福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)・・・その60

2014-04-07 | 法話
第六〇課 信仰
一 天地の間に漫々と湛えている大生命の海。いつの原始むかしから湛え始め、いつの未来まで湛え続くとも判らぬ海。涯はてしも知らぬ海。あらゆるものを育みそだて、あらゆるものを生きて働かせ、あらゆるものを葬り呑んで行く海。その中のこまかい組立てを見ますと、山あり川あり、月あり星あり。国の興亡、民族の盛衰。右や左の運動もその中で行われれば、恋愛、結婚、出産、老衰の人生の過程も繰り返される。飛行機も飛べば、潜水艇も潜航している。万朶の花、菩提樹の落葉、いななく馬あれば、眠る猫あり。いちいち書き尽すに暇がありません。そして私たちもその中に生きている。大生命の海の中に游ぐ小生命の魚のように。
 これらの組立ては、いちいちに様が変り、時を経るに従って事情を違えては行くものの、その様の変りよう、事情の違いようが複雑変幻きわまりない中に、およそ一貫した根本の性質があるというのであります。海にすれば海性ともいうべきでありましょうが、大生命のことですから大生命性であります。仏教の術語では「法性ほっしょう」といっております。もっとも各宗の教義によっていろいろ違った名前がありますが、説明が混雑しますからここで使うのは「法性」の一つだけにして、あとは註に掲げておきました。
 この「法性」(法とはこの天地間のあらゆる物のこと、性とはその根本の性質。真如、実相、法界、涅槃みな同じ意義)を知れば大生命の根本性質ですから、大生命の基調になる知識にも通じられ、その中に游いでいる私たち魚にどんなに便利で気強いか知れません。それで、それを知らそうとするのが仏教の目的で、知る方法が教義であります。
 ところで、この「法性」を知る前に、大生命中のいちいちの組立てにつき、その変幻極まりない複雑な相すがたを、前に述べました因縁の法則に当てはめて相において学び取ろうとするのが、私たちの智の範囲に属する経験や知識です。しかし普通一般の知識、経験というものは、縦横複雑を極めておる天地間の無限の組立てを、有限の人間が経験知識して行くものですから、局部局部であることを免れません。そしてその真理は変っても行きます。それによっては、たった一つの疑問――自分の生き死にの疑問さえなかなか説明してくれそうもありません。それで智の方の経験や知識は漸進的になおも人類の骨折りの蓄積によって開発して行きながら、その知識経験によって現実の生活をして行きながら、一方、慧えの方の眼を使って直覚的に、大生命の根本性質すなわち「法性」を見破ってしまおうとするのであります(仏教では智慧を智と慧と判然と区別して、智は現象方面を知る精神力、慧は現象の奥の実在方面を覚る精神力とします)。それによって、まず、先に大生命海の総観的な様子を知り、私たち生の方針も見定め安心して現実生活に就こうというのであります。
 ですから智の方の知識経験も疎かには出来ませんが、その根本方針を定めるのはどうしても慧の直覚に拠らなければなりません。なぜといえば前のものは大生命海の部分的のものですし、後のものは総観的のものであります。
 総観的のものによって部分的のものを統一して行くのは順序であります。部分的のものが総観的なものを扶たすけ補って行くのが当然であります。故に私は智と慧とは人間文化発展の両眼、一を失って一だけ保って行けるものではない。直覚と知識経験とは協和し提携してはじめて両者を活きるのだと説くものであります。かの宗教と科学とは両立しないという議論なぞは、少くとも仏教には不向きなのであります。
 また、なぜ最後は「慧」の直観に拠らなければ大生命の根本性質は掴めないのか、この疑問のある方はあらゆる知識経験を使って、宇宙大生命の根本性質を突き詰めて行かれることをお勧めします。そうして行くと、なるほど最後は直観に拠らなければならない理由を発見して、この「慧」に入るのにたいへん楽であります。あとに未練なく入れます。疑問の深い傾向の方が、この根固ねがためを疎かにして宗教に入られると困難に遭遇するごとに、あとにはまだ疑問を残して来たような気がして、後髪をひかれる思いがあるでありましょうから。
 しかし仏教には一方、安楽平易な門が拓かれ、ただ信ずることによってのみ、かの「法性」の理を身に滲ますことがいくらでも出来るのであります。
 故に一応の道理を聴き置き、諸名僧知識と言われる人の人格を信じて、その教えのままに信仰に入られるのは、また賢明な行き方であります。





 前節で大生命海の根本性質を「法性」と名付け、これを知るのが大事であることまでを述べました。
 ところで面白いのはこの法性は取りも直さず私たちの肉体精神中に秘められておる仏性と一つものであることです。かの法性が私たちの肉体精神上に認められたのが仏性。大生命海中に放たれているのが法性。二つのように見えて実は一つであります。これをよく浪と海水との譬えで説明いたします。
 私たちは浪である。大生命は海水である。浪を離れて水なく、水を離れて浪はない。二つに思うのは、ただ私たちの頭の上だけの考えである。実体は離すべからざるものである。
 この事実によりますれば、この宇宙の大生命海が無限無量ならば、その浪である私たちの本体も無限無量である。出没生死に見えるのは、形の上のうねりだけである。故に、私たちが形の上の変化、すなわち、生れて、育って、成長して、死ぬ、これだけに目をつけて、本体の大生命との続きを認めなければ五、七十年の一生である。大生命と自分と、一体なるところを認め、五、七十年の一生は仮りの姿と見れば、本当の寿命は無限無量寿むげんむりょうじゅである。仏教のぎりぎり結着の話は実はこれだけであります。この外に何も別な考え方も理論もありません。そしてもし、この理が判って、その体験に生きられるなら、もう智慧とか法性とか仏性とかいう区別した話も要らないのであります。ただ毎日、生命の漂うまにまに任運にんぬん騰々として充ち満ちた生活を送るだけであります。すべての善は、われ知らずにこれを行ぎょうじてゆき、すべての悪は、われ知らずに離れ去ってゆく至福至妙の状態であります。この心境を説明するのに、人間の言葉に詰って「極楽世界」とか「三昧王三昧さんまいおうざんまい」とか、いろいろなことを言いますが、実感はもっと全部的なものでしょう。
 ところで、こう書きますと、いかにもわけはないようでありますが、実際この心境に到達した人はいくらあるでしょう。これはその心境に到達した人だけが鑑別されるだけで、それ以下のものには見当がつきません。なにしろ、血の涙の修業の後です。それで、その心境に先に到着した人が、どうか、もっと楽な方法でみんなをここへ到着せしめたい。その願いから生み出されたのが仏教です。まず元祖の釈尊が工夫し出された「四諦」「十二因縁」の法をはじめ、支那へ来ては天台大師の天台宗の教義とか、達磨大師の禅法とかいうものであります。日本では平安朝の伝教大師の日本天台、弘法大師の真言密教をはじめ、鎌倉期になって法然、親鸞、日蓮、道元らの諸祖の新興仏教の出たのもこのためであります。
 仏教を大別して、聖道門しょうどうもんと易行門いぎょうもんとに二分します。聖道門は修業的、易行門は信仰的の区別はありますが、兎に角、根本において「道どう」の存在を信じない仏教はありません。
「道」とは、かの法性と私たちの仏性と、根本において円通融合している真理のことです。宇宙の大生命と、私たちの小生命とは一体不二であるという真理のことです。それを仏教は信じさせようとするのです。但し、私たちに迷妄執着の凡心がありますから、それがこの自覚を妨げて、そのために私たちは不自由、不足に苦しみつつあるのだと仏教は説明します。
 次に宇宙の大生命は、この「道」の義を、私たちに覚らせようと、手を代え品を代え働きかけつつあるのです。それはちょうど、幼いとき家出した浮浪少年を、親がさまざまに手を尽し、迎え戻そうとする骨折りに似ていると法華経は説いております。阿弥陀如来といい、観世音菩薩というものも、実はこの働き(宇宙の大生命が「道」を私たちに覚らしめようとする働き)を指して名づけたものに過ぎません。
 私たちは、その迎え戻そうとする働きがつねに私たちの上にあるのを信ずる。これが第二段の「信」であります。

 以上、第一段および第二段の「信」を、同時に胸に持ち続けるとき、その覚りの感じがあろうがあるまいが、もはや私たちは逃れざる大生命の子であります。そして、かの大生命の帯びている自然の諸性徳は、順次に私たちの精神肉体を薫化して行くのであります。このことは、他の章でいろいろの例を以て説明してありますから、そこで実際に就いて研究して下さい。

(われわれは『信』から逃れることはできないのです。どんな人でも最後は「信」に行き着くのです。我々自身が仏様の大慈悲の海にいる以上仏様に対する「信」を持たざるを得ないのです。)
 
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