福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

大乗起信論・・その31

2023-08-31 | 諸経

復た次に初發意菩薩等の所見は、深く眞如の法を信ずるをもっての故に、少分を見て、彼の色相と莊嚴等の事は、無來無去にして分齊を離れ、唯だ心によってのみ現ずるも、眞如を離れずと知る。然れども此の菩薩は猶ほ自ら分別す。未だ法身の位に入らざるをもっての故なり。若し淨心を得れば所見微妙にして其の用は轉た勝り、乃至菩薩地盡きればこれを見ること究竟す。若し業識を離るれば則ち見相なし。諸佛の法身は彼此の色相を迭いに相見することあることなきをもっての故なり。
問曰。若し諸佛法身が色相を離れれば云何んが能く色相を現ずるや。
答曰。即ち此の法身は是れ色の體なるが故に、能く色を現ずるなり。所謂る本より已來た、色心不二にして、色性は即ち智なるを以ての故に、色體は無形なり。説いて智身と名ずく。智の性は即ち色なるをもっての故に、説いて法身は一切處に遍ずと名ずく。所現の色は分齊あることなきも、心に随って能く十方世界の無量の菩薩と無量の報身と無量の莊嚴とを示して、各各差別し、皆な分齊無く、而も相い妨げざるなり。此れは心識の分別の能く知るところに非ず。眞如の自在の用の義なるをもっての故なり。
復次に同じ報身であっても初發意菩薩等の低い位の菩薩にみられる姿は彼らが自分の中の真如法を深く信じることによって現れるものなので、わずかしかみれない。それは彼らが如来身は真如と別のものではないと知っているが、この初發意菩薩等はまだ自分自身の判断に随っているからであり、法身の位にはいってないからである。もしこの初發意菩薩等が浄心を得ればその見るところも微妙となり、したがって如来の働きも前より優れたものとなるし、さらに菩薩の位が最高位に達すればその現れ方も究極のものとなる。そして如来地に入って業識の働きが完全に止まればもはや見るべき姿は現れない。すなわち諸仏の法身には互いに見るような肉身は存在しないのである。
問う、もし諸仏の法身は一切目に見えないとするとそれがなぜ目に見える特質をもって現れるのであるか?
答え、この法身は報身や応身の色形を現わすもとになるものであるから、特定の姿はないが色形をあらわすことは可能なのである。すなわち報身や応身の肉体と心とは不二でり、色体の本質は智にほかならないので、特定の形をもたない肉体の本質を智性となずけ、また智性は報身、応身としてあらわれる肉体に他ならないので法身はあらゆるところに遍在すると説く。その現わす色形は無限でるが、見る菩薩達の心に応じて十方の仏のせかいの無量の菩薩、無量の報身、無量の飾りをあらわし、それぞれ差別がある。しかも如来の身は無限定であり、その無量の身が妨げあうこともない。これは衆生の迷いの心による判断では知ることはできない。ただこれは真如のもつ自在な働きによるものに他ならない。)

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