「高原 耕昇先達様
さる22日の関東霊場・大山不動尊さまの巡拝では、何かとお世話になり
有難うございました。私自身、今回の巡礼では、自分が日ごろ意識して
いなかった「老年」を、まざまざ、と自覚させられましたことと、お不動さま
のご加護を、実感でき、素晴らしい体験をしました。これこそ、「奇蹟」が有ったのだと初めて体感したことです。
それは、
①集合場所を間違え,講員の皆さんに、御迷惑をかけてしまったことです。直前まで、伊勢原と脳裏に会ったのですが、電車に乗ると,秦野と錯覚したことです。之は、その昔、新聞記者のころ、大山に取材に行った時、秦野から、出発したことがあり、この、体験が、甦り、確信して仕舞ったのですが高橋さんからの電話で伊勢原で集合していることがわかり伊勢原に急いだしだいでした。この電話がなければいつまでも秦野で待っているところでした。
②大山阿夫利神社に行くため、ケーブルに乗ろうとした瞬間、大事な杖を、大山寺に忘れてしまったことに気ずきました。急ぎ、引き返して、無事戻ることができたということがありました。
③大山阿夫利神社参拝の後、修験道の様なみちづたいに下山した時です。急峻で、下を見ると、千仞の谷が窺がえ、足がすくみ、恐怖に見舞われることもしばしばでした。道のりの三分の二あたりからは、もう、両足の力の感覚が無くなり、宙を浮いているような足取りでした。いつ転落してもおかしくないと思いました。しかし、鈴木ご夫妻に、私の体を支えて戴いたり、中塚さんに後ろから見守ったりしていただいたお陰で無事下山到達地に着くことができたのです。何とも言えない感動でした。
④下山後は関口ご夫妻に心配して戴き、腰や両足の、筋肉痛の、張り薬を、関口さんが、直々に、私の体に張って戴きました。まさにイエスのサマリア人の譬えを思わせられました。
こうして、私の存在が、講員の皆さんにご迷惑をかけてしまったにも関わらづ、
寛容で親切な扱いをして頂いて、感謝以外の何物でもありません。また、「老年」を自覚させられお不動さまのお諭しと感じざるを得ません。
そして、この日体得した大きなことは、高原先達様のお言葉でした。
お仏様に、祈り,お願み、拝する時に、「切迫した気持ちがあるのか!」「一心不乱
になつて拝んでいるのか!」確かに、、日常性に流されるまま,汲々として、物事
に当たってきたのではないか。と痛棒でたたかれた思いがしました。
之も、私にとっては、「奇蹟」が、起きたのだと思はざるをえませんでした。
この、「奇蹟」を大事に受け止めて、これから、「切迫感」を意識しながら,努め
過ごしてゆきたいと思っています。
長駄文になりました。済みません。感謝の意をお伝えすべくメールを綴った次第です。
角田 光一郎」
さる22日の関東霊場・大山不動尊さまの巡拝では、何かとお世話になり
有難うございました。私自身、今回の巡礼では、自分が日ごろ意識して
いなかった「老年」を、まざまざ、と自覚させられましたことと、お不動さま
のご加護を、実感でき、素晴らしい体験をしました。これこそ、「奇蹟」が有ったのだと初めて体感したことです。
それは、
①集合場所を間違え,講員の皆さんに、御迷惑をかけてしまったことです。直前まで、伊勢原と脳裏に会ったのですが、電車に乗ると,秦野と錯覚したことです。之は、その昔、新聞記者のころ、大山に取材に行った時、秦野から、出発したことがあり、この、体験が、甦り、確信して仕舞ったのですが高橋さんからの電話で伊勢原で集合していることがわかり伊勢原に急いだしだいでした。この電話がなければいつまでも秦野で待っているところでした。
②大山阿夫利神社に行くため、ケーブルに乗ろうとした瞬間、大事な杖を、大山寺に忘れてしまったことに気ずきました。急ぎ、引き返して、無事戻ることができたということがありました。
③大山阿夫利神社参拝の後、修験道の様なみちづたいに下山した時です。急峻で、下を見ると、千仞の谷が窺がえ、足がすくみ、恐怖に見舞われることもしばしばでした。道のりの三分の二あたりからは、もう、両足の力の感覚が無くなり、宙を浮いているような足取りでした。いつ転落してもおかしくないと思いました。しかし、鈴木ご夫妻に、私の体を支えて戴いたり、中塚さんに後ろから見守ったりしていただいたお陰で無事下山到達地に着くことができたのです。何とも言えない感動でした。
④下山後は関口ご夫妻に心配して戴き、腰や両足の、筋肉痛の、張り薬を、関口さんが、直々に、私の体に張って戴きました。まさにイエスのサマリア人の譬えを思わせられました。
こうして、私の存在が、講員の皆さんにご迷惑をかけてしまったにも関わらづ、
寛容で親切な扱いをして頂いて、感謝以外の何物でもありません。また、「老年」を自覚させられお不動さまのお諭しと感じざるを得ません。
そして、この日体得した大きなことは、高原先達様のお言葉でした。
お仏様に、祈り,お願み、拝する時に、「切迫した気持ちがあるのか!」「一心不乱
になつて拝んでいるのか!」確かに、、日常性に流されるまま,汲々として、物事
に当たってきたのではないか。と痛棒でたたかれた思いがしました。
之も、私にとっては、「奇蹟」が、起きたのだと思はざるをえませんでした。
この、「奇蹟」を大事に受け止めて、これから、「切迫感」を意識しながら,努め
過ごしてゆきたいと思っています。
長駄文になりました。済みません。感謝の意をお伝えすべくメールを綴った次第です。
角田 光一郎」