福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論・觀業品第十七 (三十三偈)

2021-12-21 | 諸経

中論・觀業品第十七 (三十三偈)    

  (「業は皆な空にして無性、如幻、如夢、如炎・如嚮なり」というのがこの第十七品の結論)      

問曰、汝種種に諸法を破すと雖も而も業は決定して有り。能く一切衆生をして果報を受しむ。經説の如し。一切衆生は皆な業に随って生ず。惡者は地獄に入り福を修する者は天に生じ、道を行ずる者は涅槃を得。是の故に一切法は應に空なるべからず。所謂業とは

  「人、能く心を降伏し 衆生を利益せば  是を名けて慈善と為す 二世の果報の種なり。」(第一偈)

人は三毒を有し他を惱すと為す故に生を行ずるも、善者は先に自ら惡を滅す。是の故に其の心を降伏し他人を利益す。他者を利益すとは布施持戒忍辱等を行じ衆生を惱さず。是を他を利益すと名く。亦た慈善福徳と名く。亦た今世後世の樂果の種子と名く。復た次に

「大聖は二業を説く。思と思より生ずるものと。是の業の別相中に 種種に分別して説く。」(第二偈)

大聖は業に二種ありと略説す。一に思。二に思より生ずるもの。是の二業は阿毘曇中に廣説するが如し。(大毘婆沙論雜蘊第一中補特伽羅納息第三之一「無明有二種。一雜事二不雜事。復有二種。一顯事二不顯事。無明縁行亦有二種。一思業二思已業」)。

 「佛所説の思とは 所謂意業是れなり。思より生ずる所のものとは 即ち是れ身口業なり」(第三偈)

思は是れ心數法(心と相応し,心と同時に存在する種々の精神作用のこと)。諸の心數法中に能く發起して所作あるが故に業と名く。是の思に因るが故に外の身口業を起こす。餘の心・心數法に因りて所作有りと雖も但だ思を所作の本と為す。故に思を説いて業と為す。是の業、今當に相を説くべし

「身業及び口業、作と無作業、如是の四事中に 亦たは善、亦たは不善あり」(第四偈)

「用より福徳を生ず。罪の生ずるも亦た如是なり。及び思を七法と為す 能く諸業の相を了ず」(第五偈)

口業とは四種の口業なり。身業とは三種の身業なり。是の七種の業に二種の差別あり。作あると無作あるとなり。作時は作業なり、作し已りて常に隨逐して生ずるを無作業と名く。是の二種に善・不善あり。不善を不止惡と名け、善を止惡と名く。復た用より福徳を生ずるあり。施主が受者に施すが如き、若し受者受用すれば、施主は二種の福を得。一は施生より生じ、二は用より生ず。人の箭を以て人を射るがごとし。若し箭が人を殺せば二種の罪あり。一は射より生ずるもの。二は殺より生ずるもの。若し射しても殺さずんば、射者は但だ射罪を得て、殺罪は無し。是の故に偈中に罪福は用より生ずと説く。如是を名けて六種の業と為す。第七を思と名く。是の七種は即ち是れ業相を分別す。是の業に今世・後世の果報あり。是の故に決定して業あり果報あり。故に諸法は應さに空なるべからず。答曰、

「業住して報を受くるに至らば 是の業は即ち常となす。若し滅せば即ち業無し。 云何んが果報を生ぜんや」(第六偈)。

業、若し住して果報を受くるに至らば即ち是れ常となす。是の事、然らず。何以故。業は是れ生滅の相にして一念すら尚ほ住せず。何んぞ況んや果報に至をや。若し業滅すと謂はば滅せば則ち無なり。云何が能く果報をぜん。問曰

「芽等の相續して皆な種子より生じ、是より果を生ず。 種を離れて相續なし」(第七偈)

「種より相續あり。相續より果あり。先に種、後に果有りて 不斷亦不常なり」(第八偈)

 「如是に心從り 心法相續して生じ、是より果あり。心を離れて相續なし」(第九偈)

 「心より相續あり。相續より果あり。先に業、後に果ありて 不斷亦不常」(第十偈)

穀より芽あり。芽より莖葉等の相續あり。是の相續より果の生ずるあり。種を離れては相續生ずることなし。是の故に穀子より相續あり。相續より果あり。先に種、後に果あるが故に不斷亦不常なるがごとく、穀種の喩の如く、業果も亦た如是なり。初心に罪福を起こすは猶ほ穀種の如し。是の心に因りて餘の心・心數法は相續し生じ、乃至果報有り。先業後果の故に不斷亦不常なり。若し

業を離れて果報あらば則ち斷常あり。是の善業の因縁果報とは所謂

「能く福徳を成ずる者は是れ十白業道なり。二世五欲の樂は即ち是れ白業の報なり」(第十一偈)。

白とは善淨に名く。福徳の因縁を成ずとは、是の十白業道より、不殺・不盜・不邪婬・不妄語・不兩舌・不惡口・不無益語・不嫉・不恚・不邪見を生ずるなり。是を名けて善となす。身口意より是の果報を生ずとは、今世に名利を、後世には天人中の貴處に生ずるを得るなり。布施恭敬等は種種の福徳有りと雖も、略説せば則ち十善道中に攝在す。答曰く、

「若し汝が如く分別せば 其の過は則ち甚だ多し。是の故に汝が所説は義において則ち然らず」(第十二偈)

若し業と果報とは相續するを以ての故に穀子を以て喩となさば其の過甚だ多し。但し此中には廣説せざるのみ。汝穀子の喩を説くが如きは是の喩然らず。何以故。穀子は觸あり、形あり。可見にして相續あり。我れ是の事を思惟するすら尚ほ未だ此言を受けず。況んや心及び業は觸無く形無く見るべからず、生滅して住せず。相續を以てせんと欲するも是の事然らず。

復次に穀子より芽等相續有りとは滅し已って相續すると為すや、滅せずして相續すると為すや。若し穀子が滅し已って相續すと言はば則ち因なしと為す。若し穀子滅せずして而も相續せば是の穀

子より常に諸穀を生ずべし。若し如是ならば一穀子は則ち一切世間の穀を生ずべし。是の事然らず。是の故に業と果報との相續は則ち然らず。問曰、

    「今當さに復更に業と果報とに順ずるの義、諸佛・辟支佛賢聖の稱歎する所を説くべし」(第十三偈)

所謂

「不失の法は券の如く 業は負財物の如し。 此の性則ち無記なり。 分別して四種あり。」(第十四偈)「見諦に斷ぜざる所、 但だ思惟の所斷なり。是の不失法を以て 諸業は果報有り」(第十五偈)

「若し見諦所斷にして而かも業は相似に至らば則ち業を破する等 如是の過咎を得べし」(第十六偈)

「一切諸行業は相似なるも不相似なるも一界に初めて身を受くる爾の時、報獨り生ず」(第十七偈)

「如是の二種の業は 現世に果報を受く。或は言はく、報を受け已りて 而も業は猶ほ故のごとく在り、と。」(第十八偈)

「若しくは度果し已りて滅し 若しくは死已りて而して滅す。是の中に於いて有漏及び無漏を分別す」(第十九偈)

不失法は當に知るべし券の如し。業は物を取るが如し。是の不失法は欲界繋・色界繋・無色界繋亦は不繋(無漏)なり。若しは善・不善・無記を分別する中には但だ是れ無記なり。是の無記の義は阿毘曇(小乗)中に廣説す。見諦に斷ぜざる所、一果より一果に至る。中に於いて思惟の所斷なり。是を以って諸業は不失法を以ての故に果生ず。若し見諦所斷にして而も業が相似に至らば則ち業を破るの過を得。是の事阿毘曇中に廣説す。復次に不失法は一界において諸業の相似不相似の初めて受身する時、果報獨り生ず。現在の身に於いて業より更に業を生ず。是の業に二種あり。重きに随って報を受く。或は言ふ有り、是の業は受報已りても業は猶ほ在り。念念に滅せざるを以ての故に。若しくは度果し已りて滅し、若しくは死已りて滅すとは、須陀洹(預流。四向四果の最初の段階)

等は度果し已りて滅す。諸の凡夫及び阿羅漢は死し已りて而して滅す。此の中に於いて有漏及び無漏を分別すとは須陀洹等の諸賢聖よりにて有漏無漏等應に分別すべし。答曰、是の義、倶に斷常の過を離れず。是の故に亦た應に受くべからず。問曰、若し爾らば則ち業と果報と為し。答曰、

 「空なりと雖も亦た斷ならず、有なりと雖も亦た常ならず。業果報の不失、 是れを佛所説と名く」(第二十偈)

此の論の所説の義は斷常を離る。何以故。業は畢竟空にして寂滅相なり。自性は有を離る。何の法か斷ずべき、何の法は失すべき。顛倒の因縁の故に生死に往來するも亦常ならず。何以故。若し法、

顛倒より起らば則ち是れ虚妄無實なり。無實なるが故に常ならず。復次に顛倒に貪著して實相を知らざるが故に業を失せず、此是れ佛所説なりと言ふ。復次に

「諸業は本より生ぜず 定性無きを以ての故に。諸業は亦た滅せず、 其の不生なるを以ての故に。」(第二十一偈)

「若し業、有性ならば 是れ則ち名けて常と為す。不作も亦た業と名けん。 常は則ち作すべからず。(第二十二偈)

「若し不作業あらば 不作にして罪あらん。梵行を断ぜずして而も不淨の過有らん。(第二十三偈)

「是れ則ち一切 世間の語言法を破す。罪を作し及び福を作すも 亦た差別あることなし」(第二十四偈)

「若し業、決定し而して自ら性ありと言はば、果報を受け已りて 而も應に更に復た受くべし」(第二十五偈)

「若し諸の世間業は煩惱より生ぜば是の煩惱は實に非ず、 業當に何ぞ實あらんや」(第二十六偈)

第一義中には諸業は生ぜず。何以故。無性なるが故なり。不生の因縁を以ての故に則ち不滅なり。常を以ての故に則ち不滅なるには非ず。若し爾らずんば業の性は應さに決定して有なるべし。若し業、決定して有性ならば則ち是れ常と為す。若し常ならば則ち是れ不作業なり。何以故。常法は作すべからざるが故に。復次に、若し不作業あらば則ち他人の罪を作し、此人報を受け、又他人の梵行を斷じて而も此の人、罪あるべし。則ち世俗の法を破る。若し先に有ならば、冬には應さに春事を為すことを思ふべからず。春には應さに夏事を作すことを思ふべからず。如是等の過あり。復次に福を作すこと及び罪を作すことは則ち別異あることなし。布施持戒等の業を起こすを名けて福を為すと作す。殺盜等の業を起こすを名けて罪を作ると為す。若し作さずして而も業有らば則ち分別あることなし。

復次に是業若し決定有性ならば則ち一時に果報を受け已りて復應た更に受くべし。是故に汝、不失

法を以ての故に業報ありと説かば則ち如是等の過あり。

復次に若し業は煩惱より起らば是の煩惱は有ることなきを決定す。但、憶想分別によりて有なり。若し諸煩惱は實無くば業は云何んが實有らん。何以故。無性なるに因りての故に業亦た無性なり。問曰、若し諸煩惱及び業無性不實なるも今果報の身が現に有り。應に是れ實なり。

答曰、諸煩惱及び業は 是を身の因縁と説く。煩惱と諸業とは空なり。 何ぞ況んや諸身においてをや。(第二十七偈)

諸賢聖は説く、煩惱及び業は是れ身の因縁なり。是中に愛は能く生を潤し、業は能く上・中・下・好醜・貴賤等の果報を生ず。今諸煩惱及び業は種種に推求するに有ること無きことを決定す。何ぞ況んや諸身に決定果あらんや。因縁に随ふが故なり。

問曰、汝、種種の因縁を以て業及び果報を破すと雖も、而かも經に業を起こす者有りと説く。業を起こす者有るが故に業有り果報有り。説くが如し

「無明之所蔽 愛結之所縛、 而かも本の作者に於いて 不即亦不異」(第二十八偈)

無始經(無本際経)中に説かく、衆生、無明の為に覆はれ愛結に縛せられ無始生死中に往來して種種の苦樂を受く。今受者は先の作者に於いて不即是亦不異なり。若し即是ならば人は罪を作して牛形を受けん。則ち人は牛と作らず。牛は人と作らず。若し異ならば則ち業果は報を失し、無因に墮す。無因は則ち斷滅なり。是の故に、今、受者は先の作者に於いて即是ならず亦た異ならず。

答曰

「業は縁より生ぜず 非縁よりも生ぜず。是の故に則ち能く業を起すものあることなし。」(第二十九偈)

「業無く作者無くば 何ぞ業の果を生ずるあらん。若し其れ果あることなくんば 何ぞ果を受る者あらん」(第三十偈)

若し業もなく作業も無くんば何ぞ業より果報を生ずることあらんや。若し果報なくんば云何んが有果報を受くる者あらん。業に三種あり。五陰中の假名の人は是れ作者なり。是の業の善惡の處において生ずるを名けて果報と為す。若し業を起こす者すら尚ほ無くんば何ぞ況んや業有り果報及び

果報を受くる者あらんや。

問曰、汝種種に業・果報及び起業者を破すと雖も、而も今、現見に衆生は業を作し果報を受く、是の事云何。

答曰

「世尊の神通、 所作の變化人、 如是の變化人は 復た化人を變作す」(第三十一偈)

「初變化人の如き 是を名けて作者と為す、變化人の所作、 是れ則ち名けて業と為す」(第三十二偈)

「諸煩惱及び業、作者及び果報、皆な幻と夢の如し 炎の如く亦た如嚮の如し」(第三十三偈)

佛の神通力所作の化人の如き、是の化人復た化人を化作す。化人の如きは實事あることなく但だ可眼見すべきのみ。又た化人の口業説法・身業布施等、是の業、實なしと雖も而も眼見すべし。如是の生死身、作者及び業も亦た應に如是に知るべし。諸煩惱とは名けて三毒と為す。分別するに九十八使・九結・十纒・六垢等の無量の諸煩惱あり。業は名けて身口意業と為す。今世後世、分別するに善・不善・無記・苦報・樂報・不苦不樂報・現報業・生報業・後報業、如是等の無量あり。

作者を名けて能く諸煩惱業を起こし能く果報を受くる者となす。果報とは善惡業より生ずる無記の五陰に名く。如是等の諸業は皆な空にして無性、如幻、如夢、如炎・如嚮なり。

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