福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その100

2019-01-08 | 四国八十八所の霊験
お大師様は弘仁7年(816)高野山に「修禅(瞑想)の一院を建立」することを上奏し勅許されます。
 今昔物語では「弘仁7年6月大師はご自身が唐でお投げになった三鈷の落ちたところを探して大和の国を歩いておられた。途中、猟師や仙人があらわれお大師様を高野山に案内した。
そこは八つの峰に囲まれた平原で巨大な松が林立しており中の一本に唐で投げた三鈷が打ちたてられていた。
猟師は高野明神、仙人は丹生明神であり大師にこの土地をさしあげるといった。」とかかれています。

松長有慶「高野山」には「・・・天地万物、すべては形を異にしていても原初の透明にすっぽりと包み込まれている。山川草木、人と鳥獣、虫も魚も一切がっさい、それぞれの存在の基体を失い、永遠の生命の根源に還ってゆく。そこではもはや時間の単位も消え去っている。瞑想、禅定、瑜伽それぞれ言葉は違っても原点は同じ。・・時間と空間の制約を取り去った、原初の一に融合することをいう。高野山はこのような瞑想をおこなうための修禅の道場であった。それが少なくとも高野山の出発点であったことは確かである。」「・・高野山では無心に五感を研ぎ澄まし宇宙の果てから忍び寄る霊気の声なき通信を体で受け止め身に付ける。こういったことに時を過ごすのにふさわしい場所だ・・」とあります。




 高野山はなぜ千数百年後のいまも多くの人が参詣しているのか。それはひとえにお大師様が承和2年(835)「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば我が願いもつきなん」(衆生を未来永劫救ってやる)とおっしゃり高野山奥の院に入定されているからです。
 生身のまま「定」にはいっておられ、現在も衆生済度につとめられているからです。
また「一度参詣高野山 無始罪障道中滅」(高野山秘記)といわれてもいます。一度高野山にのぼると罪業がみな消えるということです。
 平安時代には藤原道長、頼道親子がそれぞれ奥の院に参拝しています。
道長は奥の院に「金泥法華経」「般若理趣経」を納経しています。
白河上皇、鳥羽上皇、後宇多法皇なども参拝しています。 昭和天皇もお参りされました。





 奥の院参道の両脇には歴代天皇、法然上人、親鸞聖人、などの各宗の祖師方、熊谷直実、平敦盛、上杉謙信、武田信玄、織田信長、明智光秀、柴田勝家、豊臣秀吉、徳川家康、結城秀康等戦国武将の6割の墓所が並ぶといわれています。  奥の院参道には、数々の句碑や歌碑も点在します。「父母(ちちはは)のしきりに恋し雉子(きじ)の声」松尾芭蕉、「炎天の空美しや高野山」高浜虚子などなどです。

 また16世紀には高麗陣敵味方供養碑碑を島津義弘、忠恒親子が造立しています。
最近では北ボルネオ戦の日本軍、豪軍、現地人の総霊供養塔があります。
白蟻の供養碑や企業の殉職碑も多く建てられています。
関東大震災の慰霊碑や近くは東日本大震災の慰霊碑もあります。数年前にどこかで禅僧が東日本大震災で物故者を出した人からどこに供養を頼めばいいか相談されて迷わず高野山の供養塔に入れてもらうよう勧めたといいます。
20万基の石塔があるといわれます。 こういうものをみると生死の海を流転するいのちということをひしひしと思わされます。仏教は死をどう捕らえているのでしょうか。そして「いのち」とは何でしょうか。それについて、世親の『倶舎論』には、心不相応行法の一つとして「命根」があり、「体温や意識を保持する勢力で、寿命のことである」と定義されています。これが仏教の説く「いのち」です。これは言い換えれば、「生死するいのち」です。従って、仏教で説く「いのち」には生と死が含まれています。
 参道は樹齢数百年の杉の大木に囲まれ、師僧の墓もここにあります。成満のご挨拶をしました。行く前に杉の落ち葉など掃除してきれいにしたはずなのに1ヶ月の間にもう落ち葉がたまっていました。
改めて掃除をしました。




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