と云はねばならぬ、龍樹の時代から、佛教には、密教的思想が、多く、加はつたに相違なからうが、密教の理論、并に形式に關する部分で今日梵文が存在して居るものを見ると其の用語が、非常に典雅で格調の正しく、到底紀元後二世紀以前のものとも見えぬから、其の以後次第に出來たもので、完成せられた時代は、隋唐の時代に先つこと、あまり遠くはないと云ふのは、吾輩の意見である、其の後、印度の方では、密教は、ます/\流布し西藏の佛教史家「ダーラナトハ」に據れば、西暦紀元八百四十年の頃、恰も弘法大師が歸朝後四十年後に、今の孟加拉ベンゴール地方に王朝を建てた「パーラ」王朝などの時代には、非常の隆盛を極はめたと云ふことである、たゞに唐代ばかりでない、宋の時代でも、印度では、密教の流布が盛んであつたと見えて、印度から支那へ來た譯師は、大抵、密教の高僧で、西暦一千〇一年から一千〇三十年鶴悉那グワズニの「マームード」が、疾風の如く、印度の西北部を荒らして廻はるときなどは、支那の方へ印度から、逃れて來た密教の高僧が甚だ多かつた、つまり、印度から支那へ打寄せた密教の波は、隋唐以前からもあつたが、其の最高潮に達した時代は、唐の玄宗皇帝の時代から始まり、武宗皇帝の會昌年間に及ぶ間で、密教の教徒は、善無畏三藏や、金剛智三藏、不空三藏の功を多とせねばならぬ、此の密教が、最高潮に達し、事實上、大唐天子の宗教となつた時代に大師が入唐せられたのである、惠果阿闍梨が、大師を見て、我先知汝來、相待久矣と云つて笑を含んで喜ばれたと、大師が、請來目録の序に書かれてあるが、惠果の云はれた意味は種々に解釋出來る、例へば、大師が徳宗皇帝の貞元二十年の臘月に長安城に入られて、惠果に見えられたは、翌年の春であるから、惠果が、大師の入城のことを、前から傳聞して知つて居つたと云はれたつもりか、それとも、大師が日本に居つた時から、入唐の志があつて、其の志は交通不便の時代とは云へ兩國の高僧名僧が、互に其の名聲を傳聞し得た時代であるから、或は、惠果が大師の入唐すべきを豫め知つて居つて、心待ちに居られたとも解釋出來るが、又何事も支那の弟子分の國の一である日本からは、從來、法相宗を學びに來た、律宗をとりに來た、三論も、華嚴も、持つて往つたに、三論や華嚴の極致とも云ふべき、密教が、現に大唐天子の歸依する所となり、支那に隆盛を極めて居るに、日本からは、一向これを學びに來ないとは、如何した譯であらうと、不審を抱かれて、誰か來さうなものと思つて、心待ちに待つて居られたときに、大師が、來られたから、我先知汝來、相待久矣と云はれたとも解釋が出來る、此の解釋によると惠果の所謂汝とは必ずしも、大師自身に限らない、何人でも、密教の修行者と、云ふ意味になるから、或は眞言宗の方々には、曲解であると思はるゝことであらうが、私は、大師の時代から推して、寧ろ、最後の意味に解釋したいのである大師が惠果の會下につきて、始めて灌頂壇に上つたのは長安に入つてから、僅に六ヶ月後である、して見ると、六ヶ月間に、會話などは、すこしも差支なかつたと見える、今日の日本に於ける英語獨逸語の學者は、日本で充分の素養のある人でも、其の國に留學六ヶ月間にして、會話に差支へなくなるには、非常の努力を要する、中には、一年もかゝつて、まだ滿足に出來ぬ人が多い、大師當時の日本の大學では、支那語の教授法は甚だ有効であつたやうに思はれる。