「高野山興廃記・奥院御拝殿七寶塔福御舎利三粒事」
「新院の御宇、承久二年1220庚辰八月二十六日癸未、東寺御舎利二粒幷に室生寺御舎利一粒を奥院御塔に副納さる。是則ち宣陽門院の御安置矣。御使者権少僧都行遍也。于時寺家検校法橋覚海執務の間の事也。弘法大師御入定三百八十六年の事也。」
後白河法皇の第六皇女宣陽門院は当時権勢を誇ったようです。弘法大師に深く帰依し東寺に荘園の寄進を行っていますがその見返りでしょうか御舎利を高野山に寄進させたのは。
「高野山興廃記・奥院御拝殿七寶塔福御舎利三粒事」
「新院の御宇、承久二年1220庚辰八月二十六日癸未、東寺御舎利二粒幷に室生寺御舎利一粒を奥院御塔に副納さる。是則ち宣陽門院の御安置矣。御使者権少僧都行遍也。于時寺家検校法橋覚海執務の間の事也。弘法大師御入定三百八十六年の事也。」
後白河法皇の第六皇女宣陽門院は当時権勢を誇ったようです。弘法大師に深く帰依し東寺に荘園の寄進を行っていますがその見返りでしょうか御舎利を高野山に寄進させたのは。