福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佛教人生読本(岡本かの子)より・・その24

2014-03-02 | 法話

第二四課 軽い考え方・重い考え方


 ものごとを軽く考えても当を得ません。重く考えても当を得ません。軽からず重からざる考え方こそ至当だと思います。
 しかし、人間の性質により、また同じ人でも時によって、ものごとを軽く考え過ぎたり、重く考え過ぎたりすることが往々にしてありがちです。ですから、誰でもその時、その時の心に注意して、心があまり軽からんとすればこれを制禦し、心があまり重く沈滞せんとする時はこれを促進させるよう努めなくてはなりません。仏教でこれを言い現すに「即処に主となれ」とか、あるいは「念々」とかいう短い言葉につづめてあります。「念々」とは一刻一刻の心を検あらためること、「即処に主となれ」とは自分の心の臨むすべての場所において、正念(正しきものの考え方)をうち建てよということであります。要するに、時に応じ場所に臨みて正当の心を持つ主となって、着々ともの事の真相を見つめ、疑念や妄想に負けないで、一歩一歩、しっかりした人生を歩めということです。
 誰か昔の偉人の言葉に、「あまり無頓着にやった仕事も本当でない、あまり凝り過ぎた仕事も本当の仕事でない」というのがあります。これは至言であると思います。
 よく誰でも「どうも考えがこんがらがってしようがない」とか、「気持ちが流れないで鬱屈する」とか言います。これを他の言葉に言い換えれば「生命が停滞して流露しない」ということになります。すなわち、心の流れによって人間の心理が一歩一歩おし進められて行き、呼吸と血液の脈動とによって肉体が新陳代謝を行い、両々相俟って自己の生存を遂げて行くところのこの大切な生命の流れは、その原動力なる心の流れと呼吸血流の遅速によって非常の影響を受けるのです。
 人間の生命の流れを、水の流れに譬えるならば、あまり水の流れが急速に過ぎれば浮んだ船を覆えし、あまり水の流れが沈滞し過ぎては、船の運行を止めてしまうように、あまりものごとを軽く考える時は生命の流れが急速に流れ過ぎて生命をして危ながらせ、遂には誤まれる方向におし進めることになり、反対に重く考え過ぎれば生命の流れをよどませてその働きを減じさせてしまうことになります。
 ちょっと考えて見ると、何も、軽く考えようが重く考えようが大したことはないと思われますが、事実は以上のような「差」が出ます。常に念々=心の検討を行い、即処に主となれ=その場、その場に正念の持ち主となって、疑念妄想を排除し、自由適確な心持ちで暮して行くことが大切だと思います。
 仏教でよく修業を積んだ人の所業を評して、「謡うたうも舞まうも法のりの声こえ」と言います。修業に修業が積み、生命の流れが過不及なしに流れている人、すなわち正念を常に保ち得ている人は、何事をしても決して過不及なしに、物事の本当のところにはずれることなく、ちゃんと当て嵌って行く。何をしても大丈夫だ。結果はすべて当処(本当のところ)に触れて行く。軽からず重からざる心の使い方。速過ぎず遅過ぎぬ生命の流れを流して行き得る妙境。こここそ、仏教の修業の目指すところであります。

(『うたうも舞うも法の声』・・・白隠禅師の坐禅和讃に「・・・況や自ら回向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり、因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 無念の念を念として 『うたうも舞うも法の声』 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり」とあります。若い時は、特に原因もないのに、時に足が地についてない感覚となることがありました。こういうときは要注意です。そのあと交通事故に巻き込まれました。しかし感覚といえども自分では制御できないことがあります。「重くも軽くもない感覚」・・・日常の健康な感覚を持てるということは大変ありがたいことです。種種の条件が満たされている証拠です。重大事案が身の回りに起こっていてもできるだけこの感覚を持てるようにしておかなければなりません。それには日々の善行の積み重ねそして日々の神仏への祈りが大切です。) 




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