昔の日本人は今と大きく違い中国に対する緊張感・警戒感を国を挙げて持っていたということです。これが三度目の元寇を防いだ原因でしょう。
史料綜覧 巻五 / 弘安七年(1284)十一月一日条
一日 幕府 諸国ノ神社仏寺ニ命ジテ 異国降伏ヲ祈ラシム
後宇多天皇、幕府は時宗が四月に死去し子の北条貞時(満12歳)が執権。
ウキぺデアによると、フビライは三度目の日本侵攻を計画中で、それを日本側でも察知していたとされます。西園寺公衡『公衡公記』に「弘安六年七月二日条「(前略)但異國事、近日其聞候、今年秋可襲來之由、令申云々、就中、文永牒状ニ、以至元廿一年、發大軍可襲來之由、載之候歟、明年當其年限候條、防御候計外、不可有他事候・・」