第二十九 問答決着章(真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・・34
(真言宗には三十六流とも百流ともいわれるほど分派があるが、山高れば谷深く、源深ければ派分かれるは自然の理。事相教相に亘って多くの分派を生ずるはこれ即ち高祖大師所伝の真言密教が深高無際なる故である。)
問。真言宗には幾多の分派これはあるは如何?
答。高祖弘法大師御入定の後、久しからずして野沢二流(小野、廣澤)に分かれ、二流より更に分かれ十二流になり、三十六流ともなり乃至百流ともなれり。まず高祖大師の上足に実恵大徳(道興大師)と真雅僧正(法光大師)の両師ありて学徳二つながら百世の師表たり。故に高祖はこの両師へは源を尽くして付法したまへり。この中、実恵大徳は之を真紹僧都(東寺の実恵から灌頂を受け847年(承和14年に)東寺二長者となり、その後853年(仁寿3年)京都東山に(永観堂)禅林寺を建立清和天皇によって定額寺となる。甥の宗叡に付法)、僧都これを宗叡僧正に、宗叡僧正(実恵から真言密教を学び、禅林寺の真紹から灌頂を受け真如法親王とともに渡唐、東大寺や東寺長者)はこれを源仁僧都(実恵に密教を学び,真雅・宗叡に灌頂を受けた。学名が高く南池院成願寺を建立して宗義を講じた。弟子の益信が広沢流を、聖宝が小野流を開いて、以後東密はこの2流に分かれた。)に付嘱したまふ。彼の真雅僧正も直ちに源仁僧都に付法したまふ。この故に高祖所伝の一宗の大事は悉くこの源仁僧都に集まれり。僧都にまた二人の高弟あり。聖宝尊師(理源大師)、益信僧正(本覚大師)これなり。聖宝尊師は小野流の元祖、益信僧正は廣澤流の元祖也。小野流について明かせば、聖宝尊師は之を観賢僧正に、観賢僧正は之を淳祐内供(菅原道真の孫、般若寺の観賢に師事して出家・受戒し、925年(延長3年)に伝法灌頂を受け小野流を継いだ。延喜21年(921年)11月、師・観賢とともに醍醐天皇の勅命によりお衣替えに奥の院御廟を訪れ共に御廟内に入り弘法大師のお膝に触れた後、淳祐が書写した経典にも同様の薫りが移った。これを「薫の聖教」という)に、内供は之を元杲僧都に、僧都は之を仁海僧正に伝えたまふ。仁海僧正は小野の曼荼羅寺(後の随心院)に住して盛んに宗風を発揮したまひしかば、小野流の名称このときに始まりぬ。(「胎蔵界礼賛」の作者)。仁海僧正の付弟を成尊僧都といふ。成尊僧都に三人の付法あり。範俊僧正、義範僧都、明算上人これなり。明算上人は高野山に住して中院流を起こしたまふ。範俊僧正の正嫡を厳覚僧都(勧修寺別当で廣澤流を受伝するとともに範俊から小野流を受伝。東寺二長者、神泉苑の雨乞で効験、宮中で仁王経法を修する)といふ。この厳覚僧都に三人の英俊あり。曰はく、寛信法務(勧修寺流の祖)、増俊大徳(随心院流の祖)、宗意律師(安祥寺流の祖)なり。(範俊と兄弟子の)義範僧都は之を勝覚僧正に伝えたまふ(勝覚は醍醐寺定賢に師事し、義範から伝法灌頂を受け、醍醐寺15世座主、白河上皇戒師、範俊・義範・定賢の三つの法を一身に具るとして三宝院と名つけて醍醐寺に一院を建立)。勝覚僧正にも三人の嫡弟あり。定海僧正(三宝院流祖)、賢覚法眼(理性院流祖)聖賢僧正(金剛王院流祖)なり。これを醍醐の三流といひ、さきの勧修寺流、随心院流、安祥寺流と合して常に小野の六流と称するものこれなり。
次に廣澤流に就きて言はば、益信僧正は之を寛平法皇に伝えたまふ。寛平法皇とは即ち宇多天皇にして出家の御諱は空理なり。法皇は之を寛朝僧正につたへたまふ。寛朝僧正は廣澤の遍照寺に住して広く法幢を樹てたまひしかば、廣澤流の名称この時に始まりぬ(寛朝僧正は宇多法皇の孫。宇多法皇の下で出家。真言宗では初めての大僧正。円融天皇の戒和尚。円融天皇の命により広沢湖畔に遍照寺を建立。平将門の乱で関東に下向し祈祷、その不動明王を本尊として創建されたのが成田山新勝寺)。寛朝僧正は之を済信僧正に、済信僧正は之を寛助僧正に付法したまふ(寛助僧正は源師資の息、遍照寺・仁和寺・円教寺・広隆寺・東大寺・法勝寺別当、東寺長者、御室に成就院を開創して法流伝授(成就院流)、鳥羽天皇、白河上皇の病気平癒を祈る等、宮中や鳥羽殿に孔雀経法・大北斗法を修する事20数度)。寛助の門下に三十三人の付法あり。中に於いて七人の大徳ありて各々住する所によりて自ら一流をなすに至れり。曰はく
覚法親王(仁和御流の祖)信正僧正(西院流の祖)聖恵親王(華蔵院流の祖)寛遍大僧正(忍辱山流の祖)覚鑁上人(興教大師、伝法院流の祖)真誉上人(持明院流の祖)なり。この中
持明院流を除き他の六流を、(小野の六流に対して)廣澤の六流と称す。後世百余の流派は概ねこの野沢根本十二流より出たるなり。
以上は事相門の属する分派なり。教相門に於いては、頼瑜法師、大日経の教主に就きて本地・加持の二義を分かち、而してその本地身は六大一実無相絶対の仏にしてこの位に於いては言語説法の義あることなく、本地法身神変加持の三昧に入りてはじめて言語説法の義をおこしたまふ。之を加持身説法といふ。この加持身即ち真言の教主なりとの新説を唱導せられし以来、従前の本地身教主の説を古義といふ。この所説を新義と呼びて自ら二派にわかるるに至れり。又、同一本地身説の上においても東寺、高野の間に而二不二(迷・悟、理・智、生・死、金・胎等は二つであって一つ)の説を異にする等凡そ教相門においても程々の分派あり。蓋し、山高れば谷深く、源深ければ派分かるるは自然の理なるがゆえにこの如く事相教相に亘って程々の分派を生ずるはこれ即ち高祖大師所伝お真言密教深高無際なるが故也。