福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・4

2024-01-04 | 諸経

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・4

・二水難。

「若爲大水所漂。稱其名號即得淺處」。

「若爲大水所漂」とは、難を挙ぐ。「稱其名號」は善なり。上の難に合して即ち是機なり。「即得淺處」とは應なり。此の中に「大水」とは小水は難にあらざればなり。「所漂」とはたとひ大水なりとも、若し船筏に乗る時は溺るる事なし。故に若し流れ漂ふ時は、難となることをあらはす。「即得」とは「即」は速疾の義にして、速やかに其の霊験あることを云なり。「淺處」とは深き水は命の為の難なり。浅き水は難に非ざることをあらはす。應験傳に曰く、昔海鹽縣の人、同伴と共に水に溺る。此の人、観音の名號を稱るに思はざるに一つの石を得て而も、困倦して眠るが如くなりし夢に、両人船に乗りて喚入ると見て、眼を開けば實に夢中の如し。送て岸に至らしめて、後人も船も見へず(已上)。此の類甚だ多し。具に記するに遑あらず。若し観行の釈ならば、又三あり。一には果報の水。謂く地獄の中には鑊湯・沸屎・灰河・鹽海あり。此の中に鑊湯とは観佛三昧經の第五に曰く、阿鼻地獄に十八の沸屎地獄、十八の鑊湯地獄、十八の灰河地獄あり。鑊湯地獄には十八の鑊(かなへ)あり。一一の鑊各方四十由旬なり。七重の鐵の網あり、沸る鐵其の中に滿てり。五百の羅刹(人を食ふ鬼なり)大なる石の炭をおこして其の鑊の下を焼くに、火焔相次いで六十日が間消ゆることなし。鑊上に沸騰すること星の如くして、化して火の輪と成て本の鑊の中に入る。若し人、佛の禁戒を破て殺生して神を祠り、或は血肉を噉はんが為に、山野を梵殺して衆生を殺し、或は生ながら生類を燖(ゆび・ゆがく)き、又は火に焼く。此等の罪人、臨終に至て身煩り、心悶へて大小便を失して自ら覚へず。其の身熱すること湯の如く、或は冷なること水の如し。病人の念はく、若し大に温なる水の中に入り手沐浴せば快からんと、時に獄卒變じて其が僕と成て手に湯瓫を擎げて其の前に来る。罪人大いに喜んで、心にこの瓫(つぼ)を愛するに即命終して鑊の中に生じて忽ち消爛て骨のみを餘せり獄卒即ち鐵の叉を以て撩出せば鐵の狗即ち来たりて是を食て嘔吐して地に在るに、尋で復活る。獄卒駆逐して又鑊に入れしむ。鑊を畏れて樹に上れば、其樹皆劔にして骨を断て肉を截て又鑊の中に落つ。殺生の罪の故に一日一夜に恒河沙の生、恒河沙の死を經て、其の苦太切なり。若し地獄の苦盡ては畜生の中に入て猪羊鶏狗と成りて載られ片れ煮れて常に短命にして、八千万歳畜生の中に在り。後に人中に生じて短命多病の報を受て、無量劫を經て後善知識に遭て五戒を受け、菩提心を發して六度を行ず(已上)。

 

     沸屎とは人曰く、無間地獄に十八の沸屎地獄あり。八十由旬の鐵城十八あり。一一の鐵城に十八の隔あり。一一の隔の中に四壁に皆百億万の劔樹あり。地刀刃の如し。刃の厚さ三尺、其の刀の上に於て百千の蒺藜(しつり・ハマビシ)あり。稱計すべからず。其の間に無数の蟲あり。一一の蟲に百千の觜あり。一一の觜の頭に皆百千の蛕蟲(回虫)あり。此の諸の蛕蟲、口より熱屎を吐く。沸こと融銅の如くにして城郭の内に満てり。罪人彼こに堕し、已んぬれば衆の蟲すひ食ふ。東西に走る時、骨を削て髄にとほる。飢渇に逼られて熱く沸る屎を飲めば、蛕蟲、蛆虫(うじむし)其の舌根を唼ふ。一日一夜に九十億の生、九十億の死を經て、地獄の罪畢んぬれば人中貧賤の家に生れて、他に繫属して自在なること能はず。或は悪王に値ひ、邪見の主に属して種々の悪事其の身を逼。癭瘇(ようしょう・こぶはれもの)悪瘡を衣服の如くす。宿世に法を聞し善の因縁の故に善知識に遇て出家学道して羅漢と為りて三明六通(三明は過去・現在・未来にかかわる智慧で、六通は三明に天耳通・他心通・神足通を加えたもの。)を得、八解脱(有色観諸色解脱・内無色想観外諸色解脱・浄解脱身作証具足住解脱・空無辺処解脱・識無辺処解脱・無所有処解脱・非想非非想処解脱・想受滅身作証具足住解脱)を具す(観無量寿経にあり。)已上。

     灰河とは、人曰く、灰河地獄は長さ二百由旬廣さ十二旬あり。下に利なる刀あり。上に劔の樹あり。中に満る猛火、厚さ十二丈なり。又融灰を以て其の火の上を覆ふこと厚さ四十丈。諸の劔樹の間に羅刹あり。手に利劔を執て来て害さんとす。罪人恐れて走て灰河に赴けば、足を上下するに、刀を以て足を傷る。劔樹より衆の刀雨り下て、罪人の毛の孔より入る。羅刹叉を以て其の心をかけ出せば、即ち地に躃(たふれ)て、悶死し尋で復活る。飢渇に逼らるるが故に口を張って食せんとすれば、劔の林より刀ふり下て、舌の頭より入て腹を劈き心を裂て悶絶して死す。是は人間にありし時、無慚愧にして父母師長善友兄弟姉妹の物を偸盗し恩を報ぜんと云意なく、師の教に順ず、唯利を得んことを思ふて、殃禍を識ざる者、臨終の時に氣心腹に満ちて喘息して大きに苦しむ。時に思はむ、若し微火を得て我が身をあたためば、快からんと獄卒即ち其の妻子と化して、手に火爐を持ち熱灰を上に覆て罪人の所に至る。罪人是を見て心に大に歓喜す。即ち氣絶て此の地獄に生ず。一日一夜に五百億の生、五百億の死を受けて、苦しむこと限りなし。後に人中に生じて貧愚下賤なり(已上)。鹹海とは大論の十六に曰く、罪人熱鐵の刺ある林より出て、遥に河水の清涼にして快楽なるべきを見て、走て其の中に入れば即變じて熱沸る鹹水となる。罪人の皮肉須臾に離散じて、骨のみ水中に立てり。獄卒即ち叉を以て鉤出して岸の上に著く。此の人は宿し水中の魚鼈の属を傷殺し、或は人及び諸の衆生を水中に推落し沈め殺し、或は熱湯に入れ、或は冰れる水に投じ、此等の悪業に由て、此の苦を受く(已上)。復次に餓鬼の中に苦の軽き者は時食に飽くことあれば大力の鬼あって、刀杖を持して駆逼りて海を塞ぎ河を填ることあり。畜生は或は獣、或は蟲、洪水に流され高濤に淘れて、患へを致し、死に至ることあり。人中の水難は知ぬべし、若し水難起こる時は上第二禪に至るまで滉瀁(こうよう・水の広く深いさま)として岸なし。其の間の有情豈逃るべけんや。二には悪業の水。謂く、諸の悪業の善業を破壊するは皆是悪業の水なり。中に就て貪欲の業は染着すること深ければ別して愛河と云ふ。三には煩悩の水。大經(南本)の二十一に曰く、煩悩の駛河能縁覚を漂す(大般涅槃經卷第二十一光明遍照高貴徳王菩薩品之三「煩惱駛河亦復如是。能漂縁覺是故菩薩深觀煩惱猶如駛河。深難得底故名爲河。邊不可得故名爲大」)。(已上)。同三十に曰く、有河洄澓(さかまく河あり)沒衆生 無明所盲(盲ひらして)不知出(出ることを知らず)如來自渡(自度して)能渡彼(能く彼を渡す) 是故稱佛大船師(已上)。若し經に約して釈せば、二乗の人は三十七の道品を修して、是を筏として生死の険浪を載る。若し初二三果に至るは淺處の如し。煩悩漸く滅するが故に。無学の果を彼岸と為す。縁覚の習氣を侵すを淺處とし、佛の正智俱に盡すを彼岸とす。別教は第二住に至って四住(見思)の惑を断ずるを淺處とし、初地に無明を断ずるを彼岸とす。圓教は十信位の中の六根清浄を淺處とし、初住に入るを彼岸とす。又初去は是分分の淺處なり。佛位に至って無明悉く盡るは是彼岸なり。

 

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