福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

お蔭はあるということ。

2014-04-07 | 法話
・「救う救わぬは如来の分限、救われる救われぬは衆生の分限」(救われるかどうかは衆生が自分で決めているにすぎない・・曽我量深)

・「For God so loved the world, that he gave his only begotten Son, that whosoever believeth in him should not perish, but have everlasting life.」(ヨハネ 3:16)


・「経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」(どういう人が覚れたり救われるのかそれは深く信じる人だ。何を深く信じるというなか、それはなかなかお蔭が現れなくてもあきらめずに修行、祈りを続ける人だ。信心を続ける人は必ずお蔭を得る・・・。 -興教大師、末代真言行者用心))


・「祈ることそれ自体がもはや結果なのである。祈祷の秘訣は自己のすべてを祈祷にうちまかせるか否かにある。結果の如何を思い煩うものには到底真の霊験は望みえない。日夜に祈って倦まなければ必ず福智円満の悉地にめぐまれ人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」(那須政隆『加地感応の原理』)

・このブログでも多くの体験談を載せています。無数の人々が救われています。

・自分も川崎大師・護国寺や四国88所・坂東・秩父・西國等いろいろなお寺に何十年來お参りして、数限りないお蔭を頂きました。自分はお蔭の塊と思っています。その時は分らなくても何十年かの後に必ずお蔭であったとわかります。とにかく続けてお参りし、信心すれば永い間にすべては好転します。保障します。
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